奉納祭【10】 ~貴賓席その1
【26】
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「ーーあの子ったら、なんて歌い方をしているのよ。いくら『色』を出すにしたって、メチャクチャじゃない」
貴賓席の国王席側の後方で、国王の愛妾であり今まさに舞台で歌う第四王女の母親であるエルヴィラが額を押さえた。その隣に国王が移動して来ると、ピッタリと寄り添うようにその身体を密着してくる。
「『色』とはなんの話だ?」
「ちょっと! 近いったら。王妃や王女達もいるんだから、少しは気を遣いなさいよ」
エルヴィラは柳眉をひきつらせ、口許に扇をあてて小声で話しながら国王から離れてようとするも、すぐさま腰に腕を回されて捕まってしまえば身動きが取れない。
「今日はいつにも増して色香があって美しいな、我が愛しき妻よ。やはりお前には鮮やかな深紅のドレスがよく似合う」
そんなエルヴィラの耳元に口説き落とすかのごとく甘く囁きながら頭にキスを落とす国王に、エルヴィラはヒールの高い靴で思いっきり国王の足を踏みつけた。
「うっつ!」
狙ったようにわざと足のつま先の小指に当たる位置で踏んづけてやったので、さすがの本人も痛かったらしく一瞬表情を崩して唸ったものの、腰に回されている腕は一向に離す気配がない。
ちっっ、 エルヴィラは口許を扇で隠しながら、国王の筋肉質の太い腕を忌々しく見つめ小さな舌打ちをする。舌打ちなどと、淑女作法においてあり得ない下品極まりない行為ではあるが、平民出の酒場育ちであるエルヴィラにとっては日常茶飯事だったので特に気にする様子もない。
「調子に乗らないで。誰があんたの『妻』なのよ。私は認めてないわ。それに私はもっと大人しめのシンプルなドレスが好みなのに、あんたが用意したこのド派手な色のドレスはなに? しかもドレスの脇裾にスリットまで入っていて、歩く度に足が丸出しで下着が見えやしないかと、いちいち焦るこっちの身にもなってくれる?」
やはりながら淑女とはほど遠く、異性の前でも平然と足が丸出しだの下着が見えるだのと口にする不満げなエルヴィラだったが、本人の好みは差し置いても、国王が用意したドレスはエルヴィラの美貌をひきたてるにはうってつけのドレスで、
ワンショルダーの肩に大輪の赤い薔薇の花飾りをあしらい、身体の線に沿った流れる美しいラインのシルエットは己の体型によほど自信がある者にしか着用を許されないものだった。
そして動きやすさは表向き、色香を強調するが為が本来の目的として作られた足回りにはスリットを大胆に大きく入れて、普段は隠されている足を絶妙にちらつかせて異性を誘惑するような扇情的なドレスは主に娼館の女達が定番としている洋装であり、勿論、貴族子女がそのようなドレスを公の場で着用する事など絶対にない。まして露出度が高いドレスなどもっての他だ。
それを分かっていながら、国王は敢えて自分の愛妾にそれを着用させた。何故ならそれは彼女の美貌を最高潮に引き立てさせる為だ。
傾国の美女と名高いエルヴィラは何を着ていても映えるが、更に彼女の美しさを引き立てるには、貴族子女が着るようなドレスでは役不足であり、彼女本来の気性と美貌や体型合わせれば、誰にでも真似が出来ないような大胆で挑戦的なものが特に似合う。
なのでこのような露出の高い鮮やかな深紅の色香を強調するドレスは、娼館の女達では卑猥に見えてもエルヴィラが着用すると、その妖艶な美しさには誰もが魅せられてしまうであろう。
しかし当の本人は自覚がありながらもどこか冷めており、そんな人々の羨望の視線すらも客観的に捉え、元より打算的な所があるせいか自分にとって不利益にならなければ、今回のように文句は言いつつも妥協するその狡猾さに、国王の心はいまだ尚、奪われ続けている。
そんな深紅のドレスに身を包み艶やかに流水のごとく流れる美しく長い黒髪を、むき出しの肩側の方に掛かるように結い上げ、金のチョーカーの首飾りをつけたその姿は、
見た目には派手なドレスではあるものの、貴族達のように贅を極めた煌びやかな宝飾をふんだんに使って着飾るでもなく、国王の愛妾としては地味すぎるくらいの装いであるが、
エルヴィラ本人が平民育ちだったこともあり、自分を不必要に宝飾などで着飾ることを嫌っており、とにかく動きやすい格好を好んだので、今回の国王が用意したドレスも不満はありながらも、羞恥心を特に意識もせず着用するあたりは彼女らしい。
「フッ、気に入らないか? お前は何を着ていても美しいが、そのドレスは格別だ。特にお前のような女にはよく似合う。他の女ではただの滑稽な道化にしかならんがな」
するとエルヴィラが顔をしかめて悪態をつく。
「はっ、私のような女って、つまり男を誘惑する噂に名高い希代の悪女ってわけね。言っとくけれど、私がそう言われるのはあんたのせいでもあるんだから。
こんなドレスを私に着せたりなんかして、見なさいよ。周りから見れば私が国王を垂らし込んだ娼婦だとでも思っているんじゃない? 実際、私の意思ではないにせよ、あんたの『愛人』である事には変わりないんだし」
「まあ、そう言うな。愛人は何てことはない、ただの愛玩物にしかすぎんが、愛妾は実質において『妻』なのだぞ? それに垂らし込んだというのも、あながち嘘でもないしな。お前は今も昔も私の心を掴んで離さないのだから」
「はん、どこまでもおめでたい頭ね。いつ私が好きでもないジジイのあんたを垂らし込んだのよ。あんたが一方的に執着してるだけでしょう? それを私のせいにされるのは心外だわ」
不機嫌に形の良い赤い唇をひき結ぶエルヴィラを見つめていた国王は、その悪態をついている誘われているような唇の赤に、今すぐキスしてその場に組み敷きたい衝動に駆られていた。
実を言えば、その衝動はエルヴィラのこの美しいドレス姿を見た時からずっと切なく沸き起こっていた。それも己が選んだドレスとはいえ、いつもとはまた違う色香を放つ愛妻に欲情の念を抱いてしまうのは男の性なのだから仕方がない。
だから本能的に誘惑する。彼女の耳元にそっと唇を近付け甘く囁くように。そして腰に回していた腕を下方にずらして、ドレスの開いたスリットから手を差し入れ、太もも部分におもむろに手を這わすと、彼女の身体がビクッと震える。
「ちょ、ちょっと!!」
慌て始めるエルヴィラだったが、国王は全くのお構い無しで、更に自分の体を密着させて彼女の身動きを拘束してしまう。
「………ああ、そうだな。私はお前に執着している。お前という若く美しい女に年甲斐もなく溺れているのだ。このドレスを着せたのは、お前が私の『女』である事をここにいる多くの人間達に見せしめる為。
………お前は美しすぎる。どんな女であろうとお前の前では霞んでしまう。見ろ、ここにいる男達は皆、お前に釘付けだ。お前の魅力に酔いしれ欲情の眼差しで見つめているだろう? けれど、お前は私のものだ。他の男共がどんなに恋焦がれようと、己の女にしたくとも、私がいる限り指を咥えて見ている事しか出来ない。
だからこそ見せつけてやろうと思ってな。お前に触れることが出来る唯一の男はこの私だけだと。お前が娼婦というのならば、それは私だけの『専属』だ。他の男共にはその身体はおろか髪の毛一本触れさせん」
これ以上になく甘く囁く国王の熱い吐息が耳元にかかり、エルヴィラは拘束されている身体の隙間から目一杯に退くと、扇で自分の顔の前に防御壁を作る。そして本当は大声を出したいところを、場所が場所だけにグッと理性で我慢する。
「ば、ばか! ここがどこだか分かってる? 正気?」
特にエルヴィラは前方にいる王妃を気にしながら国王を睨みつける。そして周囲には王妃の子供達や大勢の人間達がーーそれなのに万年発情期が! この『馬鹿男』は。
しかし国王はそんな扇の防御壁にさえ自分の顔を近付け尚も囁く。
「さて、どうだろうな? お前のそのドレス姿を見ていたら体がやけにゾクゾクして、今すぐにでも押し倒して貪りたくなるから正気ではないかもしれん」
「ば、ばっかじゃないの? しかもこんなドレスを着せたあんたが言うな!」
「そうだな。美しいお前を男達に自慢するつもりだったが、逆効果だったようだ。だから一応理性で押さえてはいるが、少しくらいなら触れてもいいだろう?」
そう言ってドレス越しに太ももを撫で擦ってくる国王に、エルヴィラは再びその足をヒールで思いっきり踏みつける。
「うっつ!」
どうやら二回目の方がかなり痛かったようで、さすがに国王の手が直ぐに引っ込んでいった。エルヴィラは冷ややかな横目で「ふん」と鼻を鳴らす。
「どう? 痛みで正気に戻ったでしょ? 全く、時と場所を考えてよね。しかもこんなところで、信じられない」
怒るエルヴィラに対し国王はしれっと顔だ。
「仕方ないだろう? 美しい女の色香に性衝動が起こるのは男の本能だ。それに今月はまだお前としていないから尚の事、欲求不満が溜まっている」
………この男は何をしれっと言っているのか。本当に頭がおかしいんじゃないの? 今さっき、時と場所を考えろって言ったのに………
エルヴィラはこの非常識な国王に、何度となく殴ってやりたい衝動に駆られていたが、拳を握りしめて我慢を繰り返している。
時と場所を考えなければーーそれがなんともじれったい。なんとなくだが、この男もそうなのかと思うと、それはそれで皮肉である。
「とにかく、今はやめて。私もへたに敵を増やしたくはないし、これ以上、悪評判が立つのはリルディアの為にも避けたいわ。そもそも、リルディアの話だったじゃないの。それがどうしてこうも話が横にズレるのよ」
言われて国王も一瞬目を大きくし、「ふむ」と顎に手を当てて考えていたが、すぐに怪しげな笑みを浮かべる。
「やはり私が欲求不満なのが原因だな。だから私の精神の正気を保つ為にもーーエルヴィラ、今夜、私の部屋に来い」
「はあぁ?」
思わず大きな声が出てしまい、エルヴィラは慌てて口許を扇で押さえる。
「“月のモノ”はそろそろ終わったはずだろう? だったら問題はないはずだ」
「そ、それはそうだけど、でも今は『奉納祭』が始まったばかりじゃない」
声を落としてコソコソと小声で話す二人の姿が周りにはどう映っているのかは分からないだろうが、聞こえていい話でもない。
「だからなんだ? そんなもの『夜の行為』には関係ないだろう?」
しかしエルヴィラも食い下がる。避ける事が出来るに越した事はない。
「いや、だって国の祭典なのよ? その間は色々忙しいじゃないの。疲れこそすれ、それどころじゃないわよ。だから日を改めない?」
「私の体力が人並み外れているのを忘れたのか? その程度で公務を怠るわけがなかろうが。寧ろ精力がつきすぎて公務もはかどるというものだ」
どうにもこの男の言葉が卑猥に聞こえて仕方ない。
「確かにあんたはそうでしょうけれど、私は女で、か弱い体力しか持ち合わせていないの。それなのにもし動けなくなってしまったら、リルディアになんて説明するのよ。いくら私でも娘に親の諸事情を説明するのは絶対に嫌よ!」
「分かっている。だから無理はさせない。そこは安心しろ。ーーただな、私がもう限界なのだ。このままでは本当に人前であろうがなかろうが『行為』に及ぶかもしれんぞ? 私の理性はそこまで大人ではないからな」
それを聞いてエルヴィラは深いため息を吐くと片手で額を押さえる。
ーーこの男の言う通りだ。この男は本能のままに生きる野性の獣と大差ない。だから人間の理性の箍が外れてしまったら何を仕出かす分かったもんじゃない。
どのみち、これは『契約』だ。今、月2回の行為を避けたところで、来月にはその分を加算されてしまうのだから結局、避ける意味がない。
「………分かったわ。だから今は理性のある人間でいて頂戴。こんな風に人前で私に触らないで」
すると国王はフッと笑うと、今までエルヴィラの腰に回していた腕を離した。それを見てエルヴィラは内心ホッと安堵する。
それでなくても前方にいる王妃がいつ後ろを振り返るかとずっと気になっていたので、複雑な緊張感すらあったが、王妃は国王が愛妾の方に移動したのは当然知っていて、一度も後ろを振り返る事もなく、真っ直ぐに正面だけを見つめていた。
【26ー終】