ゴクロウとアサメ 2
逃走劇から小一時間は経っただろうか。
駈歩から速歩へ、並足を交えてまた速歩。持久力の続く限り、馬を走らせた。流石に動きが鈍っていた。
雪山はそれでも二人を離さず、冷たい闇で覆う。
(松明が消えかけているな)
ゴクロウ、そして少女アサメも激しく震えていた。二人は限りなく裸に近い。今も矮躯を大きな腕で抱き寄せ、互いの熱で温め合っている。それに馬から感じる温もりもある。だが、纏うボロ布は隙間だらけで、寒風が容赦無く入り込んでいた。氷点下に長時間晒された全身、そして血管は収縮し、指先、耳、鼻、顔は冷たい痛みから痺れへと移行。ゴクロウの左太腿の下は感覚を感じ難くなっていた。強い熱源を確保し、処置を施さなければ凍傷を負う。
何かないか。ゴクロウは馬上でずっと機会を窺っていた。
追手の追跡を完全に振り切り、身の安全を確保する道は何処に潜んでいるのか。
遠くから微かに何か聞こえる。
「水だ。川が近い」
馬の歩みを緩め、静かに近付いていく。せせらぎがよりはっきりと伝わる。
小さな沢が見えた。その上には簡素な橋。細めの幹が幾つか並列し、縄で束ねただけのものが渡っている。こちらは右岸、向こうは左岸。橋から川までの落差はそこまでない。水深は見るからに浅く、闇が溶け込んで黒々とした水が下流へと流れていた。積雪も少なく、岸が僅かに顔を出している。
ここだ。
「降りよう」
「ここで、ですか」
ああ、とゴクロウは腹を決めて答えた。
「馬はこのまま山道を走らせ、俺達は水中へ直接降りる。追手が馬の足跡に気を取られている内に、俺達は別の道を辿って下山。どうだ」
「私は構いませんが、その脚では無理では」
最もな意見だった。
「適当な枝を拾って杖をつく。水分も取れるし、どのみち、その消えかけの火じゃ立ち往生だ」
他の名案は思いつくだろうか。
「判りました」
そうと決まれば話は早かった。
二人は腰掛ける様に乗り直す。並足の馬から飛び降りる間を見計らい、先にアサメが飛び降りた。
ゴクロウは感謝を込めて馬を撫でる。右腕をしならせ、馬の尻を一発、思い切り叩きつけて飛び降りた。声高い嘶き。水が勢い良く飛沫く。よろめきはしたものの、抜群の運動能力を発揮、着水を成功させた。
「ありがとよ」
闇夜の奥へと走り去っていった馬へ、届かぬ礼を告げた。
「どうぞ」
アサメは杖代わりの枝を探してくれていた。やたらと黒っぽい樹皮。手頃な長さ、太さ。多少なら体重を掛けても折れそうにない。
「助かる。ほら、抱っこしてやるよ」
一切無視したアサメは、ばしゃばしゃと前へ進んでいった。
静かだが骨身に滲みる水流が二人の体温を更に容赦無く奪っていく。橋が見えなくなるまで沢を降り、また更に充分に距離を取ると漸く岸に上がった。
道なき道だが、全く歩けない程ではない。岸が途切れればまた沢に入り、上陸を繰り返す。闇に紛れて下流へと辿ると同時に火口になりそうな枝葉を毟る。万が一を備えて痕跡を残さないよう茂みの奥から採集する。薪に適していそうな乾いた枝も探す。また、水分摂取ができるとは言ったものの、冷めた身体に冷水を流し込むのは躊躇われた。水分も大事だが、今は活力の源となる炭水化物が欲しい。ゴクロウは積極的に拾い食いをして歩いた。枝に実っていた青黒い小粒の果実を噛み、軽く転がして吐き出す。時間経過と共に異常を感じなかったので寄せ集めて食べる。葡萄のような、だが青臭い味。他にも蔓の根を掘り、取り出した茎を肌に貼る。赤く気触れたものは川に捨て、可食できると思ったものは何でも口に入れて嚥下した。糖分を含んでいるので甘味が強い。アサメにも勧めたが、自分は良いと何度も断られた。
かなり進んだだろう。沢と沢が合流し、川幅に広がりが見受けられた。
もうすぐ、松明の火が消える。
二人は切り立つ崖と大きな岩陰の間に隠れ、風を凌いだ。此処がいい。
薪を並列にして組み、火を起こす。星形に組むより燃費は悪いが、熱量は大きい。長居するつもりもなく、今は早く暖まりたかった。降雪地帯だが、此処らは思ったよりも湿気が少ない。火口と薪を拾い集めた甲斐があった。ある分だけ全て火にかけると、焚き火はみるみると燃え盛っていく。
暖かい。
僅かな休息が訪れた。