そこに住まう者たち 3
妙な印象の樹だった。
突如、樹の幹を沿うようにして亀裂が走る。無数の樹皮に枝分かれて不気味に膨張すると、すぐに収縮。全く違う樹の姿へと変形した。
寒気がする。
樹幹に空いた虚から、一本の子供の腕のようなものがだらんと伸びていた。
「うわ」
生理的嫌悪に苛まれたアサメは二の腕を摩った。
すると樹から生えた腕も幹を摩る。明らかに真似をしていた。
「ハルシ、何だあの悪趣味な樹は」
「猿真似松だ。近付くなよ。一瞬で喰われるぞ」
アサメは不快そうに表情を歪め、視線を背けた。
「本当に気色悪いです。無理」
「面白え樹だ」
対するゴクロウは目を輝かせ、興味津々に観察していた。
「あの化け松の周辺だけ、妙に樹々が少ない。間隔を開けて植わっている、というより必要分だけ間引いて減らしていると言った方が近いな。完全に孤立していないところが小賢しい。あの様子だと豪快に獲物を捕まえるんだろうな」
「そうだね、擬態幹を一気に広げて上下左右から喰らいつく。大きい獲物は殺さずに傷だけつけて養分を奪い、種子を体内に打ち込んだ上で逃す。小鹿くらいなら丸呑みだね」
「しかしどうやってこちらを捕捉しているんだ」
「そこが面白いところでね、針みたいな根を獣道や人通りのある道に伸ばして、振動で姿や動きを感知しているんだ。つまり」
勘づいたアサメはさっと飛び退き、ゴクロウの背後に回った。
猿真似松は腕をだらしなく下げたまま動かない。獲物の真似事を止めた。
ハルシは可笑しげに笑い、言葉を続ける。
「アサメが立っていたところに生物を感知するための根が張ってあった、と」
アサメは大きな背中からひょいと顔を出し、ハルシがいるであろう虚空に非難の目を向けた。
「知っていたんだったら先に言ってください」
「ごめんごめん」
たまに悪戯をするハルシであった。
「だが、あれほど大きく動いて獲物の真似をしちゃあ、警戒を誘うだろうよ」
「今のはわざとさ。ここを人の足が何度も通過して、さらにたむろまでしている。下手に誘って手を出しても報復されるのが怖いから、威嚇したのさ」
ゴクロウは深く感心して何度も頷いた。
「知恵の働く奴だ。猿の名は伊達じゃないな」
「だな。そろそろ行こうか。また危険な動植物を見つけたら知らせるよ」
未知への探索はまだまだ続く。
動植物や自然に全く興味がないアサメは嫌がる一方だが、ゴクロウに至ってはあちこち見回しながら隊列に続いた。丸一日歩き回っても物足りない。赤黒い粒を実らせた植物を摘んで食し、雪玉を纏う栗鼠を追いかけようとして止められ、光珠虫の潜む洞穴と、そこへと続く三本指の大きな足跡を見つけてはまだ見ぬ姿に想いを馳せる。
次第と枝葉の密度が広がっていく。森の外へ向かうにつれて開いていく樹々の木立。歩き慣れている夜光一族の調査隊は高い歩速を保ち続け、予定通り森林と湿原の狭間まで到達した。
広大な雪原。
湿原らしいが今は冬だ。真っ白な地平線が広がっている。
ゴクロウは大きく伸びをした。視界を鬱蒼と覆う森から解放された気分だった。
「気持ち良いな」
「解る気がします」
「晴れていれば、もっと爽快なのによ」
「ですね」
ゴクロウとアサメは曇天を見上げた。
分厚い雲は切れ間なく、ごく薄暗い光が滲むようにして地上を照らす。
信心深い巡回者らの足跡が立ち止まり、跪いた。曇天へ向けて深い礼を捧げている。長い祈りを終え、一人、また一人と森へ戻って経路の整備作業へと向かっていく。
「二人とも、曇天様の御尊顔と拝見はできたかい」
隣からハルシの声が聞こえた。
改めて見上げる。ただただ分厚く天を隠す曇りの空。
「いや、全くだ。こじつければ見えなくもないかな」
「私も」
夜光の一族はこの果てしなく広がる雲を信仰対象として崇めている。
生ける自然。覚せし自然。
命ある偉大な存在として。
「仲間だね。俺もなんだ。信仰心が薄いんだろうな」
ハルシは肩を竦めて笑った。
「心から祈れば拝めるのか。その御尊顔とやらは」
「俺はまるっきりだけど、少なくとも御婆上なら知っているだろうね。精素との親和性が高くて、その上で感応術や精素に対する知見を深めて初めて拝めるらしいよ」
「そうか。どんな顔してるんだろうなあ」
ゴクロウは特に掘り下げなかった。今は作業の方が先決である。
差し込む光の傾きから大体の時刻を予測する。あと三時間ほどで日没。その頃には行商隊が到着する。荷馬橇が通るので、除雪をしてある程度の幅を広げなければならない。
ハルシは誰よりも張り切っていた。




