一斤、四百三十二円
下校途中にコンビニに寄って五百ミリの炭酸を買う。
コンビニの向かい、広場との間には片側一車線の道路があり、さして車の通りが多くもないのに、横断歩道には信号機が設置されている。赤信号に引っ掛かっていると、向かいから無視して渡る中年がいる。横からは軽トラが迫っていた。窓越しに見えるドライバーは端末を弄っている。どうでも良い。
(勝手に死ね)
背後で何かが落下する音が聞こえた。
「うおぉっ?」
後方から転がるように飛び出した老人が、向かいから体当たりするように中年にしがみつき、自身諸共向かいの通りに押し出した。
軽トラックが通り過ぎる。ドライバーは欠伸をしながら変わらず端末を覗いていた。
広場の門前にまで転がった中年は、呻き声を上げながらしがみついていた老人を突き飛ばした。
「何すんだジジイ!!頭沸いてんのか!?」
怪我をした、服が汚れた、慰謝料をよこせと怒鳴り散らす中年に、老人はしきりに頭を下げている。
後ろに落ちていたビニール袋を拾い上げると、中には五枚切りの食パンが一袋入っていた。
(コンビニで買ってんのかよ)
急いでいたらしく、中年は自身の手首を覗くと舌打ち零して老人を押しのけた。信号は青に変わっていた。
すれ違いざま、力のこもった悪態が耳朶を打った。
「老害が・・・っ、さっさと死ねっ」
広場の門前、あからさまに怯えた様子で此方を伺う老人に失笑が零れる。誰が盗るかこんなゴミ。
無言のままゴミを押し付けて広場に入った。
夕方というには尚早な時刻、広場に訪れる人は滅多にいない。
付近には公立の小学校がある。子供はもっぱら校庭か、ここよりも少し歩いた商店街の公園で遊んでいる。
人のいない広場のベンチに座って炭酸を仰ぐ。びっこをひいて歩く老人は、決して話し掛けてはこない。
(こっち見んな)
話し掛けてはこない。
時間から置き去りにされたような空間だ。
時計の一つも置かれていないからかもしれない。広場はいつも停滞した空気に沈んでいる。
炭酸を煽りながら空を眺める。視界の隅で、老人がパンをちぎって鳩を集めていた。長閑だ。
(足引きずってるわりに、メチャクチャ速かったな)
随分無理に走ったらしい。時おり膝をさすっている。
(お節介焼くからだ)
炭酸を煽っていると、トレーナー姿の女が広場に踏み入るのが見えた。
灰色のキャップを被った女は、まるで馴染みのランニングコースのようなそぶりで老人のもとへ突進する。鳩らが散開した。
「こんにちは」
老人は挙動不審なほど小刻みに頭を振っている。
(ヘドバンか?)
「この間は、・・・その、お見苦しいところをお見せして・・・わかりますか?パンを・・・あの、」
老人の挙動が止まった。俺の瞬きも止まっている。
食パン女だ。泣きながら食パン四枚食った女だ。
先日よりもずっと地味なナリした女は、先日よりもずっとスッキリした顔して老人に笑いかけた。
「私も、良いですか?」
老人の硬化が留まらない。
それでもだんだん申し訳なさそうにする女に気付くと、ぎこちなく待てのジェスチャーをして、上着のポケットをまさぐり始める。
ややして、アルミの包みを引っ張り出した。
女がアルミを剥がすと、中から半分に切った食パンが二切れ分現れた。
「あれ、良いんですか?」
よく見ると、パンの隙間から緑やら黄色やらが見える。たまごサンドに見える。
(・・・学習してやがる)
心做しかドヤ顔で頷く老人が心做しか腹立たしい。
「ありがとう」
女は嬉しそうに微笑んでパンをちぎると地面にばら撒き始めた。
散らばっていた鳩が一斉に集り始める。
(・・・こっち見んな)
炭酸を多く飲み込む。
刺激よりも先に冷たさが身に染みる。涼しくて暖かい。獣どころか虫さえも穏やかになる時期だ。
女も穏やかな音で話していた。
「私、男だったんです」
鳩の、間抜けな音が救いに変わった。
「性転換手術を受けまして」
俺達の世代でも意見の分かれる話だ。少なくとも一世代より以前から情勢のアップデートが不完全と見られる老人は、完全に動作が停止している。処理落ちしたらしい。
「同窓会。初めて行ったんです。会いたい人が、いたんです。・・・・・・気持ち悪いって、言われました。恥ずかしいと、言われました。二度と会わないでくれって、頼まれました。・・・当たり前ですよね。気持ち悪いですよね」
たまごサンドを撒き終えたらしい。アルミをぐしゃり、握り潰して女は空を仰いだ。
「わかってました」
炭酸の残りを一息に飲み干した。
仰いだ空は、薄らと赤らんできていた。
「わかってたけど、駄目でした」
足速に広場を後にする。
絡まれるのは御免だ。
◇◆
女の目の前に真っ赤な石がぶら下がっていた。
「これ、どこで・・・」
老人が指差す先には、空っぽのベンチがあった。
赤い石には、小さな傷が走っている。フックのひしゃげたそれを老人の手から受け取り、握り締める。
「初めて買ったんです。私になる前。私になりたくて。自分で稼いで、自分の力で、手に入れたんです」
日が傾いていた。広場は穏やかに黄昏を迎えた。
「誰が認めなくても、私なんです。これが、なりたかった私なんです」
壊れたピアスを耳元にぶら下げて女は笑う。
一等綺麗に見える形を研究し尽くしたような強い笑みだ。
「にあう、でしょ?」
老人はくしゃりと笑った。まるで褒められた子どもみたいな面をして、泣いて笑う女にしっかと頷いた。
じいちゃんの日常
「らっしゃーせー・・・あ、こんにちはー!」
コンビニ店員に顔を覚えられている。
頼んだことは一度もないけど食パンが取り置きされている。
暫く来ないとバックヤードでザワつく。生死的な意味で。