敗走 1
Live well. It is greatest revenge.
『生き抜け。それが報いるということだ』
~ The Talmud ~
ユダヤの聖典「タルムード」より意訳。
やあ。ついに君達を覚醒させる日が来たか。
久しぶりだね。忘れもしない。
あれからもう八〇〇万と一千、ええと五、六百年ほど経ったか。時代が幾つも移り変わるわけだ。
まあ大丈夫だろう。君達はこの私に刃向かえる強者だからね。
何処で起こそうか。ああ、良い場所を見つけた。
今度こそ、存分に生きるといい。
二度と離れられないようにしてあげたから。
薄暗く狭い檻の中、男は跳ね起きた。
寒い。胸を突き破らんばかりの鼓動を荒い呼吸で半ば強引に抑え、だが極めて冷静に把握する。寒い。噴き出す汗が極寒の外気に触れ、朦々と煙を上げる。寒い。
二米近い上背と屈強な肉体には薄らと積もった雪を払う。寒い。否応なく震える身体は全裸である。
寒い。
寒い。寒い。寒い。
己の肩を抱き、素早く足踏みする。冷え切った石畳の上ではまるで温められそうにない。何か行動を起こさなければあっという間に凍え死ぬ。
ふと、視界の端。
小さな人の影が静かに横たわっていた。
裸の、まだ幼い少女。
整った顔をしている。赤土色の褐色肌には薄く雪が積もり、色素の抜けた白髪が吹き抜ける風にさらさらと弄ばれていた。
他に動きはない。凍死している。
耐えられない。
「おい、まだ何もしてねえぞ、出せッ」
重低音の効いた怒声を上げるが、虚しく反響するだけ。
元は牢獄か、砦か。
不揃いの石材を組み合わせてひたすら積み上げたような堅牢な建物内に閉じ込められているのは間違いなかった。廃墟と化して久しいのだろう。前時代的なのも頷ける。人の手入れはほぼ皆無で老朽化が酷く、あちこちに罅が入っている。鋭い隙間風が不気味と吹いていた。
(夢にしちゃ、タチが悪い)
なぜ。
男は腐りかけの鉄格子に掴みかかる。
手応えがあるかと思いきや、ぎいと情けない音を立てて呆気なく開いた。
本当に閉じ込められていたのだろうか。いや。
振り向く。ぐるりと見回し、麻袋を見つける。少女の死体へ、静かに被せた。
「もっと暖かい場所に寝かせてやるからな。少し待ってろ」
当然、返事はない。
とにかく身体を動かさなければ。牢外の廊下へ出て、すぐだった。
「誰だ、おめえ」
瞬間、咄嗟に振り向く。
怒鳴り声を聞きつけたのだろう。見知らぬ男と目が合った。無精髭の生えた人相の悪い顔つき。それも明らかな敵意が込められた視線を無作法に突きつけてくる。大柄で筋肉質。だが自分よりかは背が低いと注意深く分析していく。
看守というよりかは、囚人に近い。
(一体どこの鉄器時代まで転げ落ちたんだ。笑えてくる)
野蛮な格好だ。山賊だろうか。薄汚れてはいるが暖かそうな毛皮の上着。奴はその懐から、ぞろりと短刀を抜いてみせた。
血が沸く。寒気が一瞬にして引いていく。
敵だ。
「俺が聞きてえな、雑魚」
同程度の敵意を込めて言葉を返した。
奴の眉間に血管が浮く。
「侵入者だッ」
応援を叫ぶや否や、両者、ほぼ同時に駆出。
だが俊敏性は全裸男が圧倒的に速い。まるで熊の如し。
鋭く薙ぎ払われた短刀を握る拳へ、肘鉄、粉砕。
怯んだ顎を目掛け突き上げ掌底。下顎骨はやはり砕け、下犬歯、いくつかの下側切歯、下中切歯が上顎にがっつりと食い込む。問答無用と噴出する鮮血、弾ける歯。敵は血混じりの涎を散らしながらくぐもった悲鳴を上げ、白目を剥いた。
上着を乱暴に剥ぎ取り、はためかせながら勢い良く身に付ける。
まともに立てるはずもなく、力なく床に倒れる。
見下す。脳震盪を起こして動かない。このまま死ぬだろう。汚れたズボンを引っ剥がし、下着以外をぎちりと履く。他に得物は無し。
「小せえ」
盗人猛々しく吐き捨てると短刀を拾う。思った通りの粗悪な品だが、無いよりましだった。
問題はここからだ。
石造りの廊下、闇の奥から複数人の足音。洗練さの欠片もない雑魚が四人。似たような手合いだろう。
全裸男は鍛え上げられた肉体に戦意を滾らせ、奮う。鋭敏な五感、人を殺す技術、手に取った凶器の取扱。
迫力のある金色の眼光が、じろりと敵を睨んだ。
「あいつか」
「やりやがった」
「何処から現れた」
「誰だ」
危急存亡に微塵も動じず、冷静沈着と勝算を叩き出す。
全裸男は癖っぽい赤髪を乱暴に掻き上げ、一呼吸。
改めて気が付いた。
「脱獄野郎とでも呼べ。屑だったらしい俺にはお似合いだろう」
今までの記憶が、まるで無い。