ゴクロウとアサメ 4
目に見えて凍てつく川面。勢いを増す渦は吹雪を呼び、ゴクロウとアサメの体表には霜が降りた。もう己の意思では抑えられない。震える身体はもはや痺れを伴い、血の気が失せていく。
『ほしい、ほしい』
ゴクロウはついにそれと邂逅した。
「言ってみろ。何が欲しいんだ」
吠えるのが精一杯だった。
細い吹雪の渦。
それは尋常ならざる法則により、人の形を象っていた。
首はあるが、頭部は無い。
ゴクロウの三倍はあろうかという上背。しかしそれは健常な人の身よりも異様に細かった。
地面に届きそうな枯れた細腕を伸ばす。
掌だけは異常に膨らんでいて大きく、樹の根っこの様な指をゆっくりと広げた。ゴクロウは逃げようともがくが、身体が金縛りに見舞われて避けられない。手が勝手に開き、短剣も落としてしまった。
雪の怪異は巨大な手で、二人を丸ごと鷲掴んだ。
「ぐ、ぐ、アサメ、無事か」
まるで氷の綱で締め上げられていくかの様。問いかけに返事はない。少女はひたすら震えていた。このまま圧迫されれば華奢な身体は簡単に折れてしまう。
どうすれば、と顔の無い首を睨む。
それはゆっくりともたげ、ゴクロウの鼻先まで寄せた。
『ほしい。つらがほしい。ほしい。つら、ほしい』
いくつもの怨念が重なって脳裏に直接響いている。
寒さで小刻みに震えるゴクロウは歯を打ち鳴らしながらも、目を逸らさない。
「もっと似合う顔を探してこい」
噛み付くように言葉を返す。
『むすめがほしい。ほしい。ほしい。ほしい。むすめ』
節くれた指がぎちぎちと食い込む。体内からみしりと嫌な音。
「ぐおおおあああああッ」
危機的な痛みが脳を総動員させた。
筋骨の制御を解除、全身の筋繊維が盛り上がる。ゴクロウは限界を超えた怪力を発し、ほんの僅かだが押し返した。保ってあと十、否、数秒。
「アサメ、今だ、逃げろ」
「あ、が、身体が、凍って、い」
声を出すだけでも精一杯そうだった。
ここまでか。
ゴクロウはぎり、と奥歯が砕けんばかり噛み締める。鼻血が垂れる。鼻だけではない。眼は充血し、涙腺から一筋の血が流れた。
せめて力の限りを尽くさんと牙を剥いた。
「おい、お前」
その相貌はまさしく鬼の形相。
「二度とふざけた口、聞け、ねえように、燃やしてやるよ」
魂を絞り上げて生んだ言霊を、それが汲み取った。
頬、顎と伝うゴクロウの血液。溢れた真紅の一雫が雪の怪物の巨手を穿つ。
暴、と水蒸気が発生。
『あつい。いたい。いたい。いたいいたいいたいあつい』
拘束が緩む。振り解く。
ついに言葉にならない絶叫を張り上げ、怪物が大きく仰け反った。腕を振り上げ、悶絶する。
「俺も、欲しいんだが、よ」
好機を逃すほど、ゴクロウは甘くない。
滴る熱血を右手、左手と交互に拭う。瞬間、赤熱する両手。硬く握り締めて拳を作ると、よろめきながら立ち上がった。
脚が痛むのを無視して駆け、無茶苦茶に振るわれる長大な腕を容易く掻い潜る。
「寄越せるものなら」
左拳で一発、枯れ木の様な胴を打ち抜く。爆煙を上げた長躯は真っ二つに折れた。
崩れ落ちてきた首目掛け、右拳を全力突き上げ。
「血をよこせッ」
爆散。
周辺へ拡散する蒸気。朦々と熱を放つ。冷えた身体にはちょうど良い。
晴れた頃には、怪異は跡形もなく消え去っていた。
ここが今際の際か。
膝から力が抜けるのを感じ、尻餅をついて崩れ落ちる。諦めたように仰向けに転がる。視界の端が黒く狭窄。限界を振り切った代償として全身に不快な寒気と吐き気が回る。
「アサメ」
へたり込んだままの少女へ顔だけ向けた。元の銀髪と鋼の瞳に戻っているのを確認し、安堵の息を大きく吐く。
怯えか、寒気か。アサメは感情の読めない顔でただただ震えていた。
「約束は覚えているな。行け、逃げろ」
少女は茫然自失としたまま、よろよろと立ち上がった。落とした短剣を拾い上げると、ゴクロウの元へ歩み寄る。
「もう、いいです」
すぐ横に力無くへたり込んだ。
虚ろな視線が注がれる。
「大切な記憶は忘れて、人の殺し方はこの気持ち悪い身体が覚えていて。怖い。嫌。こんな悪夢、早く抜け出したい」
か細い声を漏らした。悲痛な感情が、割れた心の隙間からついに溢れた。
「消えたらお前の身体を弄り回した奴を殺せないぞ」
「いい。もう何も考えたくないッ」
哀絶と絶望の叫び。アサメは今にも首を掻き斬りそうで、手元の短剣を見つめていた。
ゴクロウは小刻みに震える腕を伸ばし、刃をできるだけ優しく挟んで掴む。
「刃物で死ぬのは苦しいぞ。散々斬られた俺が言うんだ。間違いねえ」
静かに手を引いただけで、簡単に取り上げられた。腕の重さだけでぞんざいに投げ捨てる。からんからんと虚しく響き渡った。
「アサメ、ちょっとだけ横になってみろ。冷たくて気持ち良いぞ」
彼女は視線を落としたまま、寝ようとはしない。
ただ座ったまま、ゴクロウの胸に顔を埋めた。擦るように横を向く。
鋼の瞳と見つめ合う。
分厚い胸に頬を当て、耳で心音を聞き、小さな両手をそっと乗せる。冷たい掌の感触、ほのかな熱。柔らかい銀の髪。
酷く疲れた表情は無垢として精緻で、微塵と動かない。ゴクロウは胸中に湧く感情を父性愛と気付く。痛苦に蝕まれているのも忘れ、思わず笑みが溢れていた。
「何も考えないで、目を瞑るとな。瞼の裏は真っ暗なのに、色んな光景が浮かんでは消える。不思議なもんだと思っている内に、気付いたら朝だ」
何を言っているんだと訴える眼だが、トゲはなく柔らかい。
「目が覚めたらアサメを揺すって起こすんだ。朝だ、起きろってな」
「起きませんよ。もう冷たくなって死んでいます」
二人はずっと見つめたまま。
互いの瞳、その奥にいる自分でも見つけるかの様にじっと見入る。
「どうかな。そこはここよりずっと暖かくて、天井もある。俺達は寝床の上で一緒に寝ているんだ。お互い、元の世界に元の姿で」
アサメはあからさまに嫌な顔をして起き上がった。
「絶対に無理です。気持ち悪い。貴方みたいな野蛮な人が、目が覚めても近くにいるなんて」
辛辣な言葉などどこ吹く風とゴクロウは笑った。
「おう。じゃあ納得いくまで生き抜いてみろ」
「そういう問題ではありません」
「じゃあどういう問題だ、ん」
「何もかも嫌なんです。この身体も、この世界も」
ゴクロウは改めてじっくりと観察した。
「そうか。羨ましいけどな。自由自在に動いて魚捌きも林檎の皮剥きも楽々な万能尻尾」
「馬鹿にしないで」
「何故かは知らないが髪も眼も爪もお洒落に変わる素敵な女子」
「ちょっと」
「いいぞ。その姿で大きくなったら間違いなく美女になる。ほとんどの男が放っておかないだろうな」
「とどめ刺しますよ」
「それは困る」
むくりと起き上がった。
「は」
アサメは唖然とゴクロウを見つめた。
「あの、身体は」
痛む身体を大きく伸ばし、腕に力こぶを入れる。惚れ惚れする筋肉だと自負する余裕すらある。
「少し横になったからまた動けそうだ」
脚をひょこひょこと引き摺りながら杖を探し、拾い上げた。血を失い過ぎて身体が軽くなったのかもしれないと己に言い聞かせる。
「よし、休憩終わり」
アサメはぴくぴくと顔を痙攣らせる。それは小さな怒りだった。絶望に打ち拉がれ、生きる自信を失い、後を追って心中しようと血迷った己が恥ずかしかった。
「さ、急げ急げ。またあの気色悪い追手が来るぞ」
残り火で簡易な松明を作成したゴクロウはくるりと後ろを向くと、実に嫌味たらしい笑みをアサメに向けた。
「あ、お前、ここで凍死するんだっけ。さみしいなあ、じゃ、さよなら」
「私も行きますッ」
声を荒げて些末を掻き消すのであった。