【小話⑤『ファーストキス』~契約より】
【小話⑤】
私は沸き上がる怒りに任せて再び娘の枕を投げ付ける。
「嘘仰い!! あの目は“本気”だったわっ!! しかも事もあろうに娘の前で二回もキスされたのよ!? あんたには大した事ではなくとも、まだ8つの幼い娘にあんなものを見せた上に大人の会話まで聞かせるなんて、あんたは“父親失格”よ! もしこれでリルディアに変な影響が出たら、全てあんたのせいだからね!!」
「ーーリル、見てないよ!?」
突然、娘の声が聞こえて我に返ると、娘の姿がどこにも見えない事に気付く。
「リルディア??」
私は娘がいたはずの方向を見るも、その場に姿は無い。そしてアレイストも同じく娘がいない事に気付き、腰掛けていたベッドから立ち上がると、辺りを見回している。
「リルディア? どこにいるんだ?」
「ーーリル、本当に見てないからね?」
ーーと、またどこからともなく娘の小さな声が聞こえてくる。私も立ち上がると辺りを見回して声を掛ける。
「リルディア? どこにいるの? 出ていらっしゃい?」
すると娘の声がまた聞こえる。
「え~? だってリルが見ていたら母様、恥ずかしいんでしょ? だからリル、まだここにいるね? 邪魔しないからいっぱいキスしていいよ?」
「…………アレイスト」
私はそんな『馬鹿男』を恨みを込めた視線で睨み付けると、さすがにアレイストも頭を掻いている。そしてアレイストは声の聞こえた方向のクローゼットへ向かうとその扉を開ける。
「ーーリルディア、見つけたぞ?」
「あ、お父様だ??」
「突然、見えなくなるからビックリするじゃないか」
アレイストはクローゼットの中にいた娘を抱き上げる。
「ん~だって、お父様は母様とキスしたいのにリルがいたら邪魔でしょ?」
娘の言葉にすっかり『父親の顔』に戻ったアレイストは破顔しながら娘の頬にキスをする。
「父様はリルディアを邪魔だなんて思った事は一度も無いぞ? 確かに母様にも沢山キスしたいが、お前にもいっぱいキスしたいんだ。リルディアは恥ずかしいか?」
「ううん? ぜ~んぜん恥ずかしくないよ? リルもお父様にキスしたい!! ーーーチュッ」
「!! リ、リルディアあぁっっーー!!?」
それを見た私は思わず絶叫に近い声で叫ぶ。そしてアレイストの顔も驚いたまま、目を大きく見開いている。
「お父様?? どうしたの?」
「あ? ああ、いや、」
「あ、あ、あんた、なんてことを!!」
娘はキョトンと首を傾げ、その表情はまるで分かっていない。
「母様?? お父様にキスしちゃ駄目なの?」
「だ、駄目って、あんた、自分の『ファーストキス』をーーー」
「ファーストキス?」
娘のその反応に私は自分の“失態”に気付く。
ーーああ、そうだった。娘に『ファーストキス』の事なんて、教えていなかった。でもそういう事は自然と覚えるものだが、この子は箱入り育ち。母親である私が教えないといけなかった。そうとは知らない娘は自分の初めての大事なキスをよりにもよって、自分の父親にあげてしまうなんて!!
後悔の念に狼狽する私を他所に娘の父親は上機嫌で笑い出す。
「ははははっつ! どうだ!! 娘の『ファーストキス』の相手は私だ!! この事実はもう覆せんぞ!? リルディアの“初めて”はこの私が貰った!!」
ーー馬鹿か!? この男は!! ーーああ、やっぱり殴りたいっ!!
「冗、冗談じゃないわっ!? 父親へのキスなんて、そんなのカウントに入らないわよ!! 自惚れるのも大概にして!!」
私はキッと馬鹿な父親を睨みながら娘に詰め寄る。
「リルディア!! いいこと? 今のは『ファーストキス』じゃないのよ? 父親へのキスなんて、犬や猫へのキスと一緒なの。だからリルディアの唇はまだ純潔のままなのよ?」
ーー娘はまだ8つ。今なら言いくるめられる。
「ファーストキスってなあに?」
首を傾げる娘にもう済んでしまった事ではあるが、私は額に手を置いてその後悔で深いため息を吐吐く。
「本当にーーもっと早くに教えておくべきだったわ。あのね? リルディアよく聞くのよ? 女の子の唇のキスは『特別』なの。
ーーえっと、つまり、唇へのキスを異性ーー男性とするのは本当に一番愛している人としかしてはいけないのよ? だからたとえ父親であっても、唇にだけは絶対にキスしてはいけないの。
だから『ファーストキス』というのは、女の子が生まれて初めて一番大好きな男性とするキスの事よ? それは他のどんなキスよりも一番大切なキスなの。だからリルディアのその唇はあんたの一番大好きな男性としかキスしては駄目なのよ?」
「一番大好きな男性? お父様じゃなくて??」
「ーーええ、そうよ」
「リルディアの一番大好きな男は私しかいないだろう?」
「馬っ鹿じゃないの!? 父親は『異性』になんて入らないわよっ!! あんたのせいでリルディアの『男』の認識がおかしくなってしまったらどうするのよっ!! 大人になってからじゃもう修正効かないんだからね!?」
私はこのどうしようもない親馬鹿男の胸元をむんずと掴んで詰め寄っていると、父親の胸の中で娘は何やら考えるような表情をし、次の瞬間、娘は父親にとって“大打撃”であろう究極の大槌を見事に振り下ろした。
「それじゃあ、リル、もう『ファーストキス』しちゃったよ?」
「えっ?」
「なっ?」
私達は同時に声をあげ娘の顔を見つめる。
「え~っと? リルディア? 念の為に聞くけど………それって、さっきのお父様へのキスーーじゃなくて?」
私が確認すると娘は笑顔で頷く。
「うん!! 違うよ? だって大好きな男の人と初めて唇にキスするのが『ファーストキス』なんでしょ? それならリル、もうキスしちゃったよ?」
「なっ、な、なんだとおおおっーーっつ!!」
アレイストの表情が一気に青ざめ、驚愕と怒号の入り交じった大きな声が部屋中に響き、それに驚いた娘は身を捩って父親の胸から逃れる。そんな父親は娘の肩を掴んですごい勢いで詰め寄った。
「リ、リルディアっ!? 嘘だよな!? 冗談なんだろう?」
豹変した父親の様子に娘はたじろぎながらも首を横に振る。
「嘘じゃないよ!? リル、嘘なんてつかないもん!!」
「うぐおおおおっつーーー!!!」
突然、拳を握り締めて天井を向いて雄叫びを上げる父親にリルディアが驚いて私の後ろに隠れる。私は怯える娘を自分の後ろに隠すと、アレイストを取り敢えず宥める。
「ちょっと!! 大声で叫ばないで!! リルディアが怖がっているでしょう? もうっ、幼い子供の言う事じゃないの。本気にしないで!!」
アレイストは余程の衝撃を受けたのか、そのまま拳を握り締め俯いたまま、その肩がワナワナと震えている。私の後ろでは娘が私の背中にしがみ付き顔を隠してその小さな体を強張らせながら小さく震えている。
ーーああ、面倒くさい事になったわ。私も先ほどの『本気』の怒り状態のアレイストも怖かったが、今のこの状態のアレイストも正直怖い。けれど娘に怒りの矛先を向けさせるわけにはいかない。私で食い止めなければ。
「アレイスト、落ち着いて? リルディアが怖がって今にも泣きそうなのよ?」
私がそう言うとアレイストはゆっくりと俯いていた顔を起こすと、真顔で無言のまま私の前に歩いて来る。私はそんなアレイストに表情を強張らせて緊張してしまう。
えっ!? 真顔!? やだ、また『本気』なの?? 相手は『リルディア』なのに??
アレイストは私の前に立つと真顔で私の顔を見つめ、ゆっくりと息を吐いてから床に膝を付けて腰を落とす。そして私の背中で震える娘に、先ほどの態度からは、とても信じられないような穏やかな優しい声色で話し掛ける。
「リルディア? すまなかったーーいきなり大きな声を出したりしてお前を怖がらせてしまった。父様が悪かったよ。本当にすまない」
すると娘が私の背中からそっと顔を覗かせる。
「………もう、怒ってない?」
半分涙声で娘が問うと、アレイストは本当に先ほどとは全く別人のように娘に穏やかに微笑む。
「ああ、怒ってなどいないよ? 怒るわけがない。だから泣かないでくれ、リルディア。怖かったよな? 父様が本当に悪かったよ。もうあんな事は二度としないから父様を許してくれないか?」
「………うん」
リルディアは私の後ろで小さく返事をして頷くと、父親の前にゆっくりと出て行きその胸にギュッと抱き付く。そしてそんな娘を抱きしめているアレイストを見て私の方がホッとして胸を撫で下ろす。取り敢えず大事にならずに済んで良かった。
それにしてもこの男の『忍耐力』が、“リルディア限定”であるのがなんとも腹の立つ事だ。娘の“脱ファーストキス”発言を聞いて、内心は業火の如く燃え盛って荒れているだろうに先ほど私の前に立ったあの時、確かにあの顔は『本気』で怒っていたのに、私の顔をリルディアの鏡にしてこの男は“あの瞬間”気持ちを切り替えた。娘に怒りの矛先を向けないように。
だから娘から受けた怒りの分は、現在、私に振り替えられていると言う事になる。自分の娘の事だからそれは仕方がないが、また私にこの男のご機嫌取りの役回りが回ってきたかと思うと、もう何度目かも分からないため息を吐いてしまう。
しかもこの男は娘のリルディアにはまるで愛しい恋人に語りかけるかのように優しい態度や声音で話すのに私にはそんな態度などとった事もない。
ーーまあ、私にそんな態度をとられても、気色悪がるだけだけれどーーー
*****
「はぁ………一体、相手は誰なんだ?」
私の部屋のソファーに腰かけたアレイストは、肩を落として項垂れたまま珍しいことに憔悴している。やはり娘から受けた衝撃が一番堪えたのだろう。
しかしそれに対していくら怒りが湧いたところで、まさかその苛立ちを娘に向けるわけにもいかず、自分の中でその苛立ちを消化した結果の憔悴だ。
そんな親馬鹿男の様子を見て私は同情するどころか先ほど私を怖がらせてくれた恨みもあるので、内心、いい気味だと本当は大声で笑い飛ばしてやりたいところではあるが、かえって拗ねられると後々面倒なので、そこは堪えて取り敢えず自然と笑みが零れそうになるのを我慢している。
「そんなに気にする必要ないわよ。娘はまだ8つなのよ? いくら『ファーストキス』って言ったって、あの子にしてみたら愛玩動物へのキスと同じよ。深い意味なんてないわ。だから放っておきなさいよ」
「………そう言うお前は随分と楽しそうだな? ーー私への嫌味か?」
アレイストは背を丸めて両手の指を組んで、それを額につけながら考え込むような姿のままで視線だけをこちらに向ける。
「あら? そう聞こえた?」
「顔が笑っているーーくそっ………どこのどいつだ!!? 私の大事な大事な可愛い娘の可憐な唇を奪った不埒な輩は!! 見つけ次第、直ちに極刑に処してやるっ!!」
アレイストはそう言うなり、ソファーのクッションに拳を食い込ませて怒りの衝動を最小限に抑えている。私はそれを呆れて見つめる。本当にこれが世間で暴君と恐れられている男の“姿”とは。一皮むけばただの『親馬鹿』だ。
しかし、こうして接していても、密かに心配していたアレイストの『本気』の怒りの気配がない。ーー確かに怒ってはいる。けれど、まだ理性が残っているようなそんな感じを受けた。
「ーー大げさに騒ぎすぎ。それにそんな事出来るワケないでしょ? 相手は娘の『大好きな人』なのよ? それなのにその相手に酷い事なんかしてみなさいよ? あんた、一生娘に嫌われるわよ? しかも嫌われるどころか、親子の縁も完全に切られるわね」
「うぐっーーー」
言い返す言葉も見つからないのか、アレイストは言葉に詰まり小さく唸りながら今度はクッションを羽交い締めにしている。それを見た私は次第に笑いが込み上げてきて我慢していても自然に目が笑ってしまう。クッションに怒りの行き場として八つ当たりなどとは、この男にはなんとも似合わない可愛い八つ当たりである。
そういえば、娘のリルディアも不機嫌になると、クッションと戦っているのをよく見る。
ーーああ、いやだわ。行動まで一緒だなんて。
この男を見る度に嫌でも思い知らされる。娘がこの男にそっくりなのだと。私はそんなアレイストを見ていると、なんだか意地悪心がむくむくと湧いてきた。この男の唯一の“弱点”は娘のリルディアである。
そういえば、先ほど私を硬直させてくれた『礼』もあるじゃない。………少し、苛めてやるか。
私は口角を小さく上げると、淹れた紅茶を持ってアレイストの隣に座る。
「ああ、それに、きっとそれって『逆』よ?」
「逆?」
アレイストはクッションへの八つ当たりをやめて私を見据える。私は紅茶のカップに口を付けながらも、その口許は小さく笑みを浮かべながら答える。
「ええ、あんたは“奪った”と思っている様だけれど、それって『逆』よ。相手の方がリルディアに“奪われた”のだと思うわ」
「なっ!? なんだと!?」
アレイストの表情に明らかに動揺が走る。
「だって、考えてもごらんなさいよ? あんたの溺愛している愛娘と知って、手を出す命知らずな男なんてどこにいるっていうのよ? 少なくともこの国の中では誰もいやしないわ。
それにあの子の性格からしてもキスするなら自分からいくわよ。自分の感情のままに行動する『誰かさん』と同じでね。だからあんただってさっきあの子にキスされていたじゃない。
だから本当に可哀想なのはその“相手”の方よ。今頃は、いつあんたに知られやしないかと、毎日、生きた心地がしていないと思うわ。リルディアもまだ子供だとはいえ、相手にとっては傍迷惑この上ない本当に困った子ね」
そんな私の言葉を聞いたアレイストは不機嫌極まりないという表情で反論してくる。
「リルディアが傍迷惑だと!? あんなに美人で可愛くて可憐な数年後の絶世の美女からの初めてのキスを受けたのだぞ!? 今生の恩恵以外に何がある!! 其奴は泣いて喜んで然るべきだろう。それなのに迷惑なわけがなかろう!!」
「ーーねえ、言っている事がおかしくない? それって、娘のキスを『肯定』してるの?『否定』してるの?」
「『否定』に決まっている!! 私の可愛いリルディアにキスをするのも、されるのも、私が許さんっ!! くそっ!! 誰だ!? 相手は一体誰なんだ!!? だが、リルディアに問い詰めるわけにはいかんし………ううっ、私の大切な娘の唇が………」
がっくりと項垂れて低く唸りながら激しく落ち込むアレイストの様子に私は言葉には出さないものの、本当に「いい気味」だと内心から湧き上がる笑いが止まらない。しかもそれが表情に出ていたのだろう。そんな私の顔を見てアレイストが恨みがましげな視線を送ってくる。
「………お前、まさか“相手”を知っているのか?」
その言葉に私は大きく肩を竦めた。
「知るわけないじゃない。私だって初耳だったわ? でも、あの子意外と手が早いタイプだったのね? ほ~んと『誰さん』とよく似てるわ。心当たり、大いにあるでしょ?」
そう言って目を細めた私を見て、アレイストは悔しがるように視線を逸らす。
「………お前は相手が誰なのか気にならんのか? 其奴が悪い男だったらどうする!? リルディアは素直な子だ。騙されているかもしれんのに!!」
「あら? そうね?」
と、そこは同意はするが大して心配はしてはいない。何故ならーーー
「ーーそこは、父親であるあんたの出番でしょ? あんたは娘の扱いも上手いのだからその時はあの子を上手く諭して相手を撃退なさいよ。まあ、あんたという父親がいたら、あの子に近付く男なんて誰もいないとは思うけど」
「…………以前から思う事だが、お前は自分の子供の事なのにどうしてそう客観的なんだ?」
「そんなの決まっているじゃない。そういう性格なのよ」
それを聞いたアレイストは深いため息を吐くと持っていたクッションに顔を埋める。
「ーーはあ、お前と話していると、こうしている自分が馬鹿馬鹿しくなるな。………今日は色々あって疲れた」
そんな風に本当に珍しく意気消沈しているアレイストを見て、私はふと思い出す。
「ねえ?そういえば、あんたは私の“何に”怒っていたの?」
するとアレイストは徐に顔を上げて私を見る。
「ーー何の事だ?」
「私に対して“怒っていた”んでしょう? ーー違うの?」
「………いや、気のせいだろ」
気のせいだとは言いながらも、何か言いたげな視線は全く隠せてはいない表情で、アレイストはフッと小さく笑うと私から視線を逸らす。
ーーああ、本当に面倒くさい男ね。そこ、誤魔化すところ? はっきり言えばいいでしょ?
私が呆れているとアレイストは再び私に視線を戻した。
「………なあ、それよりも慰めてくれないか?」
「はあ??」
突然、何を言い出すのかと訝しげに見つめると、アレイストはもう何度目になるかの深いため息を吐いた。
「今日はリルディアの事とかで色々ショックを受け過ぎた。立ち直れそうもないからーー慰めてくれ」
「嫌よ、どうして私が。当の本人である娘のリルディアに慰めてもらえばいいじゃない?」
「出来るわけないだろ? リルディアの顔を見たら、キスの相手が誰なのか思い出されて我慢できずに問い詰めてしまうかもしれん」
それを聞いて私は呆れ声で肩を竦める。
「だったら“新しい愛妾”の所にでも行って慰めてもらいなさいよ。あんたを嫌っている私なんかよりも、ずっと優しくしてくれるわよ?」
すると私の言葉の直後、アレイストは急に無言になり、私から視線を外してしまう。
ーーそれで私はようやく気付いた。“原因”はそれかっ!!
「ちょっと! そこなの!? あんたが私に怒っていたのはそれが“原因”なの? あんたの怒りの“原因”が何なのかずっと考えていたけれど、そんなずっと前の方の会話だったなんて思いもつかなかったわよ。しかもそんな素振りすら見せなかった…………いやーーそれでいきなりあの時、キスなんかしたの?」
するとアレイストはまるで子供のように不貞腐れた表情をする。そんな様子も自分の娘を見ているようで本当に娘がこの男に似ている事実を認識させられて嫌になる。
「…………新しい愛妾など迎えてはいない。ーー言ったはずだ。私はもうお前以外の女は抱けないーーと。私が愛している女はお前一人だと何度も言っているのに、お前は私の気持ちを知っていて尚、他の女と「子を作れ」などと平然と言ってのける。
ーー言ったところで信じないかもしれないが、私はお前が私のものになってからは今日まで一度たりとも浮気はしてはいないぞ? 本当に私が欲しい女はただ一人。ーーエルヴィラ、お前だけだ。それなのにお前は更に私のリルディアへの愛情も疑うような発言までーーー
お前に嫌われているのは無論、承知の上ではあるが、さすがに愛する女からそれを言われると、いくら私でも傷付くぞ。ーーお前は鈍いというか何というかーー“原因”が思いつかないだと? ………まあ、考えるだけまだマシではあるが………どうやら私の方がお前よりもずっと“繊細”に出来ているようだな」
ムスッとしてそっぽを向くアレイストを見て私は改めて納得した。どうやら私が他の女を薦めた事や、リルディアへの特別視の理由を問うた事が、彼の『本気』の怒りを買ったらしい。
まあ、確かにそう言われれば、少し無神経だったかも?しれないが、この男の普段の素行の悪い事に加えて王家の人間が王妃の他に妾を複数持つのはごく普通の事で、世継ぎがいなければ、尚更王家の血脈を守る為にも子を産む女は必要だろう。
それは王家に生まれた者の義務であり責務でもあるのはこの男も当然分かっている事で、だから私も特に思う事もなく耳に入っていた新しい愛妾の話を何げに口に出しただけだったのだがーーー
「ーー確かに普通でいけば無神経な発言だったかもしれないけれど、国王であるあんたにはそれは当てはまらないでしょ? この国の国王となる者は代々男のみの世襲制なのだから、男の子供がいないあんたには周囲からも言われているように他に愛妾を迎えるべきなのよ。
あんたも王家の人間なのだからそれくらい分かっているはずよね? 個人の感情だけではどうにもならない事くらい。だから世継ぎを作るのはあんたの国王としての責務でもあるから私は間違った事は言ってはいないわ。
…………アレイスト。私はもう、子供を産めない女よ? しかも私の最初で最後に産んだ子は女だし。だから私が愛妾である意味がないのよ。それでも強行して私に子供を産ませようとしても私の体はもう出産には耐えられない。今度懐妊すれば私もその子も死んでしまうだろうからどちらにしても子供は望めない。私もリルディア一人を残してまだ死にたくはないし。だから敢えて私を“諦めろ”と言ったのよ? それとも、あんたは私を殺したい?」
私がそう言うとアレイストは真剣な表情で私の顔を真っ直ぐに見つめてくる。
「エルヴィラ、それもお前の“思い違い”だ。私はお前を『子を産ませる為だけの女』などとは、元より考えてはいない。お前は私の『運命の女』だ。お前が子を産めなくとも私がお前を諦めるわけがない。
ーー誓ってもいい。この先、私の血を引く最後の子供はお前が産んだリルディアだけだ。自分でも驚いてはいるが、こう見えても私は“一途”だぞ? 私にはもうお前しか『女』には見えない。
なに、世継ぎ問題などどうとでもなる。幸い私には弟がいる。今は臣籍に下ってはいるが次期国王には我が弟のクラウスに継いでもらえば良い。あれが国王ならば誰も文句は言わん。もしくは上の娘達に男の子供が出来れば、その子供を世継ぎに据えても良いしな」
「……………無責任」
私はポツリと呟いてアレイストから視線を外す。
ーーこの男は本当に腹が立つ。普段は私を退屈凌ぎのゲームのように玩具扱いしているくせに、そのくせ自分の心情は羞恥心も全くの皆無で、真っ向から吐露してくる。
愛の告白などは昔から色々な男達から散々言われてきたという事もあり今更、動揺するものでもないが、この男の場合は他の男達とは違って、恥ずかしい言葉を臆面もなく次々に口にするのでいくら躱そうにも全く通じない相手だけに対処に困り少なからず動揺させられてしまう。そんな私の性格から言ってもこの男は非常に相性の悪い相手だ。
私にはこの男の思考が読めない上、その行動が理解出来ないーー非常識で、強引で、乱暴で、傍若無人な人を玩具としか見ない最低な『馬鹿男』この男と一緒にいると、決まっていつも苛々させられる。
ーー大嫌いよ、こんな奴!
この男からされた仕打ちを走馬灯のように思い出されて眉間に皺を寄せて苦い顔をしていると、アレイストは私へと手を伸ばして私の長い髪を一房掬いその先にキスを落とす。
「………っ!!」
その行動に思わず不覚にも心臓が跳ね上がる。するとアレイストは更に私の髪にキスを落としたまま、上目遣いで誘惑するように、
「フッ………私もそういう性格なんだ」
と微笑みながらも穏やかな色香の滲んだ低い甘い声音でゆっくりと囁く。
その瞬間、私の全身が一斉に総毛立つような身震いが走り、自分でも信じられない事に私の心臓は煩いくらいに動悸をし始め、私はこんな男など大嫌いなはずなのに、この男の女を落とす百戦錬磨の策略的な技巧に私の意思とは裏腹に女であるが故の体の方が生理的に踊らされ始めている。それが非常に不快で腹が立つ。
ーーある意味、唇のキスより性質が悪いわ! このクソジジイ!!
私はアレイストの手から自分の髪を素早く抜き取り、今度は手を伸ばしても届かない位置に後退すると、アレイストはそんな私の態度に、わざとらしく深いため息をついて再びクッションに顔を埋める。
「…………はあ、お前は本当に情の薄い手厳しい女だな。ーーまあ、そんなところも気に入ってはいるのだが…………
私は可哀想な男だろう? 自分の唯一愛する女からは嫌われていて、しかもこともあろうにその愛しい女からは他の女との子作りまで薦められ、更に追い打ちとばかりに最愛の大切な愛娘の最初のキスをどこかの不逞の輩にすでに奪われていたという事実をいきなり突きつけられたのだぞ? この荒ぶる怒りの苛立ちを何処にぶつけたらいいのか分からん!!
…………くっ、やはり、ここはリルディアの唇を奪った憎っくき輩を見つけ出して、八つ裂きにっーーー」
…………ああ、本当に面倒くさい男ね。
苛立ちも露に持っていたクッションを羽交い締めにして今にも布地を引き千切りそうなくらい引っ張って暴れている『馬鹿男』を見て、私は心底呆れるようにアレイストとは違う意味での深いため息を吐くと、距離を置いていたアレイストのすぐ隣に移動して、そのままクッションごとアレイストの体をソファーに押し倒す。
「!!?」
私の思いもよらぬ突然の行為に驚いたのだろう。アレイストは非常に驚いた様子で私を見ている。そのなんとも間の抜けた表情が滑稽で可笑しい。私がクスクスと笑っていると、アレイストが怪訝そうにようやく口を開く。
「エルヴィラ?? 一体、何をーーうっ、ぐっ」
私は有無を言わさず彼の顔にクッションを力任せに押し付けるも、この男は憎らしい事に全く抵抗しない。
「……………」
私は窒息死させる勢いでクッションを数秒押し付けたがアレイストは声も出さず、されるがままの全くの無抵抗だ。私がクッションをどけると、アレイストが咳き込みながら苦しげに大きく息を吸う。
「ーーげほっつ、………っ、可哀想の追加だな………愛する女に殺されそうになるとは、ますます傷心の傷口が深く広がったぞ?」
「ふふっ、ざまあみろだわ。今日のあんたは隙だらけね? 私を散々怖がらせてくれた“お返し”よ」
私はしてやったりという満面の笑顔で笑いながらアレイストの頬に右手でそっと触れる。
「………ねえ? 慰めてあげてもいいわよ? あんたが私の『条件』を飲むならね?」
「『条件』だと?? ーーお前を“諦めろ”というのは到底、無理な話だぞ?」
私は先ほどこの男からされた行為をそのまま返すように、彼の頬の輪郭をゆっくりとなぞる。しかし、アレイストの体は私の時とは違い、硬直しているわけではないのに私のされるがままにその唇以外は指一本動かさない。
「そんなこと分かってるわよ。あんたのその執着心の強さは『不治の病』だもの。条件の内容はーー先月の流れた2回分をチャラにしてくれたら、今月の2回分は今回の私の言葉で傷付いたというあんたの『傷心』に配慮して特別に優しくしてあげてもいいわ。本当はあんたなんて“大っ嫌い”だけど“愛しているフリ”をしてあげる。どう? 悪い『条件』ではないでしょ?」
するとアレイストの表情に困惑とも言える苦笑いが浮かぶ。
「“愛しているフリ”…………か。お前は本当に性格の悪い女だな。私の気持ちを知っていながら男心を弄ぶ罪作りな言葉を平然と言ってのける。まさにお前は男の天敵でもある『魔性の女』だよ」
「魔性の女って、ーーまあ、いいわ。私の言葉であんたが落ち込む姿を見るのは見ていて気分が晴れるから。外見を傷付ける事は出来なくとも、心なら武器を使わずとも容易く傷付けられる。
それこそ同じ顔でも私の方はリルディアとは違って甘くはないのよ。だからあんたがいくら傷付こうが私には全くもってどうでもいい事だわ。
ーーそれでも私はあんたの事なんてこれっぽっちも“愛してはいない”けれど、“愛しているフリ”くらいなら出来る女なの。それであんたの心が傷付いていくのを見るのはすごく楽しいわ。ーーで、どうする?」
するとそこで初めてアレイストの左腕が動いて私の頬にその大きな左手が触れる。
「…………ふっ、本当に面白い女だよ、お前は。それにお前に優しくされる事など天と地がひっくり返るほどに無いとは思っていたのだがな………
ーーお前の『条件』を飲むよ。…………だから私を“愛してくれ”ーーー」
私に懇願するように淡い青い瞳が揺らめきながら見つめるその視線に、私は自らの顔をゆっくりと近付けてその耳元に囁く。
「…………勘違いしないで? “愛しているフリ”よ? ーー『契約成立』ね。ーー“愛しているわ” アレイスト………」
そうして私はーー今度は自分からアレイストの体を押し倒したまま強引にその唇を奪うように口付けた。皮肉にもこの男から教えられたキスの技巧で、私は自分の主導権を主張しながら噛み付かんばかりに口付けていると、そんな私に応えるようにアレイストからも深い口付けが返ってくる。
そして互いに主導権を争う最中、私の頭の中では、ぼんやりと違う思考が過っていた。
…………それにしても、リルディアの“ファーストキス”の『相手』って、一体、誰なのかしら??ーーー
【⑤ー終】