無知の行き着く先 15
真朱の巨柱、喚びの塔。
幾度と眺めてきたであろうハルシであっても、その声には深い畏敬の念が込められていた。
「あの塔の天辺へ雷を一万一千撃、日暮れから夜明けまで叩き込むんだ。曇天郷で最も明るく、眠れない夜になる。こっちだ、祭祀場にいこう」
先導する足跡を辿りながら、ゴクロウは暗算する。
ここ数日の体感だと夜光族が姿を消し、再び現れるまでの時間が約十五時間。
「だいたい五秒に一度は落雷が起こるのか。耳がおかしくなりそうだ」
「そうだね。そして次の日には一帯が晴れ渡る。するとあの稜線の向こうに」
ハルシは雪上に矢印を刻み込んだ。
彼方の端へ遠望を利かせる。
分厚い雲に覆われており、先は一切映らない。
「煤湯の街の南端が現れるんだ。君達が次に目指す場所さ」
方角にしてだいたい北北東の位置。
曇天郷の中枢。七千栄華の街、煤湯。
ゴクロウは尾根を辿りながら、悲愁漂う声に向かってにやりと笑いかけた。
「寂しいだろ」
ハルシの足跡が立ち止まる。
「ああ、寂しいな。許されるのなら、君達に付いて行きたいくらいだ」
予想外の返事だった。
一族の元から離れて旅に出たいという願望があるのは知っていた。今の表情は窺い知れないが、少々、真に迫る勢いだった。
「彼女はどうする。新婚早々、別居か」
「分かってるよ。言ってみただけだ。もし離れるきっかけがあるなら、ってね」
「ふうん、ならいいが」
二人は喚びの塔を横目に、雪を掻き分けて目的の場所を目指す。
ゴクロウはあえて口を噤み、焦土めいた景色をただただ眺めていた。
ハルシがぽつりと呟く。
「子供ができて、笑顔の絶えない家族を育みながら商売を学んで、頃合いを見計らってからなら、旅立ってみたい」
「ユクヨニさんみたいにか」
「いや、父上は俺がこの世に居ようと居まいと、あちこち巡り回っていたよ。穏やかそうな見た目なのにさ、一つの処にじっとしていられない性格、わかるだろ」
「ああ、想像つくな」
「父上が他の氏族長からいかに揶揄されようとも、夜光の一族がこれからも末永く繁栄する為には外部の力が必要不可欠だ、って昔から言っていた。皆に認められた今でも曇天郷中を駆けずり回ってさ、父上が恐れ狩りと懇意にしていたお陰で、泥暮らしの脅威にもなんとか対抗しつつある。今回の件で穏健派の氏族からも羨望の眼差しを集め始めて、褒め称える声が上がっているらしいんだ。それが俺の父上だって言うんだから、誇らしいじゃないか」
ゴクロウは黙って聞いていた。
ハルシが心の底から喜んでいるようには思えなかった。
「誰よりも尊敬する一人ではある。でも完璧な人じゃない。自分の家族よりも、他の家族を優先するような人だ。俺が子供だった頃の父上の記憶は、母上が語る逸話の中。想像上の人物でしかなかった」
「そうかい」
立ち入った話にゴクロウはただ相槌を打っていた。
「あ、いや、これじゃ愚痴ってるみたいだな。すまない」
言葉通りに受け取ればそうかも知れない。
だからこそ、ゴクロウは笑って一蹴した。
「経験を糧にしようと考えて、自分の家庭を大切にしたいと思っているんだろ。てことはハルシが親父を尊敬すればするほど、お前は良い父親になるってもんだろ」
「そうかな、はは、いてッ」
照れ笑いするハルシの肩を小突いた。
連日の共同生活により、注視すれば透明な輪郭が薄らと浮かぶ程度には眼が慣れている。
「お前は商才よりも武才を磨いた方が伸びると思うけどな。シクラン殿みたいな」
「暑苦しいのは、ちょっとなあ」
雑談を交えつつ進む。
落ちれば無事では済まされない崖下を覗くと雪の塊が落下して並んでおり、つい最近まで雪庇が形成されていたと推測する。
複数人の足跡が残り、人の手で除雪、整備されているのだろう。
崖沿いの山道から山林へ。雪に埋もれた石の灯籠が見える。
二人は祭祀場へと伸びる参道へ出た。
「これから一族総出で参道を綺麗に掃くんだ。道の端に雪像も造るんだけど、今年はどうなることやら」
樹々の影に閉ざされた道を真っ直ぐ進む。
大きく大きく突き出た崖先に、屋根の無い祭壇がぽつんと鎮座していた。
「あれか」
「ああ、雲仙四天の広場までなら行っても大丈夫だから」
大雑把に払われた雪を踏みしめ、木立を抜ける。
解放感。
吹き曝しの祭壇へと続く、四体の石像に囲まれた正六角形の広場。
見晴らしが良い。喚びの塔は当然ながら、広大な禁足域の盆地が一望できる。
二人は広場の中心に立った。
北東、北西、南西、南東に座す四体の精巧な石像は丁寧に雪が払われている。
ゴクロウは見覚えのある南東の像を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「これが雲仙四天名か」
「ああ。郷の各方位を守護しておられる」
ハルシは掌を向け、丁寧に指し示した。
「南東、凍て雲山脈の王。氷霧様」
胡座を掻く蓬髪の魁偉は雲を纏う。
厳冬を思わせる険しい面構え。
「北東、果ての絶崖の鎮守。廻彩様」
日輪を背負う赤子。慈悲に満ちた面は三つ目。
座す位置はどの垂迹者より高い。
「北西、郷境の川。闇雨様」
人の腕が無数と生えた凄烈たる蟒蛇。
うねり荒ぶる滝の如く長大。
「南西、腐血ヶ原の征伐主。灼雷様」
欠けた左腕には錫杖が添えられ、右手には瓢箪。
凡ゆる瑕疵を総身に刻まれた女体。
「そしてこの広場は郷、つまり曇天様を表す。御尊顔を踏む訳にはいかないから、あえて像は彫ってないんだよ」
ゴクロウは一通り見渡すと、こつこつと護人杖で石床を突く。
「曇天郷の地理を単純に表すなら、俺達の立つ中心は煤湯って訳か」
「ま、そうなるね。煤湯か」
ハルシも自前の杖を旋回し、雪を払って軽く身体を慣らす。
「君もいずれ、この曇天郷に名を轟かせる一角の人物になるんだろうね」
脳裏に、名声を欲しがる賊の言葉が過った。
ゴクロウは鼻で笑い、構える。
「ハルシ。俺が有名になったら、お前の名も知れ渡るぞ。極悪人を手助けした最初の一人だってな」
「はは、伏せ字で頼む」
ぼんやりとした輪郭の人型が構えに入る。
表情まではまだ見分けられないが、いつにも増して強張っているのだろう。
婚礼に交わす品だ。無理もない。
夜光のしきたり曰く、それに強い想いが乗っていれば、形が無くとも構わないのだから。
「来い。お前が選んだんだ。殺しの技を、活かす技に変えてみろ」
けたたましい音が鳴り響く。
二人は日が暮れるまで打ち合った。




