Case.06 担任と奥さん
「……はぁ」
僕は先日のことを思い出しながら溜息を吐く。
やはりと言うべきか、僕と舜くんの間に会話はない。
恋愛相談を失敗するとこういうことが起きてしまうのだ。
「でも、僕だけじゃないんだよな……」
冴島さんの言葉を思い出す。
僕は『僕と舜くん』の関係を壊しただけじゃなく、『冴島さんと舜くん』の関係をも壊してしまったのだ。
二人の関係がそこまで進んだものでもなく、ただのクラスメイトだったとしても、それに変わりはない。
恋愛相談を受けるということはそういうリスクが常に隠れている。
仮にも人の心と向かい合うことだ。
そう簡単に上手くいくはずがないこともあるのは僕だって分かっていたはずだった。
でも、無意識のうちにそれを見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
成功した時は……なんて免罪符を使って。
「受けないほうが、良いのかな」
僕はこれまで何組もの恋愛相談を成功させてきた。
もうそれで十分じゃないのか。
そもそも普通に生活していれば、好感度が見えるというわけでもないのだし、恋愛相談をやめようと思えば簡単にやめられる。
「…………」
これまで恋愛相談をしてきた人たちは、何て言うだろうか。
もし僕が恋愛相談をやめようなんて言ったら、どういう反応をするんだろう。
賛成してくれるのか、反対されてしまうのか。
どっちの可能性も大いにありえる。
僕は、本当にどうしたらいいんだろう。
一向に出てきそうにない正解に僕は思わず嘆いた。
「……おい、種島!」
「は、はい!」
そこでようやく考え事から我に返る。
どうやら先生に呼ばれていたらしい。
そういえば今はHRの真っ最中だったのを忘れていた。
「放課後、話があるから生徒指導室に来なさい」
「……?」
そう言うのはクラスの担任でもある松本 辰巳先生。
『たっちゃん』の愛称で呼ばれる先生だが、僕は普通に辰巳先生と呼んでいる。
普段から温厚というかお人好しな性格のせいで、色んな仕事を引き受けているのをよく見かけたりする。
因みに辰巳先生とは去年からの担任と生徒という関係のままだ。
そんな辰巳先生が僕に一体何の用だろう。
生徒指導室ってことはほぼ間違いなく良いことではないだろうが、僕が何かした覚えもない。
もしかして前回の恋愛相談のことを、舜くんが失敗した腹いせに先生に密告したりしたのだろうかとも思ったが、舜くんはそんなことをするタイプには思えない。
それに恋愛相談なんて僕以外にも、普通に恋愛経験豊富な人なら受けたことくらいはあるだろう。
まぁ受けた数で言えば、結構な身に覚えはあるけど。
結局何のことか分からないまま、HRだけがどんどんと進んでいった。
◆ ◆
「……何でここに呼ばれたか分かるか?」
二人きりの生徒指導室で、辰巳先生は早速話を始める。
「いえ、正直何で呼ばれたのか分かりません」
HRの時からずっと考えていたのだが、やはり何も思いつかない。
何か変なことを言って墓穴を掘るよりも、ここは正直に言っておいた方が良いだろう。
「……そうか」
しかし先生は僕の言葉に一言だけそう頷くと、そのまま黙り込んでしまう。
僕たちの間を沈黙が支配し始める。
本当どうして僕は生徒指導室なんかに呼ばれたんだろうか。
「……種島、お前」
どれくらいの時間が経ったか分からなくなってきた頃、辰巳先生がついに口を開く。
恐らく本題に入るのだろう辰巳先生に、僕は唾を飲み込む。
「恋愛相談、してるんだってな」
「……はい?」
まさかの言葉に僕は思わず聞き返す。
その話題が来るとは微塵も思っていなかった僕は焦る。
もしかしたら舜くんが本当に恋愛相談失敗したことを言ってしまったのだろうか。
「あれ、違かったか?」
「い、いえ。一応、恋愛相談はしてます、けど……」
ここで誤魔化しても、後から嘘だとバレるのが怖い。
僕は頷く。
「ふむ……」
しかし先生はそれに対して何か言うでもなく、ただ一度頷くと、さっきと同じようにまた黙り込む。
一体、どういうつもりなんだろう。
もしかして辰巳先生は僕が恋愛相談を受けていることについての確認だけ取りたかったのだろうか。
それならば早く帰って、田中くんに借りた漫画の続きを読みたいのだけど。
相変わらず辰巳先生は黙り込んだままで、何故か目を泳がせている。
そんな辰巳先生に早く帰らせろという視線を送っていると、ふと目が合う。
「……実はな、種島に頼みがあるんだ」
すると辰巳先生は緊張したように、そう切り出してくる。
もともと静かだったからか、先生の唾を呑み込む音が僕の耳に届いた。
恐らくこれからがわざわざ生徒指導室に呼び出した本当の理由なのだろう。
じゃあ今まで聞いたことはほとんど何も関係なかったということか。
少し舜くんを疑ってしまったが、どうやら勘違いだったらしい。
ごめん、舜くん。
それにしても辰巳先生の頼みというのは一体なんだろう。
僕は辰巳先生の声を待つ。
「…………」
「………?」
「……種島」
「はい、何ですか?」
「お前に――――恋愛相談を頼みたい」
関係ないと思っていた少し前の話題。
先生がとった恋愛相談に関する確認。
どうやらそれは全く関係ないどころか、先生の頼みごとの布石でしかなかった。
「恋愛相談、ですか……?」
僕は辰巳先生の言葉を繰り返すように聞き返す。
まさかそんなことを言われるとは思わなかった僕は首を傾げる。
「で、でも先生って確かもう結婚してらっしゃいましたよね……?」
辰巳先生の歳は二十七、八だったと思う。
以前、二十代前半に結婚したという話を聞いていたはずだ。
それなのにどうして恋愛相談を必要とするんだろうか。
「実は、離婚の危機なんだ」
「えぇっ!?」
辰巳先生の爆弾発言に僕は驚く。
そんなこと一生徒に言っても良いようなことなんだろうか。
「だからお前に恋愛相談を受けてほしいんだ! 生徒の間でも評判なんだろ!?」
「なっ、そ、そうなんですか!?」
どうやら辰巳先生もここに来るまでに色々と情報収集をしたりしてきたらしい。
しかし僕のことが先生にまで広がっているとは思わなかった。
確かについ最近、神崎先生に関する恋愛相談を受けたし、そういう可能性があるのは必然だったかもしれない。
「種島だけが頼みなんだ! どうか頼む……!!」
生徒でしかない僕なんかに必死に頭を下げる辰巳先生。
普段見ている限りでは他の先生にこき使われていたり、押しに弱いイメージしかない辰巳先生がここまでするとは、それだけ切羽詰まっているのかもしれない。
「……分かり、ました」
そんな辰巳先生の必死さに負けて、僕は頷くことしか出来なかった。
◆ ◆
「本当に、受けてよかったのかな……」
少しだけ遅くなった放課後の帰り道にはあまり人がいない。
そんな帰り道を一人で歩きながら、夕陽の眩しさにやられて顔を俯ける。
「もし、失敗したらどうする気なんだ」
僕は前回の恋愛相談を思い出す。
あまりにもあっさりと失敗した恋愛相談は、僕の中に確かな変化をもたらしていた。
それが何なのかは分からない。
関係が壊れることについての恐怖か。
関係を壊してしまうことについての恐怖か。
その後の気まずさへの恐怖か。
いずれにせよ、良いものなんかでは一つもない。
「今からでも、断りに行くべきなのかな……?」
恐らく辰巳先生はまだ学校に残っているだろう。
もしかしたらまた他の先生から面倒ごとを頼まれていたりするのかもしれない。
断るなら、早い方が良いに決まっている。
ずるずると後伸ばしにして良いことなんて一つもない。
「…………」
僕は、先生の顔を思い出した。
恋愛相談を頼んできた時の不安そうな顔。
恋愛相談を受けた時の、はち切れんばかりの笑顔。
「…………」
誰もいない帰り道で、僕は自分の掌を見つめる。
好感度しか見えない僕に何が出来るかは全く分からない。
何をするべきで何をするべきでないのかなんて分かりっこないんだ。
もしかしたら僕と辰巳先生の「生徒と担任」という関係が壊れてしまうかもしれない。
もしかしたら辰巳先生と奥さんの「夫婦」という関係を壊してしまうかもしれない。
それでも僕は。
それでも僕は……。
それでも僕は――――この恋愛相談をやり切りたい。
僕に出来ることは『好感度を見れる』だけ。
それなら、迷ってる暇なんてないだろう。
出来ることが一つでも分かっていて、他に何をすればいいのか分からないなら、やってしまえ。
それが今、僕に出来ることで、僕がやらなくちゃいけないことなんだ。
どんな結果になって、どんな結果で終わってしまいそうになったとしても、今回の恋愛相談を全力で、本気で取り組むことが、僕に出来る最大限の誠意だと思った。
今回恋愛相談ををしてきた辰巳先生に対して。
恋愛相談で関係を壊してしまった人に対して。
僕を信じて頼って来てくれた人に対して。
今、出来ることを、やろう。
そして今出来ることに、僕がこれからどうするかを託せばいい。
恋愛相談をこれからどうしていくか、決めればいい。
もし今回の恋愛相談、失敗してみろ。
また誰かの関係を壊したりするなんてことがあったら僕は――――もう二度と、恋愛相談は受けない。
今後一切、絶対に恋愛相談を受けないと誓う。
「でも、逆に……」
もし今回の恋愛相談を成功させられたら。
誰に非難されたっていい。
誰に罵倒されたっていい。
そんなの気にしないから。
気にする意味なんてないから。
自分は。
自分だけは。
自分くらいは。
僕のことを認め続けよう。
僕が『好感度を見ることが出来る』ことも。
僕が恋愛相談を受けつづけることも。
「…………」
一度決めてしまったら、なんだか肩の荷も落ちたような気がした。
まるで自分の暗い内面を無理に照らしてくるようで嫌だったこの夕陽も、今ではこれからの僕の進んでいく道を、ゴールラインから照らしてくれているように思える。
僕は自分の掌を見つめる。
いつの間にか少しだけ汗ばんだその掌には、夕陽が反射して、真っ赤に染まっている。
もしここで拳を握りしめたら、その光さえも握れてしまうのではないか。
自分のあり得なさに思わず笑ってしまいそうになるが、たまにはこんな僕も良いなと、口の端が吊り上がっていくのを感じていた。
「初めは何したらいいと思う?」
恋愛相談を付けた次の日、僕と辰巳先生は放課後の屋上で今回の恋愛相談をどう進めていくか考えていた。
本当は昼休みに考える予定だったのだけど、辰巳先生が他の先生に急な仕事を頼まれたので放課後になってしまった。
「うーん、僕も夫婦っていう関係からの恋愛相談は受けたことがないですからね……」
これまで僕が受けてきたのとは明らかに異質な今回の恋愛相談に、僕は頭を悩ませていた。
今までだったら荷物運びの手伝いや、危険からの救出など色々とアピールする手段はあるが、今回に至ってはどうだろう。
やはり不慣れなだけに、僕も中々思いつかない。
「夫婦だからこそ出来るアピールの方法とかが良いですよね」
「そうなのか?」
「多分そっちの方が、二人の関係をより強固にできるかと……」
「なるほど、さすがだな」
僕の言葉に頷く辰巳先生。
といっても、こんなことならそれなりに恋愛経験を重ねていれば誰でも教えられるようなことだろう。
「となれば……家事あたりでしょうね」
「家事かぁ……」
恐らく今回の恋愛相談で出来るアピールの方法は、家庭での行いが大きく影響してくるはずだ。
二人きりの世界といっても過言ではない家庭こそ、今回の恋愛相談を成功させる鍵なのだろう。
しかしどうにも辰巳先生は良い顔はしない。
「実は、料理とかは苦手でな」
難しそうな顔でそう告白する辰巳先生。
確かに無理に料理をしたりして失敗したら、好感度を下げる原因になりかねない。
場合によっては、慣れない作業を頑張ってくれたと思われるかもしれないが、辰巳先生の奥さんがどういうタイプか分からない以上やめておいた方が無難だろう。
そして辰巳先生は料理は苦手と言ったが、それなら他の家事にもあまり期待は出来ない。
何しろ普段からずっと学校にいるような感じがするし、そもそも家事を出来る時間がないのかもしれない。
だとすると家庭でアピール出来る機会がぐっと減ってしまうのは必然。
他の方法を探さなければならないのだが、生憎とこういうことに関しては素人の僕。
当然良い案が出たりするわけでもなく、その日は各自情報を集めてくるという結論で解散することになった。
◆ ◆
「全く思いつかない……!」
次の日、互いに案を出し合うHR終了の時間が刻々と近づいてきている。
しかしあれからいくら考えても、良い案が全く思い浮かばないのだ。
やはりこういうことは野郎が考えても仕方がないのかもしれない。
僕は咄嗟に携帯を取り出すと、華村さんとのSNS画面を開く。
いつかのサッカー部レギュラーの時に見せてくれたようなあざとさがあれば、もしかしたら良い案を出してくれるかもしれない。
『種島:華村さん! 夫婦の不仲を解消するために夫が出来ることといえばなんだと思う!?』
僕はメッセージを送信すると返信を待つ。
その間もHR終了の時間はどんどん近づいてきている。
『華村:え、先輩、いつの間に結婚したんですか?』
どうやら華村さんはすぐに気付いてくれたようで、すぐに返信が返ってくる。
しかし返信の内容は僕の望むものに一ミリも合致してない。
『種島:違う! 恋愛相談受けてるの! 何かないか至急教えて!!!』
あとどれくらいでHRが終わるだろうか。
さっきから教壇にたつ先生がちらちらとこちらを見てきている。
あれは良いアイディア思いついたよな? 的な視線に違いない。
『華村:うーん、それなら料理を褒めるとか……。あっ、恋人っぽくデートに誘ってみるのも良いと思いますよ!』
僕が回答を急かすと、今度はまともな答えが返ってくる。
文面からどれだけ僕が必死か、画面越しに伝わったのかもしれない。
華村さんの答えを見てみる限りどれもかなり良さそうで、十分なアピールになりそうなものばかりだ。
さすが華村さんというべきか。
こういう時の心強さは他の女子と一線を画している。
僕は華村さんにお礼のメッセージだけ送ると、携帯を直す。
これなら辰巳先生に文句を言われることもないだろう。
というかこんなことなら昨日の内に華村さんに聞いておくべきだったかもしれない。
まぁ思いつかなかったから仕方ないのだが、やはり人間追い詰められれば隠された力を発揮できるとかそういう感じだろうか。
まだHRの真っ最中というのに、思わず声を上げて笑ってしまいそうになった。
「料理の感想、かぁ」
「はい、女性というのは皆、自分の作った料理の感想を言われるのが嬉しいそうです」
「そうなのか?」
HRが終わり、一時間までの少しの間、僕は辰巳先生に例の件を教えていた。
辰巳先生は特にぱっとした表情を浮かべるわけではないが、僕の指示に頷いてくれる。
どうやら今日から実践してみるらしい。
「あ、それと料理のメニューについて聞かれたりしたときは『何でもいい』とかじゃなくて、無理やりにでも自分の食べたいものを言ってください」
実はお礼を送った後に、華村さんから教えてもらったことには追加があった。
それがこれである。
「奥さんが作る料理なら何でも美味しい、と思っちゃうかもしれませんが、どうやら女性からしてみれば興味がない様に見えるそうです」
「そ、そうなのか!? 早速今日やらかしてきたんだが……!!」
僕の言葉に頭を抱える辰巳先生。
まぁこれから挽回していけば大丈夫だと信じるしかない。
因みにデートの件はまだ伝えていない。
これからしばらく様子を見て、良い雰囲気になっていそうだったら教えようと思う。
辰巳先生が先走ってしまう可能性もあるので、念のためだ。
「因みに今日はどんなことを言ったんですか?」
辰巳先生に料理の感想を言うようアドバイスしてから数日間、僕は毎日先生に確認を取るようにしている。
その日の朝食に対して、昨日の夜に対して、そして昼ご飯について何と言っているか、毎日三つずつだ。
「えっと『卵焼きが半熟で好み』とか『今日は疲れたから肉料理が身に染みるよ!』とか『ウインナーをタコの形にしてくれて面白かった!』だったかな」
「おぉ、いい感じじゃないですか」
これに関しては日に日に辰巳先生もレベルが上がってきている。
初めは『うまかった』みたいな感じだったのに、これは良い成長だと思う。
しかし何やら今日の辰巳先生のテンションはいつもより高いような気がする。
「実は今日久しぶりに普通に話せたんだよ!」
「おぉ、それは良かったじゃないですか」
「頑張って料理を褒めたおかげだな!」
どうやら今までは普通に会話も出来ていないほど夫婦仲がよろしくなかったらしい。
そう思えば確かに辰巳先生の頑張りが功を奏したという感じだろうか。
ではもうそろそろ次の段階に移っても良いかもしれない。
「辰巳先生、奥さんをデートに誘いましょう」
「デ、デート?」
僕は華村さんのもう一つのアドバイスを先生に伝える。
突然の僕の提案に辰巳先生は戸惑っている。
「はい、結婚してからはそういうことはしなかったかもしれませんが、昔を思い出すためにも一度デートしてみるのが良いと思います」
これは華村さんからの受け売り。
ただ僕の狙いは別のところにある。
それは辰巳先生と奥さんを同時に見るためだ。
お互いのお互いに対する好感度は二人とも同じ場所に居なくてはならない。
そのための機会としてデートをしてほしいのだ。
「わ、分かった。誘ってみる……!」
辰巳先生は拳を握りしめて、意気込んでいる。
恐らくデートなんてかなりひさしぶりなはずだ。
緊張してしまったとしても仕方ないと思う。
「……そういえば」
「うん?」
「そもそもなんで辰巳先生は奥さんと仲が悪くなったんですか?」
今までは特に聞かずに流してきたが、まずそれを聞くべきだった。
恋愛相談を成功させるためにはちゃんとこれは知っておくべきことだろう。
ただ先生はやはり話しにくいことなのか気まずそうな表情を浮かべている。
しかし腹を括ったのか、視線をこちらに向けてきた。
「実は、俺って頼み事とか断れないんだよ……」
「あ、それは知ってます」
実は……でも何でもない。
先生がそういう人であることは僕だけでなくクラス皆の周知の事実だ。
「ま、まぁそういうことでこれまでも色んな頼み事とかされてきたんだよ」
「はい、それがどうして夫婦の不仲につながるんですか?」
「き、記念日とかに被りまくって、だな……」
「あー……」
それはなんというか、ご愁傷様としか言いようがない。
人の頼みを断れない辰巳先生が悪いという訳ではないだろうし、かといって記念日をダメにされたことを我慢できない奥さんが悪いという訳でもないだろう。
強いて誰が悪いかあげるとするならば、そんなタイミングで辰巳先生に頼みごとをする誰かだ。
「因みにあと一週間後は結婚記念日なんだ」
「えぇ!?」
今日が火曜日なので、来週の火曜日が結婚記念日ということになる。
かなり急なので僕も対策出来るか怪しい。
平日は計画を練るとして、大体は週末が勝負時ということだろう。
「……もちろん、プレゼントとかってまだ買ってないですよね?」
「う、うん。時間が無くて」
ということは一気にすることが増えた。
今週末に一度デートに行って、結婚記念日のプレゼントも用意しなければならない。
じゃないと本番の結婚記念日に失敗してしまったら、これ以降夫婦仲を良くする絶好の機会は中々来ないかもしれない。
「じゃあ今週末、絶対開けておいてください」
「え、でも仕事があるし…・…」
「それまでに死ぬ気で終わらせておいてください」
じゃなければそもそも話にならない。
忙しいのは分かるが、奥さんのためだと思って頑張ってほしい。
辰巳先生は一度だけ息を吐くと、小さく頷いた。
「じゃあまずデートに誘う日ですけど、日曜日にしてもらえます?」
「俺は別に構わないけど、土曜日じゃだめなの?」
「はい、出来れば日曜日で」
僕の言葉に不思議そうに首を傾げる辰巳先生。
土曜日にデートをしておけば、その時にそれとなく欲しいものを聞いたりして日曜日に買いに行けるかもしれない。
それは確かに魅力的だが、今回は日曜日にしておくべきなのだ。
「辰巳先生は最近のデートで何処に行けばいいかとか全然分からないですよね?」
「ま、まぁ確かに」
「だからそれをプレゼントを買う時にでも確認しながら回ればいいんですよ」
「なるほど……さすがそういうとこは恋愛相談受けてるだけあるなぁ」
辰巳先生は僕の説明に感心したように頷くが、実はここでもう一つだけ問題がある。
それは、誰かと付き合ったりしたことがない僕も最近のデートコースとやらを知らないというものだ。
まぁそれは……どうにか考えるしかないかな。
僕は週末のデートに燃える辰巳先生に「今週は週末時間をあけるために、仕事頑張ってくださいねっ」と言おうか迷っていた。
「昨日は結局良いものが買えたんですか?」
「あー……うん、あげたいものは買えたかな」
僕は辰巳先生と話しながら、人通りの多い道を歩いている。
今、辰巳先生は奥さんとの待ち合わせ場所へと向かっているところだ。
同じ家に住んでいるのに待ち合わせも何もないとは思うが、こういうのは形から入るのがいいという華村さんのアドバイスに従い、こうすることになった。
因みにデートコースは昨日の内に確認済みなので、恐らくは大丈夫だろう。
そしてどうやら辰巳先生は結婚記念日に渡すプレゼントも買っておいたようだ。
これで本番に向けての準備は大方出来ている。
後は今日のデートでどれだけ夫婦仲を良く出来るかにかかっている。
「じゃあ僕はここあたりで」
待ち合わせ場所に近付き、僕は辰巳先生から離れた。
さすがに一緒にいるところを見られるわけにはいかないので、少しだけ離れたところから辰巳先生を観察する。
「……ん、あれかな?」
僕が辰巳先生を観察し始めてから数分後、一人の女性が辰巳先生に話しかけてきた。
遠目からでも美人だと分かるその女性は、どこかぎこちなく辰巳先生と一言二言話したかと思うとそのまま二人で歩き出す。
やはりどうやらあの人が辰巳先生の奥さんらしい。
「確か……薫さん、だったよね?」
昨日の内に聞いておいた奥さんの名前を思い出す。
結婚しているのだからもちろん苗字は「松本」だ。
辰巳先生は僕たちが昨日二人で回った道をその通りに歩いていく。
そんな辰巳先生に、薫さんは少しだけ意外そうな表情を浮かべるが、そのまま大人しくついて行っている。
「よし、じゃあ今のうちに……」
僕は前を歩く二人の後ろを少しだけ離れて追いかけていく。
そして目の前で小さく円を作り、お互いの好感度を確かめる。
「……?」
僕は二人の好感度を見て思わず首を捻る。
『81』辰巳→薫
さすが結婚しているだけあってか、辰巳先生から薫さんへの好感度は今まで見てきた中でもかなり高い好感度だ。
これだけ好感度が高ければ、結婚していても恋愛相談に来てしまうのは無理もない。
しかし、薫さんは辰巳先生のことを嫌いではなかったのだろうか。
嫌いとはいかないまでも夫婦仲が悪くなってきている今、好感度が人並みであっても何ら不思議ではない。
なのに薫さんから辰巳先生に対する好感度は、
『83』
辰巳先生から薫さんに対しての好感度よりも、少しだけ高いものだったのだ。
これだけの好感度があるならば、夫婦仲が悪いなどありえない。
それともこれまで辰巳先生が料理の感想を言ったりしていた成果がここまで出ていたということだろうか。
なんにせよ、これだけの好感度があればこれからの夫婦仲は特に心配することもなさそうだ。
「……じゃあ僕も帰ろうかな」
デートを楽しむ二人の雰囲気は悪くはなさそうだし、今日僕の手助けが必要になることもないだろう。
僕は念のため、帰る旨のメッセージを先生のSNSに送ると、そのまま二人の進行方向とは逆に歩き出した。
◆ ◆
「種島ぁぁぁぁぁあああああ」
「うわっ、ど、どうしたんですか?」
月曜日の昼休み、一人で屋上で弁当を食べていると、突然辰巳先生が屋上へと飛び込んでくる。
しかもその手にはしっかりと薫さん作のお弁当が握りしめられている。
「デート上手くいったぞ!!」
「おぉ、良かったじゃないですか」
「ん? あまり驚いていないんだな」
僕の反応が薄かったのか、辰巳先生は指摘してくる。
まぁ僕は二人の好感度を見ることが出来るし、お互いにお互いのことをどれだけ好きかということも知っている。
デートが成功することなんて、あの好感度を見てから今更驚くようなことでもない。
「どんな感じでデートしたんですか?」
デートが成功したということは知っているが、僕は早く帰ってしまったのでその過程を知らない。
一体どんな風にデートが成功したのだろう。
「いや、土曜日に回ったところに重なるようにして色んなところに連れて行ったら、凄く気に入ってくれたみたいで、また行こうって言われたんだよ」
「おぉ、それはよかったです」
「あぁほんと、土曜日にプレッゼント買いに行ってて本当良かった」
緊張していたのか大きく息を吐く辰巳先生は、僕の隣に腰を下ろすと弁当を開く。
その弁当も依然見せてもらった時より豪華な気がする。
これを見る限り、どうやらデートは本当に成功することが出来たらしい。
「問題は明日、ですね」
「あぁ、もしもの時を考えると胃が痛いよ」
辰巳先生はそういうが、ちゃんとプレゼントも用意したしもしもの時の可能性は考える必要もないだろう。
それよりもどうやって盛り上げて、二人で楽しむかを考えた方がよっぽど有意義だ。
火曜日の分の仕事もちゃんと終わらせているようだし、これなら何も心配する必要は無い。
僕はこれで今回の恋愛相談も終わりだろうかと辰巳先生を見る。
今回の恋愛相談に成功したら、僕はこれからも恋愛相談を受け続ける。
それが僕の中で決めたことだ。
その逆に今回の恋愛相談で失敗したら、僕はもう二度と恋愛相談は受けない。
それも僕の中で決めたことだ。
一体僕のこれからはどうなるのだろう。
僕はお弁当の最後の一口を口の中に放り込むと、弁当箱の蓋を静かにしめた。
「辰巳先生、準備はオッケーですか?」
「あ、あぁ……」
放課後、僕と辰巳先生は誰もいない教室で、今夜の最終チェックをしていた。
この日のために仕事を終わらせてきた辰巳先生には、ちゃんと結婚記念日を楽しむだけの余裕がある。
それに事前にプレゼントも用意していたようだし、この調子なら今夜も大丈夫だろう。
辰巳先生の顔は緊張に包まれながらも、どこか浮かれているようにも見える。
それだけ今夜の結婚記念日が楽しみなのだろう。
これまでにも夫婦仲自体はかなり良くなっているし、今日で決着だ。
――――プルルルルルル。
そんなことを考えていた矢先、辰巳先生の携帯が音を上げる。
突然鳴り響く携帯音に、僕は肩を揺らす。
辰巳先生はポケットから携帯を取り出すと、耳元に持ってくる。
「はいもしもし、松本ですが……」
どんな内容の電話かは分からないが、辰巳先生が話している内容の節々から、どうやら別の先生からの電話だと分かる。
確かそんな名前の年取った先生がいたはずだ。
「は、はぁ……わ、分かりました……」
しかし話している内に、辰巳先生の顔色はどんどん悪くなっていく。
歯切れも悪くなっていき、最後の方は辛うじて頷いているみたいな感じだった。
ようやく電話も終わり、辰巳先生は携帯を戻す。
そしてそのまま大きく溜息を吐くと、僕に視線を向けてくる。
「……急な仕事が入った」
「えぇ!?」
僕は辰巳先生の言葉に驚愕する。
思わず大きな声を上げ、教室で僕の声が反響する。
「き、今日ですか……!?」
「……今日だ」
「ま、まじですか……」
僕は突然やってきた悪夢に俯きたいのを堪える。
今一番そうしたいのは、辰巳先生本人なんだから。
僕がそれを奪っていいわけじゃない。
「……急いで、やるしかないな」
「僕は、手伝えますか?」
「いや、ちょっと厳しいかな」
「そうですか……」
もし僕が手伝えるようなことであれば、二人で作業が出来、早く終われるかもしれないと思ったのだが、どうやらそれも無理なようだ。
となれば辰巳先生がどれだけ早く終わらせられるかにかかっている。
「遅くなるかもしれないから、先に帰っててもいいぞ」
「いや、終わるのを待っておきますよ」
「そうか、分かった」
もともと僕は今日の結婚記念日の時、先生の家にお邪魔する予定だった。
といっても僕の場合、薫さんと顔を合わせないで、空き部屋に忍ばせていただくという風な計画だったのだ。
「じゃあ、頑張ってください」
「……あぁ」
今の時刻は六時。
結婚記念日が終了するまで、あと六時間を切った。
間に合う、だろうか。
今僕に出来ることと言ったら、辰巳先生を信じて待ち続けることくらいだった。
◆ ◆
「今日も、残り三十分だけですね」
「……あぁ」
「これじゃあ、厳しいですよね」
「間に合わないだろうなぁ……」
僕たちは真っ暗な道を急いで辰巳先生の家に向かっている。
でも僕たちの顔は優れない。
辰巳先生が急な仕事を受けて終わるまで、かなりかかってしまった。
それは決して辰巳先生の仕事効率が遅いというわけではなく、任せられた仕事の量が多かったからだろう。
でもそんなこと言っても結局は今日もあと三十分が残されているだけだ。
辰巳先生の家の場所を聞いた限りでは、ここからならどうしても三十分はかかる。
「あー……、今年もだめなのかなぁ」
辰巳先生がぽつりと呟く。
それは結婚記念日を共に過ごすことが出来ないことに対してなのか、僕にはどうしても聞くことが出来なかった。
◆ ◆
「…………」
僕は少しの間、辰巳先生の部屋の前で待っている。
本当は家の中に入る予定だったのだが、時間が押していることもあり、僕が部屋の外で待っているように提案したのだ。
マンションの一室に住んでいる辰巳先生の部屋の中からは意図せずして、部屋の中の声が聞こえてくる。
若い女の人の泣く声とそれを宥める男の人の声。
どうやら様子はあまり芳しくないよう。
――――バンッ!!
「っ!?」
突然開かれる扉に、僕は驚く。
この前のデートの時に一度だけ見たことのあるこの人は、辰巳先生の奥さん、薫さんだ。
しかし僕が扉の前から少しだけ逸れていたこともあってか、薫さんは僕に気付かない。
「あなたなんかと、結婚するんじゃなかった……っ」
そして最後、大きな声で一言残していくと、そのまま走り去る。
扉は開かれたままで、十二時を過ぎた真っ暗な空間を部屋の明かりが照らしている。
「…………」
次いで出てくるのは辰巳先生。
その顔はどこか苦笑いに包まれて、無理をしているようにしか見えない。
「いやぁ、盛大に振られちゃったな」
「……辰巳先生」
僕は、ここでなんて声をかけるのが正解なのか分からず、ただ立ち尽くす。
そんな僕を知ってか知らずか、辰巳先生は相変わらず苦笑いのままだ。
「まぁ、一回部屋に上がりなよ」
「……はい」
結局僕はそれ以上何も言えず、ただ辰巳先生に勧められるがままに部屋に上がらせてもらうことしか出来ない。
玄関には、恐らく薫さんが作っておいたのだろう料理のいい匂いが立ち込めていた。
「……美味しそうな料理、ですね」
「あぁ、多分俺のことを待っていてくれたんだろうなぁ」
食卓に並べられた料理の品々はどれも凝ったもので、素人が簡単に作れそうなものではない。
それだけ薫さんもこの日を楽しみにしていたということだろうか。
ここ最近は辰巳先生もちゃんと奥さんとの時間を大切にするようになっていたみたいで、デートの時の好感度はかなり高かった。
それなのに、今では一転してこんな状況である。
一体何がきっかけで、関係が壊れてしまうのか僕には分からない。
でも一つだけ分かることがあるとすれば、今回の恋愛相談は――――失敗してしまったということだ。
誰が見ても明らかなほどに失敗してしまった。
電話が来た時点で、僕が何かをすればよかったのか。
それともその前から僕のしていたことが間違っていたのか。
どれもピンとこない。
ただ結果だけ見るならば、今回の恋愛相談は完全なる失敗だった。
「……俺の部屋に行くか」
「……はい」
辰巳先生が案内する。
僕は黙ってついていく。
何にせよ、僕の恋愛相談は終わってしまったのだろう。
そう思うと、前から決めていたはずのことなのに、少しだけ心が揺らいだ。
「机の上、もっと片づけてくださいよ」
辰巳先生らしいと言えばいいのか、机の上には大量のプリントが重ねられている。
恐らくこれも誰かに任せられた仕事の一部なのだろう。
ただ今にも崩れそうなほど傾いているので、早急に片づけたほうがいいのではないだろうか。
「でも、それ以外は案外片付いているんですね」
僕は部屋の中を見渡す。
確かに一番目につく机の上は散らかっているけれど、床に何か散らばっているわけでもなく、家具も必要最低限の分しか置かれていないようだ。
「まぁそれは、今まではそういうの片づけてくれる人がいたからな」
「…………」
それが誰かなんて今更聞くまでもない。
僕は辰巳先生の言葉に俯く。
「気にしなくていいよ、別に」
辰巳先生はそう言ってくれるが、一番納得できていないのは辰巳先生自身なのは僕でも分かる。
僕に恋愛相談をしてきてから、一番頑張っていたのは辰巳先生だ。
週末予定を開けるために仕事を頑張ったり、デートコースのチェックとプレゼントの用意。
そしてデート。
どれだけの努力がそこにあったのは僕には分からない。
「あーあ……、結局今年の分も無駄になっちゃったな」
「……?」
突然そう呟く辰巳先生に僕は首を傾げる。
しかしそんな僕を他所に、辰巳先生はポケットから何やらを取り出す。
あれは……プレゼント?
可愛く装飾された箱の中には何が入っているんだろう。
それは分からないが、恐らくあれを結婚記念日に渡す予定だったんだろう。
もう終わってしまった結婚記念日に。
「……よいしょっと」
「それは、なんですか?」
辰巳先生は押入れを開けると、何やらごそごそと一つの袋を取り出す。
白い袋の中身はここからでは窺うことは出来ない。
「これは、これまでの記念日で渡せなかったプレゼントたちだよ」
「……え」
袋はかなり大きく、そして重そうだ。
その中全てが何かの記念日のプレゼントだとするならば、一体どれだけの数、プレゼントを渡せない時があったのだろうか。
そして今日、また一つ増えてしまうということだろうか。
「……渡したかったなぁ」
ぽつりと呟かれた辰巳先生の言葉。
あまりにもあっさりしすぎていたから、流してしまいそうだった。
でも僕はその言葉を聞いてしまった。
「辰巳先生は、薫さんのこと、嫌いになっていないんですか……?」
僕は、とっくに嫌いになっていると思っていた。
嫌いまではいかなくても、好きなんてありえない、そう思っていた。
だってあれだけのことを言われて、そう思わないはずがない。
あそこまで自分の努力を否定されて、好きでいられるはずがない、のに――
「え、好きなままだよ?」
――――どうして辰巳先生はそう言い切れるんだ。
一点の曇りもない笑顔を向けてくる。
まるで僕の言っていることの意味が分からない、とでも言うように。
僕には分からない。
分からない。
何が何なのか分からない。
好きってなんだ。
これまで向き合ってきた好きってなんだ。
どうして嫌いにならない。
どうして好きじゃなくならない。
意味が分からない。
全く分からない、分からない。
「…………」
僕はどんな顔をしていたんだろう。
そんな僕の顔を見て、辰巳先生は苦笑いを浮かべる。
「……世界で一人だけ、好きになった人なんだ。世界で一人だけ、この人と一生を共にしたいって思った人なんだ。世界で一人だけ、他の男なんかに盗られたくないって思った人なんだ」
そんな大好きな人への想いが、簡単に変わるわけないだろ?
『好きとか嫌いとか、そう簡単に変わらない人だって、いるんですよ』
「――――――――」
僕は、何も分かってなかった。
先生の想いも。
冴島さんの言葉も。
分かろうとしていなかったんだ。
上辺だけ理解して、全部分かった気でいたんだ。
ようやく、分かった。
先生の愛が、一体どこに向けられていて、どこに向けられ続けているのか。
これまでも、今も、これからも。
そして、薫さんの気持ちも。
あれだけの料理が作られていたわけも。
デートの時の好感度が、異様に高かったわけも。
なら、僕に出来ることってなんだ。
二人の望む幸せってなんだ。
僕の望む、二人だけのハッピーエンドってなんだ。
そんなの決まってる。
僕に出来ること。
僕だから出来ること。
僕にしか出来ないことを、やるしかないんだ。
「辰巳先生、薫さんを追いかけてください」
そして見つけてください。
今更でも構わない。
絶対に捕まえてください。
そして始めるんだ。
二人のハッピーエンドを。
まだ、恋愛相談は終わらせない。
「はぁ……はぁ……っ」
辺りは暗闇に包まれていて、唯一頼りになるのはまばらに立つ街灯だけ。
そんな中で、僕は辰巳先生を追いかけていた。
正確に言うと、『薫さんを追いかけている辰巳先生』を追いかけているところだ。
辰巳先生は日ごろ運動なんてしないはずなのに、どうしてか足が速く、見失わないようにするだけでも精一杯だ。
僕は何とか震える足に鞭を打ち、暗闇の中を走り続ける。
辰巳先生が薫さんを見つけるまで、走り続けた。
◆ ◆
「……どうして、来たの」
「……それは」
辰巳先生は、どうにか薫さんを見つけ出した。
でも二人で向かい合った時に何を言えばいいのか分からないようで、何も言わない。
そもそも辰巳先生を薫さんの下に向かわせたのは僕だ。
自分の意思があったにしろなかったにしろ、最終的な判断をさせたのは僕。
だから僕は二人の下に近付いた。
「こんばんわ」
「……こん、ばんわ?」
突然声をかけてきた僕に、驚く薫さん。
まさか僕が声をかけてくるとは思っていなかったのだろう、辰巳先生も戸惑いを隠せていない。
「僕は辰巳先生の教え子で、種島 好です」
「種島、くん……?」
「はい。辰巳先生から恋愛相談を受けてました」
「なっ!?」
僕の言葉に辰巳先生が驚いた声を上げる。
それでも僕は言葉を止めない。
「辰巳先生は、一生徒でしかない僕に頼ってしまうほど、薫さんとの関係が壊れてしまうのを危惧していました」
「……」
薫さんは何も言わない。
ただ黙って僕の言葉の続きを待つ。
「本当は今日だって二人で結婚記念日を楽しむ予定だったんです。でも直前になって辰巳先生に急な仕事が入って、それで間に合わせることが出来ませんでした」
「…………」
「辰巳先生はあなたのことが好きですよ。薫さんはもう辰巳先生のこと好きじゃありませんか?」
「……好きじゃ、ない」
少しの間の後に紡がれる薫さんの言葉。
それを聞いて辰巳先生の肩が少しだけ揺れる。
でも表情はまるで諦めきったような苦笑いのままだ。
「本当にそうですか? 辰巳先生は今でもあなたのことを世界一大好きだと言っていましたよ」
「う、嘘。そんなことありえない」
僕の言葉に薫さんは首を振って信じてくれようとしない。
そりゃあそうだ。
僕だって逆の立場だったら信じるなんて無理だと思う。
《《あんなこと》》を言ってしまった自覚があるなら、尚更だ。
だから僕は薫さんに信じてもらうための鍵を、出すことにした。
「これが何か分かりますか?」
僕は後ろに置いていた袋を薫さんの前に置く。
これは、長い間ずっと押入れの中に隠されていた記念日のプレゼントが入っている袋だ。
「これは、これまで無駄になってきた記念日のプレゼントたちですよ」
「っ!」
僕の言葉に驚き、袋を凝視する薫さん。
しかし袋の中にある、可愛く装飾された箱たちを見れば、僕の言っていることが本当だと信じてもらえるはずだ。
「……じ、じゃあどうして、渡してくれなかったの?」
「そ、それは……」
薫さんの一言に、僕は言葉を詰まらせる。
実はそれは僕自身も気になっていた。
記念日を過ぎてしまったら過ぎてしまったで、次の日にでも渡せば、薫さんの機嫌を損なうのも少しは和らいでいたのではないだろうか。
「……それは、記念日のためのプレゼントだったんだ」
「……辰巳先生」
突然口を挟んできた辰巳先生に僕は目を向ける。
でもさすがにそれは言葉足らずではないだろうか。
つまりこの渡せなかったプレゼントたちは記念日を過ぎてしまった時点で『有効期限』が切れてしまっていたのだろう。
何とも妙に真面目な辰巳先生らしい。
「薫さん」
相変わらず袋を見つめている薫さんを呼び掛ける。
これから僕がするのは最後の確認。
「まだ先生のこと嫌いですか?」
「…………」
「まだ先生のこと、好きじゃないって言いますか?」
「…………」
「まだ《《あんなこと》》を言うつもりですか?」
「……そんなこと、ない」
薫さんは僕の言葉に首を振る。
そりゃあそうだ。
そもそも薫さんにとって辰巳先生は、辰巳先生にとって薫さんがかけがえのない存在であるのと同じように、大事で唯一無二の存在だったんだ。
だからこその、デートの時の好感度。
だからこその、記念日の凝った料理。
嫌いなんて言ったのは、薫さんなりの意思表示だったのかもしれない。
全ては辰巳先生の気を少しでも引くため。
「…………」
薫さんは無言のまま、袋に手を伸ばす。
そして何やら一つの箱を取り出した。
それは偶然か必然か、今回の記念日のために辰巳先生が用意していたプレゼントだ。
「僕はもう、いらないみたいですね」
今回の恋愛相談、僕の出番はこれで終了だ。
あとは主役二人だけでいい。
僕は僕が出来ることを、二人は二人にしか出来ないことを。
「薫」
辰巳先生が、大切な人の名前を呼ぶ。
そのままゆっくり薫さんに近付くと、その手に握られる箱をそっと手に取る。
「これからもきっと、君に辛い思いや寂しい思いをさせると思う」
「……うん」
「でも好きだ。君のことが世界で一番好きだ。心の底から、愛してる」
「……うん」」
「だからもう一回、俺の残りの人生を貰ってください」
辰巳先生は膝を地面につけながら、プレゼントの箱を開ける。
対する薫さんの答えは、
「……はい」
ずっと前から決まっていた。
きっと薫さんはもう二度と辰巳先生のことを離さない。
きっと辰巳先生はもう二度と薫さんのことを離さない。
薫さんはプレゼントを受け取る。
少しだけ有効期限の切れた贈り物と、有効期限なんてないもう一つの贈り物。
今回の恋愛相談の終わりを告げる合図に、僕が好感度なんてわざわざ見るまでもない。
それは紛れもなく僕が望んだ、二人が望んだ、幸せの始まりだった。
「……ふぅ」
二人の甘酸っぱさに僕は夜空を見上げる。
そこには大きな満月が、ちっぽけな僕たちを照らしている。
僕はその時、一片も欠けることのない二人の本当の愛を見たような気がした。
「わざわざ送ってもらってすみません」
「いやいや、こんな遅くまで付き合せちゃったから当然だよ」
今回の恋愛相談が終わった僕は今、辰巳先生の車で家まで送ってもらっていた。
さすがに夜の十二時を過ぎているからか、道路を走っているのは僕たちの車だけだ。
それに街灯も少なく、車の外はほとんど何も見えない。
「種島」
すると唐突に辰巳先生が僕の名前を呼ぶ。
助手席に座っていた僕は隣で運転している辰巳先生を見る。
因みに薫さんは家で留守番だ。
「今日は、ありがとな」
そう呟く辰巳先生の視線は、車のライトのように真っ直ぐ向けられている。
それを見習って、僕も視線を前に向ける。
今回の恋愛相談、僕は自分の為すべきことがちゃんと出来たんだろうか。
きっと初めは出来ていなかった。
恋愛相談を受けたからと言って、自分がほとんど全部やらなくてはいけないと思っていた。
『恋愛』の中心にいるのが誰かということもすっかり忘れて。
僕は恋愛相談を受けただけの唯の外野だ。
恋愛相談の主役は僕じゃない。
僕は良くても主役をハッピーエンドに導くためのキーマンだろうか。
恋愛相談の主役は、少なくとも今回は辰巳先生と薫さんの二人だった。
それに気付いたのは恋愛相談の終盤。
そこから僕に何が出来たのは分からないけれど、きっとバッドエンドではなかったはずだ。
もっと何か出来ることがあったかもしれないけど、最低限の為すべきことはできたんじゃないだろうか。
そう、信じたい。
だから僕は自分を認めるために、謙遜はしない。
謙遜は美徳なのかもしれないけど、たまには自分を認めてあげたくなるものだ。
「……はい」
だから僕は辰巳先生のお礼に対して、小さな声で小さく頷いた。
「それにしても出ていかれた時は肝を冷やしたよ。よく薫が俺のことをまだ好きでいてくれてるって分かったな」
思い出したように辰巳先生が言ってくる。
確かに僕も最初は恋愛相談が失敗してしまったと思った。
それでも僕が薫さんの好意に気付けたのは、
「好きとか嫌いとか、そう簡単に変わらない人もいるみたいなので」
きっとそんな言葉を贈ってくれた人のお陰だ。
「でも帰るのがこんな時間になったら、宿題とかまずいんじゃない?」
心配そうに声をかけてくる辰巳先生に首を振る。
「それなら学校で、辰巳先生を待っている間に終わらせておいたので」
予想以上に時間がかかったので、やらなければいけないことも全て終わってしまった。
これで帰ったら後は寝るだけである。
「明日、授業で小テストあるからなー」
しかしそんな僕の耳にとんでも発言が聞こえてくる。
「辰巳先生、恋愛相談で僕、頑張ったと思うんです」
だからどうか明日の小テストは勘弁してください。
じゃなければ帰った後、また勉強しなくてはならなくなります。
僕は辰巳先生に懇願する。
「それはそれ。これはこれ」
「ひどい……」
「まぁ俺は学校で小テストのプリントも作り終えたから、帰ったら薫といちゃいちゃしようかな」
項垂れる僕ににやけ顔で辰巳先生はピースしてくる。
全くこの人は、恋愛相談なんて受けるべきじゃなかったのかもしれない。
「……リア充爆発しろ」
僕は助手席の窓を開けて、車の外に愚痴を零しまくった。
◆ ◆
「……あれ、こんなところでどうしたんですか?」
辰巳先生の恋愛相談が終わった翌日、学校も終わった放課後、僕は鞄を持って裏門にまでやって来ていた。
ある人を待っていたんだけど、それもちょうどやって来た。
「冴島さんを待ってたんだ」
今、僕の目の前には冴島 灯里さんが立っている。
その顔は少しだけ意外そうな表情に包まれている。
「私を、ですか……?」
「うん、そう」
「何か約束でもしてましたっけ?」
僕の言葉に冴島さんは首を捻る。
まぁそれも当然かもしれない。
僕がこうして今ここに立って、冴島さんを待っていたのは別に前もって話す予定があったりしたわけじゃなく、ただ単に今日僕が一方的に用事があっただけなのだ。
「お礼を、言いたくて」
それが今日、僕がここで冴島さんを待っていた理由。
「……私、何かお礼を言われるようなことしましたっけ?」
冴島さんはまたもや首を捻る。
そんな冴島さんに僕は頷く。
冴島さんにとっては何気ない一言で、関係を壊した僕に対しての罵倒だったのかもしれないけど、僕にとってあの言葉は重要な一言だったのだ。
少なくとも、今回の恋愛相談においては、あの言葉がなければ失敗していただろう。
「『好きとか嫌いとか、そう簡単に変わらない人だっている』」
「……」
「この言葉が僕に気付かせてくれたものの大きさは、計り知れません。だから、お礼を言わせてください」
「……そうですか」
ようやく頷いてくれる冴島さん。
何があったのかまでは分からないだろうけど、少なからず影響を与えたということが分かってくれたのだろう。
「本当に、ありがとう」
僕は頭を下げる。
これが今僕が出来る精一杯の誠意だと思う。
これまで冴島さんに対して、いくつもの関係を壊したりしてきた僕。
そんな僕が冴島さんに嫌われているなんてことも自覚しているけど、それでも言わずにはいられなかった。
長い、長い沈黙だった。
僕はずっと頭を下げ続けていて、冴島さんの反応を待つ。
「種島くん」
そこで初めて、冴島さんが口を開く。
辺りは妙に静かで、僕たちの外に人影は全く見えず、風も吹いていない。
僕はゆっくりと下げていた頭をあげて、その視線を冴島さんに向ける。
「……?」
そこで僕は少し違和感を感じた。
普段あまり冴島さんを見ないからか、何だか今日は頬が赤く染まっている。
心なしか肩もあがっていて、緊張しているのだろうか。
「……種島くん」
「は、はい」
もう一度名前を呼ばれ、僕は応える。
一体どうしたのだろうか。
体調が悪いのであれば、早く帰って休んだ方がいい。
僕はそんなことを考えていた。
その言葉を言われるまでは――。
「私、種島くんのことが好きです」
「……え?」
今のは、ただの聞き間違いだろうか。
何か変なことが聞こえたような気がしたんだけど。
冴島さんが、僕のことを……好き?
嫌い、の間違いじゃなく?
僕は最大限に見開いた眼で冴島さんを見つめる。
冴島さんの視線は僕のそれを射抜き、思わず固まってしまう。
その表情はさっき以上に赤く染まり、下唇を噛んでいる。
「私、種島くんのことが好きなんです」
困惑する僕に、とどめの一撃。
聞き間違いなんかじゃない。
絶対にそう言っているのを、僕は認めざるを得なかった。
「な、なんで」
自然と疑問の声が出てくる。
意味が分からない。
なぜなら僕は冴島さんに嫌われているはずだから。
「冴島さんは、僕のことが、嫌いなんだよね……?」
これまでに僕が犯してしまったことを考えれば普通そうだ。
だから僕が恋愛相談を受けているときに不機嫌そうな顔を浮かべていたんだろう。
だが冴島さんは僕の言葉に、困惑の色を見せる。
まるで僕が何を言っているのかが分からないように。
しかしそれも少しすると思い出したように頷く。
そして、
「種島くんって、自分に対する好感度は見えないんでしたね」
そんなことを言ってきた。
その一言はあまりにも突拍子で、突発的で、突風的な勢いで僕を襲ってきた。