ゴクロウとアサメ 1
「恩に着るぜ、お嬢ちゃん」
「いえ」
それ以上の言葉は無く、馬足だけが闇夜に響き渡っていた。
粉雪を纏う微風。肌を刺す冷気。
背の高い樹々が鬱蒼と覆う山道を、松明の灯りを頼りにひたすら駆け抜けていく。雪は踏み固められており、何処までも続く闇夜を道なりに進んでは折り返し、進んでは折り返しを繰り返していた。往来があるという事は前方からはぐれの賊と出会す可能性もあるだろう。警戒を緩めず前方を睨みつける。
(臭えのが来たらそん時に考える)
ゴクロウは心の中で問題ないと言い聞かせながら荒い呼吸を整える。深傷を負った筈だというのに、傷は塞がりかけている。だが、血を流し過ぎた。少女、特に裸馬から伝わる体温が焼けるように熱い。体温差に開きがあるのだろう。極めて危険な状態であった。
倒れるにはまだ早い。
彼女は必ず、安全な場所へ送り届ける。それが無理だとしても、できるだけ麓の近くへ。贅沢を願えば、此処よりも暖かい場所がいい。
「おかしなことを聞くようだが、お嬢ちゃん、ちゃんと生きてるよな」
少し間が空く。
「何のことですか。生きてますが」
少女は訝しむように呟いた。
「そうだよな」
ゴクロウは眉間に皺を寄せて思い返す。
目覚めた牢屋。なぜ捕われていたのか知る由もないが、彼女は間違いなく死んでいた。仮死状態であったとしても、あの寒さの中で眠ってしまえば二度と目は覚めない。
だが彼女は目を覚まし、自身が死んでいた事にも気付かず抜け出し、隙を窺って助けに来てくれた。謎は謎として頭の片隅に置いておく。余計な追及は彼女を混乱させる気がした。今のゴクロウにとってはそれで充分に思えた。
「次、野蛮な奴等に目をつけられたら俺を身代わりにして逃げろよ」
また少し間が開く。
「善処します」
「まあ、いい。それとな」
「はい」
「どういう訳か俺は記憶がない。これが俺の身体である事には間違いないはずなんだが、それ以外は全部忘れた。俺のこと、見覚えあるか」
いえ、と即答し。
「私も自分の身体以外、ほとんど覚えていないので」
ゴクロウはあまり驚きもせず、そんな気がしていたと妙に納得した。
「良かったな」
「良くないですよ。頭大丈夫ですか」
人を殺すだけある。大男相手にまるで物怖じしていない。誰彼構わず喧嘩を吹っかけないか心配である。
「調子出てきたな。良いんだよ。過去を忘れて新しい人生始められるんだ」
反応はない。
「今のくたばりかけた俺じゃ、そう長く生きられそうにないがな」
笑いながら自虐をかます。
少女からやはり返事は無く、そのまま話は途切れた。
静寂の闇夜は何処までも続く。
松明が小さく爆ぜる。規則的な馬足。枝葉の擦れ。時折よく冷えた風が吹き、嫌でも厳しい現実を突きつけられる。見上げれば天は酷く暗い。分厚そうな曇天だった。
こんな場所で親子水入らず。馬鹿なと却下。本当だったとしても心から笑えそうにない。だが、ゴクロウにとっては不思議と嫌な時間とは思えなかった。
もし、奇跡が起こってこのまま二人とも生き延びたら。
暖かい家で、この子には真っ先に人らしい服を着させて。身体を拭いたら二人で温かい食事を取る。お互いの事をぽつぽつと話しながら眠る。英気を養ったら仕事を探さなければ。
真っ当な仕事に就けるだろうか。養っていけるだろうか。自立するまで、穏やかに暮らしていけるだろうか。
(いや、違う。そもそも俺は何をしたい。本当に親になるつもりか。いやいや)
何者であったか、何をしたかはどうだって良い。何者になりたいか。大切なのは何を心に据えて、何を為すべきか。熟考するにはまず、生き延びねばならない。
「名前も、忘れたのか」
「はい」
抑揚のない返事。
「麻布を巻いた女の子。麻子、アサコなんて」
「嫌です」
食い気味に断られた。相当嫌らしい。
「うん、じゃあ、麻、麻女、語呂が悪いな。“アサメ”ならどうだ」
答えはない。だが、アサコよりはマシとみた。
「よし、お嬢ちゃんはアサメな。俺はゴクロウと名乗ることにした」
だから何だと言いたげな雰囲気を無視して続ける。
「さっきは長くなさそうだと弱音を吐いたが、聞かなかった事にしてくれ。気が変わった。何がなんでもこのクソ寒い雪山を二人で抜け出して、俺は俺の為すべき道を探す」
火種はゴクロウの冷えかけていた心に燃え移り、炎へと変じた。
生きる気力が湧く。
「お前さんはどうする、アサメ」
「私は」
言いかける。言葉を待つ。
思いつかなければ、先ずは一緒に飯でも食おうか。
伝える前に、少女アサメは振り向いてゴクロウを見上げた。
殺気。
「私は、私をこんな身に覚えのない身体にした奴を探し出して」
鋼色の瞳。子供らしからぬ無機質な声と、精緻な美顔。
少女の小さな背中がもぞりと蠢く。
ずるりと。
麻布から姿を現したのは、異形の尻尾だった。体毛は無く滑らかな赤土色の地肌がゴクロウの方へすらりと伸びる。剃刀の様に鋭く尖った尾先が、胸に触れた。
それは硬く、誰かの乾いた血がこびりついていた。
「このお誂え向きの刃で、殺す」
彼女の声は静かな怒り、殺意に冷え切っていた。喜怒哀楽のどれにも属さない。感情が震えるのを意図的に抑えている。
それはゴクロウと同じく、殺人を生業とする者の心身掌握術だった。
「じゃあ、錆びない様に磨かないとな」
ゴクロウは否定せず静かな声で受け入れた。それだけでお互いが何者であったのか、言葉にせずとも察した。
今は似た者同士という共通点だけで行動している。
だが、もしも道を違えば。
尻尾はするりと麻布の中へと戻っていく。
先程とは別種の長い沈黙。実に居心地の悪い空気だった。