両面価値
最近ベンチに座っていると自称幽霊が現れる。後から来ても「センキャクなのです!」と宣って膝の間に座る。先日試しに膝を閉じていたら微塵の躊躇もなく上に乗られた。骨身に滲みた。
「もーいーくつねーるーとー♪」
今は十月だ。自称幽霊は俺の膝の間に座りシャボン液を吹かして泡を拡散している。
ここ二、三日、自称との攻防を繰り広げている間に、気が付けばベンチが新品に取り替えられていた。わざわざ連絡する人なんかいるはずないから、多分自治体の人が気付いて業者に依頼したんだろう。もういらないとわかっているのに買ってしまったコーラを呷れば、強過ぎる炭酸が胃を泡立たせた。
(泡がうぜえ)
自称の量産するシャボン玉が視界を阻んでいる。いらないとわかっていたのにうっかり買ってしまったコーラをがぶがぶ飲み込み空を仰いでゲップする。それを聞いた自称が真似してゲップする。「ぐえぇっふ」保護者に怒られたらどうしよう。広場に訪れる人の足音が聞こえた。
(ジジイじゃねえな)
ここ二、三日老人を見ていない。そんなことを何故か考えてしまって、喉の奥が気持ち悪い。気にしてるみたいじゃないか。
溜飲を下げようと仰いだ身を起こすと、眼前に人の顔がある。当然呼吸が止まる。
鼻先五センチといったところか。近過ぎれば見えないものだが、俺の目の前に立っている青年は、輪郭を捉えられるギリギリの距離まで顔を近づけ俺にメンチを切るように覗きこんでいる。死んだかもしれない。自慢ではないが俺は物理にしろ口撃にしろあらゆる喧嘩で勝てた試しがない。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
完全に視線の合ってしまった状況で、何故か膠着状態に陥った。死にたい。
髪を金髪に染めている青年は、よく見ると俺と同じ学校の制服を着崩して纏っていた。左右の耳に二個と三個、眉と鼻とにそれぞれ一個ずつピアスをしている。
瞬きした途端に鼻とか前歯が折られるかもしれないと思うと瞬きが出来ない。涙腺が危うい。
「どかんといっぱつしゃれこうべー♪」
だが、俺と青年に挟まれる形になって尚シャボン液を吹かし続けている自称のおかげで、幸いにも膠着状態はそう長くは持たなかった。
緩慢な動作で背中を伸ばした青年は、両手をズボンのポケットに突っ込み、若干猫背ぎみの姿勢で俺を睨み下ろし、名前を口にした。
「・・・・・音無ぃ」
(俺じゃん)
身元が割れている。情報戦で一歩負けている。表面下で狼狽える俺とメンチを切る青年との間で、ふわふわとシャボン玉が浮かんでは流れ弾けていく。
「はるちるがるとるぶる♪」
「お前さあ・・・教室でずっとイヤホン着けてんだろ」
完全に特定されている。怖い。もしかして不良に絡まれるようなことをしただろうかと今日一日の出来事を走馬灯のように振り返る。出来事と言えるような事すらなかった。
「教室で着けてんのにさあ、なんで今は着けてねえの?」
(・・・・・・ほっとけよ)
少なくとも仇討ちのような顔して言う台詞でも凄んだ声して言う台詞でもない。
青年は理不尽な顔して俺を睨み下ろしている。この剣山のような状況を打開するには答えるしかなさそうだ。
「・・・・・・・・・・・・危ねぇだろ」
「はあぁ?」
「(コッワ)・・・・・・ぶ、ぶつかったりとか、するかもじゃん」
青年は一寸空を仰いだ。と思えばヘドバンのような勢いで振りかぶる。帰ってくれないだろうか。
「まっじっめっカ!!そのツラで!!」
真面目に傷付いた。何故初対面の人間にこんな詰られてるんだ俺は。目線を下げると、ようやく状況に気付いたのか、自称と目が合った。シャボン玉を吹きかけられる。やっぱ状況わかってねえわ。
「俺さあぁっ」
青年はかなりイラついた様子で貧乏揺すりを始めている。どうやら俺に対してかなり立腹なようだ。アレだろうか、存在が不愉快とかいう理不尽なアレだろうか。
「教室で!なんっっっかいも声掛けてんだよ!!お前に!!ぜんっっっぶ無視られてっけど!!!」
思いの外理にかなっていた。青年のシャウトによれば彼は俺と同じクラスで、今年の入学式の時に俺と会話しているらしい。覚えていないが。その翌日から今日に至るまで、教室にいる間は休憩時間も授業中も抜かりなくイヤホンを装着している俺に、青年は何回も声を掛けたらしい。
自称が冷ややかな目をして俺を窘めてきた。
「ガッコウでイアホンはダメですよ」
(わかってるっつの)
反論出来ない。叫び疲れたのか、青年は肩を怒らせながら荒っぽく俺の隣に腰掛けた。自称幽霊の視線が痛い。帰らせてくれないだろうか。
「・・・・・・ごめん」
苦し紛れの謝罪は失笑に返された。
その後、青年は何やら色々と捲し立てていたが、巻き舌が巧みすぎて殆ど聞き取れず、最後立ち去り際に吐き捨てていった「次無視ったらコロス」という台詞で綺麗にカッ飛んだ。
あの青年は俺がなんのためにイヤホンを装着してると思ってるんだ。
「よかったですねえ」
(なにがだよ)
「ユーレイはヒトリなので、オニーサンがうらやましいのです」
(俺は一人が良いんだよ)
自称は相変わらずシャボン玉を吹かしている。どれだけ吹かしたところで浮いた端から弾けていく。小さい頃は気付かなかったが、勝手の良いオモチャだ。
「オニーサンはヒトりでいきられますか?」
陽が赤く染まり始めている。ようやく退いた自称に安堵の息吐き残りのコーラを飲み干した。
「出来ねえから苦労してんだよ」
あれ以降、教室でイヤホンを装着していると青年に引っこ抜かれるようになった。
ピアスを引きちぎらないだけ感謝しろとのこと。
そこまでして一体どんな難癖つける気かと思えば、なんのことはない。親や教師への不満、好きなバンドやアクセの話。とりわけ、中学時代の仲間とやった悪事なんかをただ自慢げに語るだけだった。
察するに、単に孤独を埋める相手が欲しかったんだろう。偶然外見的特徴が似通っていて、二学期入っても尚孤立していた俺は格好の標的だったわけだ。
その場しのぎの関係というなら、まあお安い御用だ。むしろ孤立が目立ってイジメの的になる可能性を思えば大歓迎だ。
「それでさあっ、鼻面をこう、抉るように殴ってだなあ、したらリングのトゲが食いこんでさ、もう肉までズル剥けよ」
(えっぐい)
ただ、何故かこの青年、坂口──三回目の出席確認で無事覚えた。は俺が喧嘩慣れしているものと思い込んでおり、度々その手の武勇伝を誇らしげに語っては「お前はどうなんだ」と話を求めてくる。
「だから、喧嘩したことねえよ」
「ああぁ?じゃあその怪我どうしたんだよ」
「漢の勲章だよ」
「やっぱ喧嘩じゃん。ったくモヤシのクセに調子のっからそうなんだよー」
(・・・・筋トレ、しよ)
幸い、放課後は中学時代の仲間とつるんでいるようで、帰りに付き纏われる心配はない。唯一の平穏は守られたわけだ。
「ふぁんふぁんうぃーひったうぇーうぇー♪」
守られてないかもしれない。
四日ぶりに現れた老人の背後で、自称が上半身を扇風機のように旋回させて歌っている。
老人の全く動じていない様子からして、知り合いだったらしい。
そういえば、初めて会ったときに友達と待ち合わせをしているのだと言っていたような気がする。
(一人じゃねえじゃん)
なんだかヤケになってサイダーを一気飲みすれば、器官に詰まって酷く噎せる。非常にダサい。
老人は頬にガーゼを貼っていた。
「だあああああああくっそがああ!!」
樋口は感情の起伏が激しく、よくわからないことで発火しては突然冷めたりする。まともに相手をしていられない人間だ。俺なら絶対友達にはならない。
荒々しく俺の机に蹴りを入れた樋口は、そのままどかっと隣の机に腰を下ろした。友達にはなれないタイプだ。
顔を見ると、右の口端が切れていて周囲が酷く腫れている。樋口が怪我をしているのは珍しかった。
「ちゃんと冷やせよ」
一応、礼儀として言葉をかければ、途端鬼のような形相になって怒鳴り散らしてくる。情緒不安定が過ぎる。
「あああああん?!馬鹿にしてんのか!!?ほっときゃ治るわこんなもん!!」
相変わらずのシャウトだ。今しがた教室に入ったばかりの数人がびくついた様子で距離をとるのが見えた。気持ちはわかる。
当たり障りのない言葉を模索する。否定的な言葉は当然駄目だ。当たり障りのない角の立たない言葉を選出する。
“大丈夫”“無理をしないで”“心配だ”“可哀想に”
(向いてねえんだよなあ)
集団で生きるためのごく基本的なプロセスが心底億劫で煩わしい。
「そうかエラいな」
「ああ?!」
「俺痛いのムリだし。小さい傷でも滅茶苦茶ヘコむし。なんなら休むし。俺がお前だったら絶対今日学校来てない。俺に比べりゃ滅茶苦茶頑張ってるよ、お前」
どうしてか、人と長時間過ごしていると、段々喉の奥から耐え難い何かがせり上がってくる。
胸骨の下で巣食うそれは蛭のように這いずっては血を吸い上げる。胸を開きたくなる恐怖と嫌悪感は、どれだけ嘔吐いても吐き出すことができない。親しくなった人が視界から消えるまで、それはずっと留まり続ける。
何故かはわからない。いつこうなったのかもわからない。確か最初はこんなんじゃなかったはずだ。病院に行くべきかもしれない。だが次第にどうでも良いと思ってしまう。血の足りない頭では一つ考えるだけで眩暈がした。
いつからこうなってしまったのか。蛭さえ邪魔をしなければ。今だって、小さな「ありがとう」が、本当は嬉しいはずなのに。
吐き気がするほど不愉快だ。
炭酸を胃に流し込む。耳にイヤホンを押し込み机に突っ伏して目蓋を閉じる。目蓋の裏側に安息を得れば、今度は冷えきった胸中が寒いと軋む。
(救いようがないな)
空の胃袋がくるりと鳴いた。