敗走 4
逃走経路は真冬の外。それでも臆せず、先へ突き進んでいく。
「おらッ」
横合から角材が飛び出す。
狡猾な雑魚が隠れているのは知っていた。先手の先手、裏拳で鼻を潰し、顎を砕き、目を斬り裂く。急に死にはしないが、再起も出来まい。
また一人、また一人と詰所らしき部屋から現れ出てきた。数えて七名。取り囲まれつつある。
他の雑魚とは少し様子が違って肝が座っている。連中は上半身裸で顔が赤く、そして酷く酒臭い。
ちらりと詰所の窓を覗くと、若い女が三人、裸のまま項垂れていた。肌は全身青褪め、至る箇所に赤紫の痣が浮き、血に塗れている。視線を戻せば、妙に落ち着き払った下衆共。
「覚悟しろ」
冷たく唸る。
今までになく全身の血が沸騰。
敵に何らかの行動を起こさせる前に一気に肉薄、二人の首を段平で深々と斬り払う。喉に埋もれた刃を抜き切れない。
隙有りと後に続いた一人の剣を、死骸を盾にして受ける。転身。死角を突き、短剣を背部から胸部へ掛けて突き貫いた。
左右から斬撃の気配を察知。
即座に左を蹴り飛ばし、右からの斬撃、雑魚の手首を掴んで阻止、顎へ掌底一発。そのまま胸倉を掴み上げ、怪力任せに振り回して石壁に叩きつけた。あらゆる骨が折れる感触。石畳へ更に叩きつける。
力を入れ過ぎた。死骸の穴という穴から毒々しい血を流していた。鈍の曲刀と短刀を奪取。
「ひい」
蹴り飛ばされて吹き飛んだ左雑魚の腹部へ短刀、頭部へ曲刀を投擲。石壁に血の華が開花。死骸へ大股で近付き、曲刀だけ捥ぎ取っては次の標的へ投げ放つ。だが大雑把な狙いに気付かれ、弾き飛ばされた。
(無駄に一手増やした。落ち着け)
徐々に冷静さを取り戻していく。
背後から忍び寄る気配。問題無い。身を翻して刃の一突きを躱す。そのまま逆に背後を取り、刃の柄を握る男の右手ごと、右手で握り潰した。落とした刃が石畳の上で喧しく跳ねる。
「痛でえッ、離」
煩い口に腕をあえて噛み喰らわせ、頭を抱き込んで耳を握った。肩を掴んで全力で捻じ曲げる。
バタバタと踠く腕。必死に抗うが徒労に終わる。首の可動域を僅かに超えた辺りでガクリと垂れ、みりみりぶぢぶぢと不快な音。正面から真逆を向いた辺りで血の泡を吹いた。もう充分だろうと投げ捨てる。
討ち漏らした一人は背を向け、暗い外へと逃げ去っていた。
使えそうな刀と短剣、槍を掻っ攫う。投げて当てるには遠い。見逃すつもりなどなく、だが背後からは厄介な敵が近付いている。追うのが最善だった。
走りながら斬られた側頭部へ掌を当てる。血がべっとりと付いていた。痛みよりも熱の方が強い。死骸から布切れを引き千切ると、ぐるぐるときつく巻き付けて圧迫止血を試みる。出血が止まらない。また一歩と死に近づいていく。嫌な予感も拭えない。
向かう先は暗い極寒の地だ。
幹の堅い針葉樹林が目前に広がっている。植生から察するに標高千五百以上の山岳地帯に居るのだろう。暖を取れなければ一晩明ける前に低体温症に陥り、一晩明けた頃には凍死体の出来上がりである。出血もしているのだから尚更早く死ねる。
ならば引き返して賊共を殱滅し、篝火の前で干し肉をあてに安酒をかっ喰らっていた方が生き延びる可能性はよっぽど高いだろう。
だが、本能が叫んでいる。此処は真冬の外よりも死に近い。
あの化け物と並ぶ程の悪魔がまだ潜んでいる。
脱獄野郎はついに暗い銀世界へ飛び出した。
細かな雪は柔らかく、容赦無く足許を冷やす。体温が急低下していく。夜は長く、時間との我慢比べなるのは必至だった。今はまだ細かい雪が舞っているが、山は気分屋。いつ猛吹雪になってもおかしくはない。篝火から燃焼直前の薪を取って松明代わりにして見回す。先ずは討ち漏らした雑魚の足跡を辿って。いや、これは。
雪の上には人の足跡ではなく、蹄の跡も混じっていた。
何処かに馬を繋いでいる厩があるのかもしれない。それはつまり、乗馬して行き来する道が近くにあるという証左でもあった。僥倖だ。馬を盗んで逃げれば生存する道が大きく開ける。
殺気。
「ッ」
反転。
音を頼りに矢を弾き飛ばす。屋上から降ってくる黒い影目掛けて薪を投げつけるが、闇夜に火の粉が舞うだけ。下敷きは不味いと脱獄野郎は背後へ跳び退った。
奇襲者は音も無く着地。
盛大に舞い上がる雪を纏いながら即座に跳び掛かってくる。激しく響く剣戟。
鍔迫り合いに持ち込まれた。
「外は寒いわ。戻りましょうよ」
眼前に迫る、底冷えする笑み。
蛇眼の化け物は華奢な身体にそぐわぬ馬鹿げた膂力で脱獄野郎をぎりぎりと押し込んできた。