【小話⑥ー3ミレニアとアニエス】
【小話⑥ー3】
ミレニアはしばらく扉を見つめると、すっかり冷めてしまった紅茶を口に運ぶ。すると部屋の隅に控えていたクレアが慌てて近付いてくる。
「ミレニア様、お茶を淹れ直して参りますので少々お待ち下さいませ」
「ええ、お願い。 けれどゆっくりで良いから貴女も少し休憩していらっしゃい?」
「私は大丈夫です。 すぐにご用意して戻って参りますから」
そう言って首を振るクレアに今度はミレニアが首を横に振る。
「いいえ、貴女一人に世話を任せっきりなのですもの。そんな貴女に疲れてもらっては私が困ってしまいますのよ? それに休憩がてら下がらせている私の侍女達の様子も見てきて欲しいのです。そして彼女達にお茶と菓子でも差し入れてあげてきて頂戴? それで少しは気分も落ち着くでしょう?」
そんな主の優しい言葉にクレアは微笑みながら深々と頭を下げる。
「畏まりました。 ミレニア様、侍女である私達にまでお優しいお心遣いありがとうございます。皆も大変喜ぶ事でしょう。私もお言葉に甘えさせて頂きますが、くれぐれもお一人でご無理はなさらないて下さいませ。そして何かあれば直ぐに部屋の外の護衛にお声をお掛け下さい」
そうしてクレアもお茶の道具を乗せたワゴンを押して扉の前で一礼し、「出来るだけ早く戻りますから」と言って部屋を退室していった。
久々に部屋で一人になったミレニアは窓側のテーブルに移動すると、閉めてあるカーテンを一枚だけ開いて窓の外の嵐を見つめる。
「本当に酷い嵐だこと。まるで何かを『予兆』しているかのようにも思えてくるわね」
ミレニアは先ほど片付けた書き物を再びテーブルの上に並べる。
「それにしても我が妹ながら本当に困った子ね。気性が母上によく似ているだけに説得しようにも骨が折れるわ。
セルリアの王子の事も王子が容姿端麗でしかも性格まで良いから諦めろといっても難しいのでしょうけれど、母上譲りのあの気性では王子のみならず他の殿方の愛情を得る事すらかなり難しいでしょうね。
あの子も貴族のご婦人方の様に異性の前では優しい従順な女を演じる使い分けが出来る“あざとさ”があればまた違ったのでしょうけれど、王族としてのプライドがそれを許さないのだから、私達三姉妹の中では一番容姿も良く可愛らしいのに本当に勿体無いことーーー」
ミレニアは独り言を呟きながらテーブルの椅子に腰掛けて頬杖をつく。本来ならば頬杖をつく事は淑女としては行儀の悪い事ではあるのだが、誰も見咎める者がいないからこそ出来る姿である。そして更には言葉遣いも市井の民達のような砕けた口調になるのも一人だからこそである。
そんなミレニアには人前では隠している顔がいくつか存在するが、それらは自分の弱点になる可能性もあるので普段は表立って見せる事はしない。
ただし侍女クレアは昔から自分に仕えているので信用が置ける事に加えて都合上、見せている部分もあるが肉親ですらそんな自分の内なる姿は知らないだろう。
この国で王族として生まれ、肉親ですらも信用する事の出来ない欲望と計略にまみれた貴族社会において隙あらば奈落に突き落とされる修羅の世界に身を置いているのだ。
幼き頃から華やかな世界の裏のそんな暗雲の広がる光景を見続けてきただけに、まして実の父親である国王からも親子としての愛情を受ける事はなく、
物心のつく年齢になって自分の置かれている状況をいち早く悟ったミレニアは『自分を守るのは自分なのだ』と心に武装する如く密かに周りの様子を観察しながら自分の立ち位置を定めてきた。
そんな中、諸国から暴君と呼ばれる自由奔放で自分勝手な肉親の情すらないはずの父親が、ある日の戦の遠征先で自分の長女と同じ年齢の美しい娘を連れ帰ってきて自分の愛妾にしたばかりか、信じられない事にその愛妾をひたすら寵愛し他の女達には一切目もくれずに執心していた。
そしてその愛妾との間に出来た娘であるリルディアを、自分達三姉妹には決して向けられなかった愛情を惜しげもなく注いで溺愛し、更にはリルディアへの親馬鹿振りの顔すらも周囲に見せていた。
確かに私達への待遇はぞんざいにはしないものの、それはリルディアに向ける様な父親の愛情ではなく、あくまで国王としての義務的な対応でしかなく王妃であるはずの母と娘の私達はブランノアとフォルセナの王族の血統でありながら、世間からは天から美しい容姿と声を与えれた神の愛し子の様な愛妾親子と常に比べられ同情の浮かぶ視線を向けられるのが何よりも屈辱的で不快極まりなかった。
これも母自身が政略結婚であればこその国王からの愛情を得る努力を怠った結果でもあるが、その子供達にまで罪は無いとは思う。
しかしそんな国王は私達に父親としての愛情は一切与えなかった。逆に母の兄で伯父上であるフォルセナ国王がそんな私達の父親代わりになっていたほどだ。
そんな非情で最低な父親に腹違いの妹との歴然とした愛情の格差を毎日の様に見せつけられていれば、私達の性格が歪んでしまうのも仕方のない事である。
しかも母もその頃からすっかり神経質になり、いつも眉間に皺を寄せて苛々し、何かにつけてヒステリックに怒っていたので、私達はそんな母親の顔色を伺いながら日々を送っていたのだ。
あの頃は私達はまだ良いが幼いアニエスが本当に不憫であり、母の状態の酷い時には私は密かに伯父のフォルセナの国王に親書を送り母と共にフォルセナに里帰りをさせて貰っていた。
そんな私達とは真逆にして父親からの愛情を一身に受けて大切に育てられているリルディアが酷く憎らしく忌々しい存在であり、当時リルディアは病弱な体の弱い子供だったので「早く死んでしまえばいいのに」と常に考えていたほどだ。
もし父親の目が光ってさえいなければ母か私達姉妹の誰かがリルディアを暗殺していてもおかしくないくらいに本当にその存在自体が非常に憎らしくて仕方なかった。
しかしある日を境に母の様子が一変し、愛妾親子の事はまるで無き存在として何も言わなくなった。
私達が何を言っても「関わるでない、捨て置け」としか言わない。
私はそんな母が積年の夫や愛妾親子への憎しみに、とうとう疲れ果てて、どうでもよくなってしまったのだろうと思っていたのだがーー私は偶然にしてその『理由』を知ってしまったーーー
私がその『理由』を知った事はフォルセナ国王ただ一人だけで母ですらも気付いてはいない。だからこれは私とフォルセナ国王との二人だけの『秘密』
私はそれからというもの、物事を自分の感情に囚われる事なく客観的に見定める術を覚えた。
私達の生きる世界はあまりにも世知辛く弱い者ほど直ぐに淘汰されてしまうほどに様々な念が渦を巻いている。
私はその実態をこれほど強く感じた事が無く、初めて自分の保身を意識した。それが例え王族であろうと絶対的な安全の保障などどこにもないのだと言える。
ーー誰も信用しては駄目だ。逆に利用出来るものは何でも利用しなければーーー
…………それが私の中で導き出された言葉だった。
そんな自分は幸いにして夫君に恵まれこうして子も授かり、今は優しい夫や周囲に守られて穏やかな日々を送っている。
だから同腹から生まれた妹のアニエスには尚更ブランノアの国を出て、どこかの国の貴族の男性と結婚して幸せに暮らして欲しいと願う。
『真実』を知っている自分だけが幸せになる事は、何も知らないアニエスに対して後ろめたさしか残らない。
ーーあの時、フォルセナで偶然伯父上と母の会話を耳にしなければこんなに思い悩む事もなかったのに。
父が全ての『原因』ではあるのは確かだが母にも庇いきれない『咎』がある。
それほどに人間の感情ほど複雑で他人が介入して単純に操れるものではないという事だ。
「ーーもしこれが明るみに出れば、この嵐の様に事態は大荒れになるでしょうね。
お恨み致します。父上、そして母上。出来れば私も知りたくはなかったですわ。大人の事情に子供を巻き込まないで下さいませ。子供は親を選べないのですからーーー
ーーって、そういう私も同じね。この子にとって私が母親であってよかったのかしら?………ふふっ、感傷的になるなんて私らしくもないわね。父上が何をお考えなのかは分からないけれど、愛妾親子さえ無事であれば私達の事など全く関心すらないのだから、逆にこちらが捨て置かれている内は心配はいらないという事ーーなんとも皮肉な確認の仕方だわね」
ミレニアはやや自嘲気味に微笑みながらテーブルに並べた紙を手に取って見直す。
「…………やはりアニエスの事は何か手を打たないと駄目ね。リルディアがこのままセルリアに嫁ぐとも限らないし、かといってアニエスの望みを叶えるわけにもいかない。しかもセルリア自体もリルディアとの婚約解消を大人しく引き下がりはしないでしょう。
アニエスには可哀想だけれどリルディアがセルリアに嫁いでこの国から出て行ってくれさえすれば問題はないのだけれど、やはり世の中上手くはいかないものね。しかもよりにもよってクラウス叔父上だなんてーーセルリアの王太子の方がずっとお似合いでしょうに。
リルディアは本当に“騒乱の根源”の様な娘ね。父上にあまりにもよく似ていて相変わらず忌々しいくらいよ」
ミレニアは長いため息を吐くと持っていた紙を置いて筆を取る。
「はあ………何もしないと色々と考えてしまって精神的にも良くはないし、お腹の子にも障るからと道楽で始めたけれど、何も考えずに没頭するには、やはり“これ”が一番ね。しかもこの城には話題の事欠かない人間ばかりいるから、つい筆が進んで時間さえも忘れてしまう。
更には実益も兼ねていて、市井の情勢も直接知る事が出来るし、退屈と愁いを解消するにもまさにうってつけーーふふっ、私は王女なんかよりも商売人に向いているのかもしれないわ」
ミレニアは静かに笑いながら紙の上で筆を滑らせる。
「さてと………ふふっ、どうしてやろうかしら? 嵐の夜の『修羅場』ーー王太子に連れ出されて城を逃げ出そうとする妹魔女の前に、夫である王子が待ち構えていて、更には嫉妬で悪女と化した主人公がーーしかしその妹魔女は実は姉魔女だったーーー
なんて展開の方が面白いわよね。もしくは敢えてリルディアが苦手なイルミナ姉上をくっつけて濃厚濡れ場とかの方がかえって読者も喜ぶかしら? ーーああ、『王太子』と『妹魔女』だったわね。
ふふっ、現実では出来ない事も『お話』の中でならリルディア親子を煮るも焼くも私の好きに出来るのだもの。楽しい事この上ないわ。ーーねえ? あなたも楽しいでしょう?」
ミレニアはお腹をゆっくりと撫でながら我が子に語りかけていると、ふいに扉の叩かれる音が聞こえ、侍女のクレアが戻ってくる。
「ミレニア様、ただいま戻りました。お待たせしてしまいまして申し訳ございません」
そう言って頭を下げるクレアにミレニアは筆を置いて笑顔で迎える。
「おかえりなさい。 もっとゆっくりしていても良かったですのに、これでは休憩にもならないのではないの?」
「いいえ、十分に休憩を頂きました。本当にありがとうございます。他の皆の様子も見て参りましたが、かなり落ち着いていておりまして、お呼び下さればいつでも戻りますとの事ですわ。そして皆、ミレニア様のお心遣いに大変感謝しておりました。ご心配には及びませんので安心なさって下さい」
「そう、それを聞いて安心しました。特に親元を離れている若い侍女達にはこの嵐は心細いでしょうから少し心配ではあったのです」
するとクレアもニッコリと微笑む。
「ミレニア様のようなお優しい主にお仕え出来る私達は本当に果報者です。それと先ほど領地見回り交代の騎士達が戻ってきたのですが、天候も次第に落ち着いて来ていると申しておりましたので、この嵐も明日には治まるだろうとの事でした」
「ええ、見たところ大分風も弱くなって穏やかになってきている様ですわね。このままでいけば『奉納祭』の方も無事に行われる事でしょう。皆の楽しみが先延ばしにならずに済んで良かったですわ」
「はい、本当に。これから関係者の方々は嵐で遅れた分の準備に忙しくはなりそうですが、なんと申しましても此度はアニエス様が初めて『祝福の聖乙女』として儀式の舞台にお立ちになり、更には奉納試合で優勝者への宝剣授与もなされるのですもの。ミレニア様も妹君のご活躍をご覧になられるのは楽しみでいらっしゃいますでしょう?」
「ええ、可愛い妹のお披露目の場でもありますもの。妹の美しい晴れ姿を見られるのは姉として誇らしくてよ? これで世間からのあの子の評価が少しでも良くなると申し分ないのだけれど、あの子の気性から、また我儘な態度が出やしないかと心配でもあるのです。まして言って素直に聞くような子ではないし、末の子だけに特有の我儘にも困りものですわ」
するとクレアが淹れ直した紅茶をテーブルの上に差し出す。
「ふふっ、世間ではよく言うではありませんか。“手の掛かる子ほど愛しくて可愛い”と。ミレニア様は本当に妹君思いのお優しくてご立派な姉上様です。アニエス様もミレニア様のような姉上様がいらしてお幸せな御方ですわ」
そんなクレアの言葉にミレニアは愁いを帯びた表情で俯きかげんに目を閉じる。
「アニエスーー私の可愛い妹。あの子の味方であるのは私だけーー本当に不憫な子だけに放っては置けないの」
「まあ! ミレニア様。そのようにお一人でご心配なさる事はございませんよ? アニエス様にはミレニア様は勿論の事、王妃様やイルミナ様がいらっしゃるではありませんか。しかもフォルセナ王家も付いておいでなのですから、これほど強いお味方が揃っていらっしゃるというのも中々ございませんよ?」
そんな愁い顔の主を気遣うクレアにミレニアは心配をかけないように優しげな顔を向ける。
「ええ、そうですわね。貴女の言う通りです。私の妹は本当に手が掛かる子だけに、つい過保護になってしまうから、それがいけないのですわね。同情など逆にあの子のプライドを傷つけてしまうだけですもの」
「ミレニア様、大丈夫ですよ。アニエス様は王妃様によく似ておいでですから、大変気高くお強い御方でいらっしゃいますもの」
「…………ええ、本当にあの子は母上によく似ておりますわ。……………尚の事、可哀想な子」
ミレニアがポツリと呟いた言葉があまりにも声が小さ過ぎて聞き取れずに首を傾げるクレアを他所に、ミレニアは紅茶のカップをゆっくりと口を運ぶと、それ以上は殆ど語らずに、再びテーブルの上の紙に顔を向けて黙々と筆を滑らせていた。
【⑥ー終】