死闘宗の殺戮手 13
煤湯の歓楽街、舞燈町にある小高い屋上。
もう何度目か。硬貨を弾く甲高い音が、騒つく夜の空に鳴いた。
自由落下してきたそれをゴクロウは掴み、掌の中で転がすと懐にしまう。火傷で爛れた腕が痛々しい。
警兵隊などはとうに撒いて、不夜城の光景を高みから見物していた。
殺人及び爆破の重大事故が近場で起こった直後にも関わらず、酒に酔って行き交う誰もが何の気にも留めていない。お気楽と幸せを謳歌する雰囲気は、嫌いではなかった。
軽快な足音が一つ、背後に降り立つ。
「戻りました」
「おかえり」
振り向くとアサメは実に不服そうな顔で歩み寄ってきた。
肩の傷はともかく、比較的軽度だった火傷はすっかり癒えていた。どこからどう見ても旗装の商売女である。
「変な輩に絡まれなかったか」
今のアサメは雑多な歓楽街によく溶け込んでいた。使い走りにはもってこいである。
「睨み殺しました」
手に持つ紙袋をがさりと突き出す。香ばしい食欲の香り。
「おお怖い怖い」
言葉とは裏腹に満面の笑みを浮かべるゴクロウは受け取ると早速開け、空腹を促す湯気を浴びる。手を突っ込んで中身の肉串の一つを取り出した。飴色のたれが染み渡る肉の連なりを頬張る。
「ぐああ、こいつぁ酒だッ」
「ありません」
大袈裟に喜ぶゴクロウを、ぴしゃりと窘めるアサメ。
「貴方に財布の紐を任せておいて口出しするのも何ですが、少々金遣いが荒いのでは」
言いながら一つ取り出して食べる。
「大丈夫だって。稼げばいくらでも手に入るんだからよ」
ゴクロウはもはや三本目に取り掛かっていた。
アサメは何だかな、と溜息を吐きながら隣に腰掛けた。
「で、投げつけられたあの硬貨は結局なんだったんですか」
ああ、とゴクロウは串を咥えて懐から取り出すと、弾いて渡した。難なく掴んだアサメは緋色の硬貨を掲げ、しげしげと見つめる。
厚みと重量のある鋳造物は豪華に遇らわれ、縁周りにも細かい彫刻が施されている。表に流通されている品とは到底思えない。
「それ以上でもそれ以下でもねえな。正真正銘、暗殺者の硬貨だ」
「やっぱり」
アサメの勘は当たっていた。
八百万年前、遥か遠い過去。
幾つもの仇名を刻まれた軍人だった頃の名残りが蘇る。殺人を商売とする者同士でのみ信用取引のやり取りとしていまもなお使用される、忌まわしき代物。
「俺達も殺人鬼の仲間入りか」
「また殺し合いの道に投じるなんて。皮肉なものです」
表は睨みを利かせた狗、片翅の蝶の精緻な浮き彫り。
裏を返して、おやと注意深く目を細めた。“闘”の文字。
「漢字、ですか」
「ああ」
む、とアサメは右に首を傾げた。
視線を不夜城に向け、右往左往と巡らす。灯りに照らされた看板を心の中で適当に読み上げていく。
『食い道楽へいよまで、この角すぐ』『スリ注意。スってもスられても舞燈町警兵隊まで』『精力増強剤、冷えてます』などなど。
今度は左に首を傾けた。
「あの。あまり気にしなかったんですが」
「おう」
「なんで読めるんでしょうか。この街、初めてみる文字ばっかりですよね。あれとか」
冷やすと効くのか、と呟きながら今度はゴクロウが首を傾げた。
「なんでって。世界言語だろ。教わってないのかよ」
しばしと間延びする空白と疑問符。
首を傾げて固まるアサメであった。
「ぶふ」
見かねたゴクロウが噴き出した。じろりと睨み返す鋼の瞳。
「世界言語っていうらしいぜ。詳しくは知らないが、感応術とは別種の秘術が衛星となって地球を覆っているらしい。とにかく今日この世界に息づく全ての人間は世界言語を何故か知っていて、無意識的に喋っている。むしろ俺達だけだよ。過去から持ち込んだ化石の言語を使っているのは」
理屈は判らないが、ゴクロウが知っているらしいというのは理解した。
アサメの目が泳ぐ。
「そうですか、へえ、詳しいんですね」
この世界の文化に触れた始まりは同じであったというのに、実は一歩前を歩いていたゴクロウ。ちょっと悔しい気がすると膨れるアサメであった。
「暇を見て読み物を漁っていたからな。児童書だけど」
なるほど、勝てないわけである。
話を逸らしたいアサメは今一度、硬貨を見つめ戻った。
「あの殺戮手と狗、私達と同じ客人ですよね」
「だな。纏う精素が似ていた。息も合っていたし」
表か裏か、硬貨に彫られた狗の模様と見つめ合う。
「必ずしも人の形というわけではないんですね」
半身のことか、とゴクロウは察する。
アサメは半身だが、厳密には理から外れた特例。元は人間である。半身という人外を指す呼び名を聞いたり口にするほどには忌み嫌っていた。
「むしろ人型は珍しいんじゃないか。半身が宿る先の肉体によるからな。動物とか昆虫の方が多そうなもんだが」
宿る先の肉体。アサメの表情が曇る。
それはつまり、魂の抜けた死骸。如何なる理由があっても、人型の半身と共にする主身は人間の死に間近で関わっている事になる。
「経緯はあまり考えたくないですね」
「おう。知らねえもん考えるだけ疲れるってもんだ」
最後の一串を平らげたゴクロウは残骸を丸めると裏路地に設置された業者用の屑籠へ見ずに放り投げた。がさりと軽い音を立てて綺麗に入る。
「とはいえ、知らぬ存ぜぬじゃ痛い目に遭うのも間違いねえ」
「ですね」
巨軀を思わせない身軽さで立ち上がり、眠る気配のない歓楽街の営みを睥睨した。
「忍者野郎どもを追うぞ」