奉納祭【2】~儀式前、朝/眠気覚まし
【18】
ーー奉納祭、当日の朝。 朝食の席で血色の良いすっきりとした表情のアニエス一人を除いて、私達、聖乙女5人は揃って目の下に同じ隈を作り眠そうな目を擦りながら何度も大欠伸を繰り返していると、そんな私達を見て、アニエスが呆れたように笑う。
「クスッ、いやですわ。揃いも揃って酷いお顔でしてよ? どこぞの亡霊が現れたのかと驚いてしまうではありませんの。昨日は早くお休みになるはずではありませんでしたの? 本日は大事な儀式があるというのに自己管理が疎かですわね。
私なんて先ほどゆっくりと湯に浸かって全身の手入れも済ませて余裕万全の状態ですのに、これではあなた達が儀式の際に私の足を引っ張ってしまうのではないかと心配になってしまいますわ」
………昨晩、散々騒いでいたその口で言うかな、それをーーー
私が目を細めてアニエスを見ていると、ローズロッテがそんなアニエスにニッコリと微笑みながら口を開く。
「まあ! それにはご心配には及びませんわ? 私達、聖乙女“5人”は昨晩それはもう固く結束して儀式の練習を何度も繰り返し致しましたもの。今では私達“5人”は“一心同体”儀式では心配ご無用の出来でしてよ?
ーー逆に昨晩、私達とお部屋を別にされていたアニエス様の方がご心配なのですけれど、ですがアニエス様であればそれこそご心配には及びませんわね? 何といわれましてもアニエス様は『完璧』な第三王女様ですもの! 私達とは違って、お一人ででも、さぞ『完璧』な舞踊をなされるのでしょうね。
そんな『完璧』なアニエス様のおみ足を引っ張らぬ様、私達“5人”は“一心同体”で心を一つに手を取り合って頑張りますわ! ーーフフッ」
ローズロッテは『5人』と『完璧』という言葉を殊更、はっきりと強調して口に出し、私達5人の結束の強さをわざとらしくアピールして、明らかにアニエスと線引きしているのが分かる。
そんな不敵にニコニコと笑うローズロッテと眉間に深い皺を寄せて口許を引きつらせているアニエスの間には、今にも一触即発しそうな、何とも言えない冷めざめとした不穏な空気が流れたが意外にもアニエスは「ふん、」と鼻を鳴らした。
「まあ、似た者同士が集まってよろしかった事ですわね? 揃いも揃ってそんな寝不足な酷い状態で、しかもその子を即席の聖乙女に加えて本当に儀式が大丈夫であるのか疑わしいところではありますけれど。精々、王女である私に恥をかかせぬ様、心して頑張りなさいな」
アニエスはそう言うと、今度は私に向かって侮蔑を含む視線で見据えてくる。
「ーーあなたもあまり調子に乗らない事ですわ? 特別に聖乙女に選ばれて独唱ですとか世間の注目を浴びる事になってさぞ気分が良いのでしょうけれど、いくら父親が同じであっても所詮は妾の産んだ血統の悪い中途半端な王女である事には変わらないのだから、王家の純血である私とあなたとでは格が違うのですわ。
それこそあなたはそこにいる市井の娘達と馴れ合っているのがずっとお似合いでしてよ? 互いに同じ血が流れている者同士ですものね。仲良くなって当然ですわ。
これで儀式に失態などを見せて父上やユーリウス王子に幻滅されなければよろしいこと。とにかく本日はくれぐれも私の足を引っ張らないで下さるかしら? あなたと同等だとは思われたくはないのですもの」
アニエスは一方的に、またいつもの嫌味文句で血統の良し悪し云々を私に言い捨てると、そのまま席を立ち、さっさと部屋に戻ってしまった。そして昨晩と同様、その場に残っている私達はそんな彼女の後ろ姿を再び見送る。
「………本当に嵐のような騒がしい御方ですわね。毎回何か嫌味の一つでも仰らなければお気が済まないのかしら? リルディア様、あんな失礼な言い掛かりなど、お気になさらない方がよろしいですわよ?」
そんな私を気遣うローズロッテに片手をヒラヒラと振る。
「ああ、大丈夫よ、もう慣れているもの。ほんっと、うざったいほどプライドが高くて聞いている方が疲れるわ。あんなのと一緒だなんて金輪際、こっちの方から願い下げよ。
私が聖乙女に選ばれて注目を浴びて気分がよろしいでしょう? ですって? はあ? 何言ってんの? 私、もう絶対に『聖乙女』なんてやらないわ!『独唱』だって好き好んで歌うわけじゃない。今回が最初で最後よ! 私にしてみれば面倒くさい事この上無いわ」
昨晩から市井の彼女達と接している内に、言葉使いもすっかり市井言葉になっていて王女としての気品も何処へやらである。けれど元よりこちらの言葉の方が使いやすいという事もあり相手にもよるが、今ここにいるのはローズロッテを含めて気を遣う必要がない者達ばかりだから平気だ。
「ええっ!! リルディア様、そんな事言わないで下さい!! 私はリルディア様の聖乙女姿も独唱も絶対に見たいですっ!」
「そうですよ!! 姉上様の言う事など気にする事はありませんよ。そして出来る事ならまたご一緒に踊りたいです」
「本当にリルディア様が『祝福の聖乙女』であるのは大変素晴らしい事です。何と言ってもこの国の『至宝』とも呼ばれている我が国が誇る自慢の王女様なのですから。
それに今年の奉納祭ではリルディア王女様がお歌いになられると言うので、それはもう沢山の人々がリルディア様のお姿や歌声を楽しみに各諸国からも来ているんですよ? ご存知ですか?」
「そうです!! それに今回の奉納試合ではリルディア様の母上様、あの『夜光の歌姫』も歌われるとの事で、今回の奉納祭は例年にない程のすごい大盛況ぶりなんです!! どうせならいっその事、リルディア様が毎年『祝福の聖乙女』をなさればいいのに。その方が皆もすごく喜ばれると思いますよ?」
市井の3人の聖乙女達は口々に私に『聖乙女』の続行を勧めてくる。そんな彼女達の協力のおかげで、昨晩は寝不足を回避出来る時間までに何とか踊りを覚える事が出来た。
それなのにどうして私達が今こうして寝不足状態なのかというと、その後で女同士が集まると始まる“アレ”つまり“恋愛話”が始まってしまったからである。
そしてこの市井の3人も恋バナが大好きらしく、話題の豊富なローズロッテと共に異性の話に盛り上がる事留まらず、気付いた頃には既に空に日が昇り始めていたという次第だ。
そんなこんなで私達は意気投合し、今ではすっかり仲良し関係というわけである。
「貴女達、簡単に言ってくれるわね? しかもそれって“職権濫用”じゃない。今回だって15歳からのところを12歳の私が『聖乙女』をやるのは、はっきり言って規定違反なのよ?
取り敢えず私が『王女』だから周囲からの文句は出てはいないようだけれど、事情を知らない人間には、また私が我儘を通して『祝福の聖乙女』を男爵令嬢から奪ったと思われているに違いないわよ。
自分が望んだ“職権乱用”ならいざ知らず、望んでもいない事で勝手にそう思われるのは癪に障るわ」
そんな私が心底不満げな顔をしていると、それを見てローズロッテがクスクスと笑っている。
「ふふっ、リルディア様はそのご存在自体が注目を集めておしまいになる御方ですから、それはもう有名税のようなものですわ。それに多分『祝福の聖乙女』はこれを皮切りに、毎年リルディア様にお話が振られると思いますわよ?」
「ローズ、貴女まで何を言い出すのよ? 今回は『特例』だから仕方ないにしても、来年も私はまだ13歳よ? 15歳になるまではまだずっと先の話じゃない」
するとローズロッテは首とひと指し指を左右に振る。
「リルディア様? これは“大人の事情”というものでしてよ? 此度の盛況ぶりを見ても、リルディア様効果は我が国にとっても経済効果絶大ですもの。そんな美味しいお話を『枢機院』や『大神殿』側が黙っているわけがありませんわ。それこそ『祝福の聖乙女』の規定など、いくらでも変えられますとも。
ですからきっとこの先、王家の必須公務として、奉納祭の『祝福の聖乙女』というよりは別枠の形で今回のように組み込まれるのではないかしら? 勿論、私もそれには大賛成ですわ。毎年、リルディア様の素晴らしいお姿を拝見出来る上に、我が侯爵家も家業安泰で、順風満帆ありがたいというもの。
それにリルディア様は16歳におなりになれば、セルリア王家に嫁がれてしまうのですもの。尚の事、賛成派に回らせて頂きますわ。皆様もそう思われますわよね?」
ローズロッテに話を振られた市井の少女達はその言葉を肯定するように何度も頷く。
「ええ、勿論です! リルディア様には是非とも毎年『聖乙女』をやって頂きたいです!」
「正直、我が家も今回の奉納祭では今までに無いくらいに商売繁盛で父母がすごく喜んでいました。リルディア様にはとても感謝しています!」
「リルディア様、安心して下さい。リルディア様が我儘で聖乙女を奪ったなどと、そんなでまかせは私達が誰にも言わせませんから。逆に神殿側にリルディア様を毎年『祝福の聖乙女』にしてもらえるように嘆願書を募って提出するわ!」
「ち、ちょっと、そんなの困るわ! 私はもう『聖乙女』なんてやりたくないって言ったでしょう? 私は観客側でいたいのよ」
そんな市井の彼女達に反論する私の肩をローズロッテがトンと叩く。
「リルディア様? ここはもうお諦めになられた方がよろしいですわよ? ここにいる者達は皆、私を含めて賛成派しかおりませんし、きっと外部の貴族側も市井側も同じ考えですわ。ーーふふっ、それもリルディア様が我が国の『至宝』と呼ばれる所以ですものね。そのように美し過ぎるご容姿と歌声を兼ね備えてお生まれになった王女様なのですから仕方がないのですわ。
いずれにしてもそれはブランノアの民達の為にもなるのですから、一国の王女様のご公務として頑張って下さいませ」
ひとの気を知っていて敢えて知りませんと言うような、とぼけた笑顔を私に向ける『悪友』の肩を今度は私がガシッと掴む。
「………ローズ、貴女は私の『味方』だと言ったわよね? それに王女の“公務”だと言うのなら、ブランノアの王女は私だけではないわよ? そうよ! それこそアニエス姉様にでもやってもらえば良いのよ。あの人はそういう派手で目立つ事が大好きですもの。きっと、お話があれば喜んでお引き受けになると思うわ!」
するとローズロッテはゆっくりと首を横に振る。
「リルディア様、それは“責任転嫁”でしてよ? 皆はリルディア様だからこそ望んでいるのですわ。どなたでも良いわけではありませんのよ?
それにご婚約者のユーリウス王太子様に、リルディア様の美しい聖乙女のお姿をご覧頂く絶好の機会ではありませんの。それこそ歳を重ねる度にお美しくなられるリルディア様のお姿をご覧になれば、ユーリウス王太子様にしてもますますリルディア様に惚れ直しておしまいになりますわ!」
「ーーっ、だからそれは違うってば! そもそも貴族間の政略結婚に“恋愛感情”なんて必要ないじゃない。
だからユーリウス王子と私はそんな関係じゃないって何度も言っているでしょう? それに民達の為だなんて、そんなもの私の知った事じゃないわ! “責任転嫁”? それこそ私に何かを期待して勝手に望むのは個人の勝手だけれど、私がそれに応えてやる義理はないわよ!
私は『神様』じゃないのよ? まして世継ぎの王女でもないのに民がどうのこうの言われてもそんな事知らないわよ。一国の王女と言ったって、万人の人生を抱えられるほどお偉くもないし、私にそんな器の度量も無いしね。
そんな私に便乗して商売繁盛になるのなら、別に「まあ、よかったんじゃない?」としか思わないけど、私本人に何かをさせようとするのは無駄よ? 私は自分の意思でしか動かない人間だから」
その言葉を聞いた市井の3人の彼女達は呆気に取られた表情で私を見つめ、一方ではローズロッテが口許を隠しながらも小さく声を上げて笑い出す。
「クスクス、やはりそれでこそリルディア様ですわよね。その素直で唯我独尊的なところも格好良いですわ~。しかも潔くもバッサリと他人を切り捨てる事にも躊躇のないその物言いといい、私の方が惚れ直してしまいそうーーー」
「………やめてよ。本気で怖いから」
そんな私とローズロッテを見ていた市井の彼女達は戸惑いながらも口を開く。
「え、ええっと、リルディア様はその、何と言うか、はっきりとしたご性格なんですね? ーーああ、いえ、勿論、王女様らしいのですが、それでもアニエス様とはまた違った感じの………」
「ほ、本当に、あの美しいユーリウス王子様の事も意外にもあっさりというかバッサリというか…………なんか本当にすごいです。王女様」
「え、ええ、そのように我が道を突き進まれるリルディア様は、えっと、その、格好良いです。あ、お世辞抜きでですよ? そこまではっきり言われてしまうと、かえって納得するというか、しかも本音にしても嫌な感じも受けないですし、逆にこちらの言動の方を考えさせられると言いますかーーー」
何とも言いにくそうにしなからも言葉を選んで話す彼女達に私は小さく肩を竦める。
「ああ、別に貴女達が私の事をどう思うかなんて全く気にしてなどいないから大丈夫よ? 他人からの評価が悪い事なんて分かりきっている事だし今更、取り繕うものでも無いしね。私はこういう性格なのよ。だから私に何かを期待するのは失望するだけだからやめた方が良いわね。私は自分の事しか考えられないの」
私がそう言うと、市井の彼女達はそれぞれ顔を見合わせ、今度はローズロッテの方に話しかける。
「ローズロッテ様? リルディア様はいつもこういう感じなのですか?」
「ええ、そうですのよ。とても素直でお可愛らしい御方でしょう? それにご自分にも正直でいらっしゃって、何より王家の“純粋培養”でお育ちですから、失礼ながら個人的には少々心配ではありますけれど」
それを聞いた市井の3人は妙に納得するように頷く。
「“純粋培養”…………そうですか。納得致しました。そんなリルディア様にこそ『聖乙女』の名が相応しい御方なのかもしれませんね。 ーーリルディア様? 私達と一緒にいる間は何があっても王女様を全力でお守りするので安心して下さいね?」
ーーえ?
「リルディア様、何か困った事があれば直ぐに言って下さい。特に今日は知らない人に声を掛けられても絶対について行っては駄目ですよ? 危ないですからね」
ーーんん?
「そうですよ。今日は私達から絶対に一人で離れないで下さい。いくら護衛が付いているにしても、私達『聖乙女』への異性の接触禁止令がある以上、私達の傍にいる騎士団の護衛は僅かの女性騎士だけで、他の男性騎士などは殆ど近寄れないのですから」
ーー何だろう?? 彼女達が急に私に対して過保護になった気がーーー
そう思っていた矢先、扉が叩かれる音で開かれ、神女の一人がワゴンを押しながら入って来る。その上に乗せてあった“モノ”を視界に確認した途端、思わず私の思考が停止した。
そんな中、ローズロッテだけがにこやかな表情で口を開く。
「さあ、皆様。本日の眠気覚ましの『良薬』をご用意致しました。これを飲めば、どんな眠気も吹き飛ぶこと請け合いですわ! それも美容と健康にも大変良いですから、まさに一石二鳥ですわね」
「………ロ、ローズ? この異様なくらいどろっどろの黄土色と緑の泥水のようなモノはな、何かしら? ………しかも腐った植物のような匂いもするのだけれど………」
見るからに動揺を露にした私は思わず席を立って後ずさる。そんなワゴンの上には五つのグラスがあり、その中には今まで見たこともないくらいどろどろとした黄土色と緑色の液体が二層に分かれて入っていた。
そしてそこからは甘ったるいような匂いの中に腐った植物の沈んでいる沼地のような匂いも混じっていて、その異様な匂いに吐き気すら覚えてならない。見ると他の市井の彼女達も各自口許を押さえてそのどろどろの液体を眉をしかめながら凝視していた。
「あら? これはリルディア様が昨日仰っていらした『野菜汁』でしてよ? 今朝早くにここの料理番に特別に作ってもらったのですわ。リルディア様、仰っしゃられましたでしょう?「強力な苦い野菜汁を飲めば一気に目も覚める」と」
………確かに昨晩、そのような事を何気に口走ってしまったような心当たりはあるにはあるが、しかしこれは果たして“飲み物”だと言えるのだろうか??
「そ、そうだったかもしれないけれど、でもこれって人間の飲み物なの?? 泥沼から汲んできた腐った植物の泥水にしか見えないんだけれど………」
私は見たままの思った事を口にすると、ローズロッテは大きく肩を竦める。
「まさか! そんなものをご用意するわけがありませんでしょう? これは私がきちんと監修して、ここの料理番に作らせたものですのよ。確かに見た目や匂いなどは悪くはありますけれど、この中に入っている食材はどれも私達が日常食しているものばかりですので、ご安心なさって?
それにあまりに苦すぎるのも飲みづらいと思いまして野菜の他に果物も擦り下ろして入れてありますのよ? 私も先に少しだけ試飲を致しましたが、確かに多少は苦いかもしれませんけれど全く飲めないものではありませんでしたわ。
ですからこれを飲んで本日の儀式の成功を確実のものとし、皆であのアニエス様を見返して差し上げませんこと?」
そんなローズロッテの言葉に背中を押されるようにして、市井の3人の彼女達はテーブルに並べられたその異様な野菜汁の入ったグラスを恐る恐る手に取っていた。
「………確かに見た目は悪くとも栄養だけは抜群にありそうですね。それにローズロッテ様が既に試されていらっしゃるのならきっと大丈夫なのでしょう?」
「そ、そうよね。それに美容にもすごく良いのですって。それなら王女様方のように、お肌も綺麗で髪も艶々になりそうだし、しかもこれなら眠気も一気に覚めそう………」
「そ、それに、“良薬は口に苦し”と言うくらいだから、きっと効き目もすごいのよ。匂いなんて鼻をつまんでしまえばどうにか飲めるんじゃない?」
どうやら市井の彼女達は飲む事を決意したらしく、それでもまだ口をつける事に踏ん切りがつかずにグラスから顔を背けたまま、なにやら天井を仰いで、お祈りらしき言葉を呟いている。
ーーー確かに、神様にお祈りしたいというその気持ちはすごくよく分かる。………正直、私も一緒にお祈りしたい。
それでなくとも私は、野菜は大の苦味なのだ。ーー苦味のあるものは特に。だからどんなに細かく切ったものや汁状にしてあるものが食事に混入されていても苦手なだけにすぐに分かってしまう。
それで以前はそれらが入ったものは絶対に食さなかったものだが、さすがに今では少量ではあるけれど、細かく切って現物が分からなくなったものなら何とか食べられるようにはなった。ーー私も大人になったものだ。
私は自分の目の前に置かれたそんな野菜汁を見て思う。切羽詰まっていたとはいえ野菜嫌いであるくせに、よりにもよって、どうして「苦い野菜汁を飲めば」などと口走ってしまったのだろうか?
そして現実に私に用意された、この異様な空気の漂う野菜汁を前にして、これが自分が用意したものでは無いにしろ元はと言えば自分が言い出したモノなのに、それを飲まないわけにはいかないではないか!
その内、意を決した市井の3人がようやくグラスに少しだけ口を付ける。
「………あれ? 意外に飲めるかも」
「………本当だ。こんな色なのに果物の味がすごく濃くて苦いどころか甘い?」
「それに冷えているからかな? 匂いは確かに酷いけれど、それさえ除けばデザート感覚でいけるかも」
ーーえ? そうなの?
思いもよらぬ意外な高評価が聞こえてきて、私は拍子抜けしたようにグラスを見つめる。そしてそれを手に取ると、勿論、鼻をつまむのを忘れずにグラスに一口だけ口を付ける。
「………んん? 本当だ。意外に大丈夫かも………?」
確かに見た目も匂いも酷いが思いの外、果物の味が強くて、よく冷えている分、口当たりは飲むというよりは食べるデザート感覚の方が強い。
「これなら私でもなんとか飲めるわ。でも不思議………見た目も匂いも本当に酷いのに味の方は果物の味だなんて。それにただ甘いだけで全然苦くなんてないじゃない。こんなので本当に眠気なんて覚めるの?」
そう言いながら味を確認した安心感もあり、グラスの中身をグッと飲み干そうと口の中に流し込んだ瞬間、
「あっ、リルディア様!? 底の方はよくかき混ぜませんと!!」
ーーと、慌てたローズロッテの声が聞こえた途端、私よりも先に同じようにしてグラスの中身を一気に飲み干そうとしていた市井の彼女達が、3人同時に苦しそうに、それを吐き戻している姿が目に入った。そして当然、彼女達と同じ行動を取っていた私の方もーーー
「うっ!? ××××××ーーー(注:自己規制)」
「リ、リルディア様っっ!!」
私は他の3人と同じ状態で、先ほど食した朝食も体の養分になる前に野菜汁と一緒に全て吐き戻してしまった。
そんな私達の異変に気付いた神女達が何事かと部屋に入ってきて慌てふためいている中、私はあまりの強烈な野菜汁の衝撃的な味と匂いの奇襲に遭い、頭が真っ白になると、そのまま見えている視界さえも一面真っ白に飲み込まれていった。
*****
「………本当に申し訳ありません。リルディア様、まだご気分は優れませんか?」
非常に心配そうな表情でソファに横たわっている私の顔を覗き込むローズロッテに私はヒラヒラと片手を振る。
「ーーああ、もう大丈夫よ。口直しもした事だし、体の方も全く問題ないわ。それにしてもアレが『二層』になっていたのはそういう事だったのね? それならそうと、もっと早くに言って欲しかったわ。初めに口を付けたのが甘かっただけに、すっかり騙された気分よ」
「本当に重ねてお侘び申し上げます。でもまさか、あのような飲みづらいものを皆様が一気に飲み干すなどと思い浮かびもしなかったものですから」
「………まあ、そうよね。貴女の感覚では分からなくても無理はないわ。貴族の淑女であればあんな飲み方はまずしないもの」
侯爵令嬢であるローズロッテが思い浮かばないのも無理はない。貴族の淑女教育を受けている貴婦人が人前であのような飲み物を一気に飲み干す行為など、マナー違反であり、非常に下品な行為になるのだ。だから飲み物は勿論のこと、食事に至っても一口一口小さくして口許に持っていくのが貴族社会の常識である。
しかし私の場合は、生まれながらに王女であり当然、淑女教育は受けてはいるものの、国王である父は、私を貴族の慣習などに縛る事もなく、自由奔放にさせてくれているし、母が市井の出身だけに私の感覚は貴族と市井の感覚が入り混じっていて私の性分的にも市井の感覚の方が強い為、こうして身近で市井の彼女達の中で接していると自分が王女である事すらも忘れ、行動してしまった結果がこれである。
でもまさかあの野菜汁にそんな仕掛けがあったとはーーー
しかしローズロッテと料理番は意図して仕掛けたわけではなく、ただ単純に最初にグラスに入れたのが苦い野菜だけを擦りおろした汁で、それだけだと飲みづらいので、その後に甘い果物を擦りおろした汁を入れたのだという。
そして中身をかき混ぜてしまうと色合いが見た目にもよろしくないので敢えて『二層』にしておいて、上層の果物の甘い味で口の中を先に慣らしおいてから下層の野菜汁と混ぜ合わせて飲むというのが本来の正しい飲み方だったらしい。
ーーそれならそうと、本当に「早く言え!!」である。そうとも知らずにあんな匂いも酷い上に甘い果物層から突然、この世のものとも思えぬ滅茶苦茶苦いどろっどろに溶けた野菜が口の奥に流れてきた瞬間、その強烈な酷い匂いも相まって、不覚にも人前で吐き戻すという王女の立場としては大変不適切な行為を取ってしまった。
ーーだがこれは不可抗力であるから致し方ないと思う。それでなくとも野菜自体が大の苦手な私が受けた衝撃は計り知れなく、あまりの気持ち悪さに、一時意識が飛んで気絶してしまったくらいだ。
「だけどこれも物は考えようで良い教訓にはなったわ。これからは口に入れるモノは、きちんと淑女らしく少しずつ口をつける事にする。下手をすれば命に関わりかねないもの。それにしても食材を口にして気を失うなんて普通ではあり得ないでしょ? しかも王女の私があのような醜態を人前で晒すだなんて。ーーああ、一生の不覚だわ」
彼女を故意的に責める意図は無いものの、率直に今の気分を述べると、ローズロッテは珍しく項垂れて落ち込むように力無く肩を落としている。
「何と申し上げたらよいのか、まことにお詫びの言葉も見つかりません。本当にお許し下さい。私が軽率でしたわ。今では言い訳でしかありませんが、あの野菜汁に関しましては時間もあまりありませんでしたので、私が試飲いたしましたのは既に二層の野菜汁を混ぜ合わせたものでした。ですからまさかあの野菜汁が気絶されておしまいになるほどに酷いものだったとは思いもよらなかったのです。
ーーリルディア様。私をお罰しになりますか? 私はリルディア様に危害を加える悪しき気持ちなど微塵にもございません。寧ろ我が忠誠を天命にかけてお誓い致します。この度の事は決して意図的では無いにしろ、我が国の第四王女様をそのような目に合わせてしまったのは私の不徳の致すところ。私はどのような罰を処されたとしても厳粛にお受け致します」
そんな普段の彼女とは全く想像もつかないくらいにまるで別人のような真摯な様子に、あまりにも自分が知っている彼女らしくなくて思わず笑いを堪えきれずに吹き出してしまう。
「あはは、やだ、何言ってるの? 貴女の真面目な姿なんて逆にらしくなくて笑えるわ。しかもそんな想定外な事くらいでいちいち罰するわけが無いでしょ? だからそんな騎士や臣下みたいな堅苦しい真似事なんかしないでよ。
私達は持ちつ持たれつで繋がる『悪友』関係。それ以上でもそれ以下でも無い。そんな『忠誠』なんて誓われても私からは何も得られないわよ? 私は向けられる無償の『信頼』に素直に応えられるほど人間が出来てはいないの。貴女なら分かるでしょう?
しかも今回は私が野菜汁なんて言葉に出したからよかれと思って用意してくれたのよね? 逆に感謝しなきゃだわ。そんな貴女の気遣いが功を奏して野菜汁の効果はてきめんよ。こうして味覚にも衝撃を受けた事で頭も眠気もすっかり覚めたみたいだし、もうこの先何があっても大丈夫な気さえしてくるもの。
まあ、そんな事だからーーローズ。貴女の方こそ今回の事を変に気にし過ぎて、本日の儀式では私を差し置いて失敗なんかしないでよ? いくら私が守備よく出来たところで肝心の貴女達の方が失敗なんかしたら、それこそ本末転倒なんですからね?」
そんな私の言葉を聞いたローズロッテの顔にようやくいつもの笑顔が戻る。
「………リルディア様は仰る言葉と取られる態度が往々にして違われる事が多いので反応に困りますわ。ですが………ありがとうございます。リルディア様。
そうですわね。本日は絶対に失敗出来ませんものね。私も第四王女様の名に恥をかかせぬ様、心して全力で頑張りますわ!」
「うふふーーそれでこそデコルデ侯爵令嬢よ。私達の究極の野菜汁効果を皆に見せ付けてやりましょう? しかもあんな気絶までしたのに飲み損なんて絶対にしないわよ?」
私が決意表明も新たに左手の拳を突き出すと、ローズロッテもそれに応えるように笑顔で同じ様に自分の右手の拳を私のその左手の拳にコツンと小さくぶつけた。
【18ー終】