【7】母は読書家
【13】
私の話を聞いた母は、まるで他人事だと言うように口許を押さえながら声を殺して笑う。
「ププッ、また一つ学ぶ事が出来たのならよかったじゃない? あの父親はあんたに無視され続けて、すっかりトラウマになってしまったみたいね。
でもあんたも悪いのよ? もっと早くに仲直りしていれば、少なくとも今みたいにはならなかったかもしれないのに。あの父親のあんたへの溺愛ぶりはもう病気なのよ。あんたはその認識がまだまだ甘かったという事ね。
でもそのおかげで、あの父親は現在、あんたしか眼中に入ってはいないから私の方はとても楽が出来るし、戦も起きないから世の中平和であんた色んな人達から感謝されるわよ~?」
母の同情すらも感じられない言葉に、私は恨みがましげに睨む。
そんな父は四六時中私にくっついていたので、その分、母の方には行かない事もあってここ最近、母の機嫌はすこぶる良い。
「ーー他人事だと思って…………そんな感謝されたって嬉しくもなんともないわよ。私、もうお父様と喧嘩するのは精々3日間くらいまでにしておくわ」
「あら、他人事かしら? あんたが部屋に籠っている間、私だって同じような目に合っていたのよ? あの父親からの連日の、あんたの様子がどうだのこうだの。もう鬱陶しいったらなかったわ。
私もあんたのように部屋に籠りたくなったけれど、その原因に協力した事にはかわりないから敢えてそこを我慢したんだからね?」
「そ、そうなの? それは………お疲れ様だったわね?」
母の言葉に思わず私の方が同情してしまう。父が病的に溺愛しているのは母も同様なのだ。私が父を無視し続けた分、父は母の方に四六時中くっついていたのだろう。
私は父が大好きなので、今の状況は疲れはしても、父と一緒にいて苦痛だと思う事など一度たりとも感じた事はないが、なんと言っても母は父の事が大嫌いだ。
私も公の場で嫌いな人間がいると、その場にいるのがすごく嫌で、その時間が苦痛だと感じることもたまにあるから分かる。母はきっと私以上に疲れているに違いない。
……………とても、そんな風には見えないけど。
そんな私の同情の視線が分かったのか、母は手首を横にヒラヒラと振って笑う。
「ああ、もしかして同情してる? 確かに毎日鬱陶しい事には変わらなかったけれど、私の方は今のあんたみたいに四六時中はりつかせなかったからそうでもないわ。
それに朝と夜の時間は、第一騎士団隊長に“部屋から出すな”と言って見張らせておいたし、あんたの部屋に行けば、あの父親はついて来る事が出来ないからね。そこは上手く立ち回ったわよ。それでもやっぱり毎日相手をするのはもうゴメンだわ」
「…………母様。ヴァンデル隊長が血は争えないと言っていたわ。私も隊長にお父様がお仕事を終えるまで“部屋から出すな”と、お願いしたの」
母娘揃って同じ事を言っていたとは隊長が血は争えないと言うはずだ。
それを聞いた母は一瞬ぽかんとした表情を浮かべると、突如として笑い出す。
「あはは、さすがは私の娘ね。あんたも同じ事を言ったんじゃ、“血は争えない”というのも頷けるわ。あの隊長もさぞかし驚いたでしょうに」
「さぞかしーーか、どうかは分からないけれど、珍しくあの強面が緩んで笑っている様にも見えて正直、私が驚いたわ。あの人、あんな顔も出来るのね」
「ふふっ、人は見かけによらないものなのよ? あんたもこれを機に慣れてみれば、あの強面だってその内、可愛く思えてくるわよ。それに彼ほど味方にしておいて便利な人はいないわ。あの国王を唯一止められる人材だもの」
その姿だけで人を威嚇出来るであろう第一騎士団隊長を『便利屋』扱いするとは、さすがは母様。と賞賛するところだが、母の言うあの強面が可愛いなどと思える事など、私には多分無い。やはり怖いものは怖いのだ。
「あの強面を可愛いと言うのは母様だけよ。だけど便利なのは確かよね。お父様の事はヴァンデル隊長が引き受けてくれたから、暫くは私もゆっくり休めるもの」
「なら、よかったじゃない? それに第一騎士団隊長に任せておけば大丈夫よ。国王を上手く諭して、きっとあんたから離してくれるわ」
「それはどうかしら? 私、あの隊長とは全然親しくはないし、それに殆ど話した事もないのよ? それなのに頼まれもしないのに私の為にそこまでしないわよ」
すると母はニッコリと笑って首を横に振る。
「あら? するわよ、勿論ね。あんたの為というより、自分達の為だけど。国王に仕事を放棄されて一番困るのは側近である彼等なのよ? 中でも特に第一騎士団隊長は多忙だから今、一番苦労していると思うわ。だから今日という今日はあんた達の外出を阻止して国王を連れて行ったんでしょう?」
…………確かに、第一騎士団隊長はかなり怒っていたし、自分は忙しいのに「国王の仕事まではやっていられない」と言っていた。しかも他の部下の騎士達までが国王に「離せ」と言われてでさえ、その体を押さえながら自分達の隊長の解放を訴えていた。その彼等に無理矢理引きずられていく父の姿を思い出す。
「ーーああ、そうだった。あのお父様が彼等にズルズルと引きずられていく様はーーーちょっと…………いや、かなり面白かったわ。さすがは第一騎士団隊よね。他の騎士団隊では絶対に出来ない事だわ」
すると私のその言葉に母が吹き出すように笑い出す。
「ププッ、あははは、本当? そんなに面白かったの? いやだ、あんたどうして私を呼ばないのよ? すごく見たかったわ~。もしその場にいれば笑い飛ばしてやったのに。あ~あ、残念」
…………母様。それは日頃のお父様への鬱憤晴らしなのですか?
「…………そうね、今度はそうする…………間に合えば、だけど。それはそうと母様、何を読んでいるの? 最近ずっとその本ばかりよね? そんなに夢中になるほど面白いの?」
母はここ最近、ずっと同じ本を読み耽っている。母は意外にも読書好きで暇さえあれば紅茶をお供に本を開いている。
私は読書は嫌いではないが、本を読むくらいなら体を動かしている方が好きなので、本と呼べるものは勉学の時に開くくらいで、どちらかといえば、自分で読むより読み聞かせしてもらう方が好きだ。母はそんな私を「お子様」と言うが、私はまだ子供である。
「ああ、これ? 今、市井の間で流行っている本なんだけれど、これがまた面白いのよ。大人限定の規制本だけどあんたも読む?」
母は続きものらしいその本を一冊を手に取って表紙を見せる。表紙は安価な布張りのもので、一見は普通に市井に出回っている本だが角の方に規則本の印が押印してある。これは内容が大人向けで子供が購入出来ない印であり、読んではいけない本でもある。
「母様、それって、私が読んではいけない本でしょう? それを子供に勧める母親ってどうなの?」
私が呆れた視線を送ると、母は小さく肩を竦める。
「だって気になるんでしょう? 心配しなくても、そんなに過激な内容じゃないわよ。まあ、深窓の令嬢には読ませられるものじゃないけれど、あんたなら大丈夫でしょ?」
…………母様、私は一応王女なのですが。王女というのは深窓の令嬢中の令嬢なのでは?と、心の中で呟いてみたが、確かに私の場合、王女とはいっても深窓の令嬢と名乗るには程遠い俗物的な人間なので、敢えて否定はするまい。
「まあ、いいわ。それでどんな内容なの? 自分で読むのは面倒だから母様が簡単に解説してよ」
そんなものぐさな私に母はやれやれ、と本を開いてパラパラとめくる。
「こういうのは自分で想像しながら読むから面白いのに。本当にお子様は仕方ないわね。ふふっ、でも聞いたらあんたも面白いと思うわよ? 一人の女を巡ったもうドロッドロの泥沼の争いだから」
母が生き生きとした口調になり、私は眉間に皺を寄せる。
「はあ? そんな内容のどこが面白いのよ? 馬鹿くさい痴話喧嘩話なんて面白くもなんともないわ。そんなの令嬢達の噂話だけで十分よ。言っとくけど、私は冒険ものとかハラハラドキドキする内容じゃないと、私、本を開いたまま寝るわよ?」
「まあ、聞きなさいよ。話の内容は性悪の双子の魔女姉妹がいて次々に男達を誑かして貢がせたあげく、その間に生気を食い尽くしてボロボロにしては石に変えていたの」
「なに? それ? お伽噺なの? それなのに規制がかかっているわけ?」
「まあね、ーーそれでね、その双子の魔女達は次の標的に各地に圧倒的に勢力を伸ばしていた国の国王に目を付けたの。その魔女達はね、それはもう美しい容姿の絶世の美女なのだけれど、その実体は、若い男の生気を煤って若さと美貌を保っている齢300年以上生きている醜い老婆なのですって」
「ふうん? まあ、話の内容といえばありがちーーよね」
私はクッションに頭を乗せてソファーに横たわりながら、手持ち無沙汰に自分の長い髪を指や腕に巻き付けながら遊んでいた。そんな母は、本のページをゆっくりとめくりながらもどこかしら楽しそうだ。
「そして魔女達はその国に入り込むと二人一役で、その美貌を武器にして国王を上手く誑し込んで自分達の思惑通り国王の愛妾に収まったのよ」
…………ん?…………愛妾?
何故か引っ掛かりを覚える。愛妾とはまるで母のようではないか。
「国王は忽ち、魔女の美しさの虜になり、魔女の機嫌を損ねたものは追放か死ぬまで投獄。 臣下達はもはや誰一人として国王や魔女に逆らえなくなっていったの。
そんなある日、魔女は自分達の権力が確実になった事をいいことに、国王の王妃と三人の王子が邪魔になって密かに暗殺しようとしたのだけれど、それに逸早く気付いた国王の側近が王妃達を秘密裏に国外に逃がしたのよ」
…………ん、ん? 王妃と三人の王子?
「それで双子の魔女の妹の方が後の禍根を残さないようにと、逃亡した王妃や王子達の追跡に出たのだけれど、その途中、立ち寄ったある国でそれは美しい王子に出会ったの。
妹魔女はその美しい王子に一目惚れしてしまいどうしても王子が欲しくなって、その国の国王夫妻を魔法で脅して、まず手始めに王子の婚約者を石に変えると、自分が強引に王子の妃に収まったのよ」
…………ん、んん?…………美しい王子?
「!?」
そこまで聞いて私はガバッと起き上がる。その拍子に枕にしていたクッションも床に転がり落ちたが、そんなものは気にしない。
「ちょ、ちょっと!なによ、その内容! それってまるっきり私達の事じゃないの!? 微妙に内容や配役は変わっているけれど、もしかしなくとも、その双子の魔女って私と母様よね? そして三人の王子って姉様達の事じゃないの!?」
すると母はクスクスと笑う。
「ふっふっ、気付いた? そうなのよ。 この本、私達を題材にしたお話なのよ。私達が『性悪の双子の魔女』ですって、適役過ぎて笑っちゃうわよね」
そんな母の呑気な様子に、私の眉間の皺がさらに深くなる。
「母様! 笑い事じゃないわ! 市井でそんな本が流行っているですって!? 無礼にもほどがあるわよ。すぐに作った人間を罰して本を回収させましょう?」
憤る私を母が手で制止する。
「まあまあ。これはあくまでお話だし、配役や名前は変えてあるんだからいいじゃない。それにこれはまだ冒頭部分で肝心の『主人公』が出てきてはいないでしょう? ふふっ、『主人公』あってこその物語ですものね。双子の魔女達はいわば『脇役』よ? この『主人公』が面白いのよ。思わず、突っ込まずにはいられないくらいにね」
「はあ? 『主人公』? どうせ主人公なんて心優しい清らかな村娘か幼い時に拐われて行方知れずの実はどこぞの王女なんでしょう? そんなの『定番』じゃない」
「それがね? 主人公は確かに心優しいけれど気が強くて頑張り屋という普通の容姿の娘なの。その娘は赤子の時に神殿の前に捨てられていて、そこの斎主に拾われて、それからずっと神殿の巫女として修行してきたのだけれど、ある日そこで魔女から逃れてきた王妃と王子達に出会うのよ。
するとその主人公の養い親が実は良い魔女の女王でね。なんと主人公は本当は魔女の血を持った娘だったの。それから主人公は神殿の“白い聖女”として双子の悪い魔女を倒す為に三人の王子達と共に魔女に対抗できる仲間を探しに旅に出るんだけど」
「なんだ、やっぱり『定番』なんじゃない。実は“王女”が、実は“魔女”だった。に替わっただけでしょ? それのどこが面白いの?」
私が興味なさげに言うと、母は人差し指を左右に振る。
「まあね、ここまでは定番かもしれないけれど、これは大人限定の“規制本”よ? そんな普通なわけないでしょ? この主人公は気が強い性分からか中々素直になれなくてね。いつも王太子と三番目の王子と喧嘩ばかりしていて、二番目の王子とは彼が冷静沈着な性分なので喧嘩はないけれど、そんな主人公は口ではいつも彼に言い負かされているのよ」
確かに私の腹違いの姉達は、激情型の第一王女。冷静で計算高い第二王女。プライドの非常に高い第三王女。
この本を作った作者は随分と的確に調べあげているようだ。
「それでこの主人公はね、自分の魔法は「人を救う魔法だから」と言って全く戦うことは出来ないくせに、そのくせ、正義感は人一倍あるみたいで、すぐ面倒事に勝手に首を突っ込んで行っては危機危機状況に陥って、その度に王子達に助けられているんだけれど、それでも懲りずに何度も同じ事を繰り返すのよね。それで怪我をした人達を魔法で治して自分は『白い聖女様』と呼ばれて皆から感謝されているわけ」
「なによそれ? 主人公、馬鹿なの? 自分の力量も計れないくせして、しかも学習能力すら無いわけ? あまりにも浅はか過ぎない? しかも最後だけ美味しいとこ取り!?」
母の話を聞いている内に次第にその主人公に苛々してくる。
「でしょ? 突っ込みどころ満載よね? それでね~何故か、三人の王子が揃いも揃ってそんな主人公に惚れちゃうのよね~」
「はあ? どこにその主人公の“惚れ要素”があるのよ? しかも三人同時?? あり得ない!!」
「ふふっ、これは『お話』よ、『お話』。そうしてこの主人公は三人の王子からあからさまに好意を寄せられているのに、本当は分かっているくせして、すっとぼけるの。
「身分も何もない村娘の私なんか」とか「もっと他に綺麗な人が沢山いるのに私なんかを好きになるはずがない」ーーとかね。
王子達には気が強いのに自分の事になるとどうしてか後ろ向きで卑屈なのよね。だけどそれでいて王子達が他の若い女と少しでも親しくすると嫉妬して一人で機嫌が悪くなって、王子達に八つ当たりしたりするのよ」
「馬っ鹿じゃないの!? なに乙女ぶってんのよ。その女!! “気が強い”が聞いて呆れるわ。しかも“嫉妬”なんておこがましいわよ! あんた一体、誰が好きなのよ!?」
話を聞いていると苛々が沸々と強くなり、これはあくまで本の中のお話なのに、つい突っ込みに熱が入ってしまう。そんな憤る私とは対照的に母は面白そうに笑うだけだ。
「ふっふっふ、それでね? そんな主人公の煮え切らない態度に王太子の我慢に限界がきて、とうとう実力行使で主人公を押し倒しちゃうのよ。
それで男女の関係を持ってしまうのだけれど、その主人公はどうも雰囲気に流されやすくてね、次々に他の二人の王子とも意とも簡単に男女の関係を持っちゃうの。そこで王子兄弟との泥沼関係が始まるのよ。
それに耐えられなくなった主人公は一人で王子達から逃げるのだけれど、逃げた先々で出会った格好良い男達に何故かまた惚れられて、これまた簡単に迫られるままに体を許しちゃうのよね。そして風向きが悪くなる度に逃げるのよ。ちょっと、すごいでしょ?」
「…………母様。それ本当に『主人公』? “聖女”じゃなくて“売女”の間違いじゃないの? 私にはその主人公が、“性悪魔女”としか思えないわよ?
結局何? 男を誑かしているのは『主人公』でしょう? しかもそんな“惚れ要素”にすら疑問しかないような身持ちの悪い尻軽な主人公に、どうして次々に格好良い男達が惚れるのよ? おかしいわよ。わけ分かんない!!」
「だから面白いんじゃない。ーーまあ、要は平凡などこにでもいる女が、沢山の格好良い男達に言い寄られまくる事が主旨とする話みたいね。そういうのって、女なら誰しも願望はあるでしょ? でも実際、現実ではそれってすっごく厄介事なのよね。あんたもこの先、覚悟しておいた方がいいわよ?
ーーと、まあ、初めはあんたみたいに“馬鹿じゃないの?”とか、“あり得ない”とか言いながら突っ込んでいる内に、それが不思議と段々クセになってくるのよね~。だからあんたも試しに読んでみる? 今、続編で四巻まで出ているのよ」
「いいえ、結構よ。…………なんかその主人公に殺意覚えるから」
「そう? これからがもっと面白くなるのに。三巻目の後半から主人公と妹魔女の美しい王子を取り合う女の戦いが勃発するのよ? どっちが勝つか知りたくない?」
母が誘うように意味深な言葉を掛ける。だが、そんなのは決まっている。物語というのは、主人公あってこその主人公の為のお話だ。脇役の悪い魔女などは主人公の引き立て役でしかなく、しかも最後には壮絶に倒されて終わるのは無論、“お決まり”な終わり方だろう。
「興味ないわね。そんな分かりきった事を知ったところで、ますます気分が悪くなるだけだわ」
「それはどうかしら? この作者はどうもそういう常識から外れてるみたいなの。だから面白い展開になっているのに」
母のその言葉に少し気になった。
常識から外れている? あんな胸くその悪い主人公を作っておいて?
「…………それってどんな?」
私が興味を示したのを見て、母が持っていた本をパタンと閉じる。
「ふふっ、気になる?」
ここでまたいつもの母の思わせぶりな言葉が出る。母は時に肝心なところで知りたいことを最後まで言わない。私に言わせれば母の悪い所だと思う。
「そんな言い方をされたら気になるに決まっているでしょう? 早く教えてよ」
私が苛々気味にせっつくと、母は紅茶を一口飲んでから口を開く。
「まあ、まだ四巻目を読んでいる途中なのよね~。だから五巻目までいかないと分からない内容ではあるんだけれど。そうねえ、展開としては、これが意外や意外、なんと主人公が非常に不利なのよ。
その主人公がね? 自分が倒そうとしている魔女がいる事も知らずに妹魔女がいる国にやって来たのだけれど、そこは格好良い男好きの惚れっぽい主人公だけあって、ま、当然だけど、そこは例外なく妹魔女の夫になっている美しい王子に惚れてしまってね。
それでその王子の妃が性悪魔女だと知って何とかして妹魔女を倒そうと、あれこれ画策しているところへ例のあの王太子が主人公を追って来てしまったの。そこで主人公はその王太子に言葉巧みで魔女の事を話して、妹魔女を倒して貰おうとけしかけたのよ。
ーーふふっ、あんたの今、言いたい言葉が分かったわ。「悪い魔女なのは主人公も同じじゃない!」ーーでしょ? 当たり?
でもそこで王太子は実は主人公が複数の男達と関係を持っている事実を知る事になって、そんな主人公に嫌気が差して離れていくの。
しかも王太子は妹魔女に幾度か対面している内に、なんと自分の宿敵でもあるはずの妹魔女に心を奪われて惚れてしまうのよね~ けれど妹魔女の夫である美しい王子も実は本気で妹魔女の事を愛してしまっているから、あらら、まあ大変!? 今度は主人公と妹魔女と王太子と美しい王子の略奪愛を巡った更にドロッドロの泥沼関係展開中なのよ」
うっ、なにそれ? ………ちょっと面白いんですけど。しかも続きが気になる。すっごくその展開が気になる……………
だってそれって、あのまさかの“ざまあ”展開?? だけど『主人公』なのに??
「…………母様。前言撤回するわ。気になる。すっごくその展開気になるわ! だから早く続きを読んで下さらない? そして私に教えてね?
でも主人公だから、やっぱり“お決まり通り”という事もあるわよね? だから母様から話を聞いた上で物語が完結したら改めてその本を貸して貰うわ。だって悪い展開なら読みたくないんですもの」
母はそんな私に小さく肩を竦める。
「あんたも“美味しいとこ取り”なのは一緒じゃないの。ーーでもまあ、いいわ。それに娘と本の内容を一緒に談義するというのも、結構、楽しいものね。本当にあんたは自分の興味のあるものにしか反応しない子なんだもの。
ーーそれで? 私はまた読書に入るけれどあんたはどうするの? 私が読み終わるまで待っているつもり? 私はゆっくり読む方だから、読み終えるのはかなり遅くなるわよ?」
そんな私は母の言葉に首を横に振ると、座っていたソファーから腰を上げて乱れたドレスの皺を伸ばす。
「さすがに退屈してきたところだから、城の中を散歩でもしながら話し相手でも探す事にするわ。でもどうせなら城の中じゃなくて一人で城下のお忍びにでも行きたいところだけど、それがお父様に知れたら今度こそ城内に軟禁されてしまうでしょう?」
その言葉には母も真顔で怖い表情になる。
「当たり前よ!!絶対に駄目!! 一人で行くのは、父親でなくとも私も絶対に許さないわ!! 何度も口煩く言うけれど、あんたにとって外はすごく『危険』なのよ?
父親やヴァンデル第一騎士団隊長が一緒ならともかく、それ以外は絶対に駄目よ! あんたみたいな世間知らずの娘が一人で歩いてなんていたら暴漢に襲われてしまうか、すぐに悪い奴に拐われていかがわしい所に売り飛ばされてしまうわ。それでなくとも昔からフラフラしてすぐにいなくなるんだから。蒼白になってあんたを探す者達の身にもなって頂戴!!
いいこと? 今度脱走なんかしたら、本当に父親じゃなくても四六時中見張りをつけて、城からは一歩も出さないからね。こればっかりは、私も問答無用で父親側に付くわよ?」
「わ、分かってるわよ。ちょっと言ってみただけよ。本気じゃないわ。心配しなくても大丈夫。城からは一歩も出ないから安心して? 私だってもう”軟禁“されるのは嫌だし、さすがに学習したわ」
ーーそう、私は以前、一人で城を抜け出してお忍びで城下に出掛け事がある。
城下の街には父と一緒によくお忍びで出掛けていたので、街中は見知っていた。だから父が戦に出向いていて城を留守にしている間、丁度退屈していた時に城下の街の方に各地を巡業している面白い見世物見世物小屋が来ている事を聞いて、いてもたってもいられず、こっそりと城を抜け出して一人で見に行ったのだ。
しかしそんな慣れているはずの城下でまさかの迷子になり、その時出会った自分よりも少し年上のとても面倒見のよい親切な二人の少年達のお世話になって、そんな彼等に見世物小屋まで案内してもらい、しかも屋台の食べ物まで買って貰ったりして城下を満喫していたところを、お忍び用の変装をしていたにも関わらず、街で警邏中の騎士達に見つかって、直ちに城に強制送還された。
城に戻るなり、母にはすごく怒られて長いお説教を受ける事になり、その数日後、戦から戻ってきた父からはやんわりと注意を受けただけで全く怒こられこそはしなかったものの、その分、父より私への罰として、約ふた月ほど城に“軟禁”されたことがあった。
だからまた同じ事を繰り返したら今度は半年、いや、それ以上に“軟禁”されるに違いない。いや“軟禁”ならまだいい。きっと今度は“監禁”だろう。その時は勿論、母の助けはない。先ほど母の口から、父親側に付くとはっきりと言われたばかりだ。
「それじゃあ、私は行くわ。母様、お邪魔したわね。もしかしたら、また来るかも?だけど取り敢えず行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。あんたの事は信用してはいるけれど、本当に一人で行くのは駄目だからね? どうしても行きたいのなら父親かヴァンデル隊長と行きなさい。ーーいいわね?」
再び母から念押しされて、私はそれに応えるようにヒラヒラと手を振ると母の部屋を後にした。
*****
母の部屋を後にしてから行く先も決まってはいなかったので、取り敢えず城の長い廊下を歩く。特に行きたい所は無いが、ふと窓の外を見ると城の西側の裏手の方に現在建設中の建物が目に入る。もう殆ど外観は出来ていて貴族の屋敷規模の建物だ。
その建物は私達母娘がこれから住む別邸であり、やはり王妃側の勢力が強い城内では、私達が肩身の狭い思いをしない様に、王妃達と居住区を別々にするのだと聞いてはいるが、その実の所は王妃の実家であるフォルセナ側に配慮した形であるようだ。
そんな複雑な事情ではあるが、私達が別邸に移ることは母も私も全くもって不満はなく、むしろ大歓迎である。
いくら国王が周囲の人間に私達母娘に危害を加える事は『何人たりとも絶対に許さない!』と周知させてはいるものの、それでもやはり態度や言葉の攻撃までは防げない。
だから同じ城にいれば、そんな人間達と嫌でも顔を会わせてしまうが、私達母娘専用の屋敷が出来れば、そこには私達しかいないので嫌な顔を見る必要は最小限で無くなるし、何をしていようが他人の視線に晒される事も無くなる。
私は窓辺で建設中の別邸を見つめながら、ふと、そこまで足を運ぼうと思い付いた。本当は建設中の間は危険なので近寄ってはいけないと言われてはいるが、もう外観は殆ど出来上がっている。少しくらいなら近付いて見ても危ないという事は無いだろう。
そう思い立って早速、城の西側に続く出入り門に向かって歩いていた時、その進行方向に見えた前方にいる人物の姿を確認するなり、思わず「ゲッ」と淑女らしからぬ言葉が飛び出してしまう。
…………これだから同じ城にいると、こんな風に顔を会わせる事になるから嫌なのだ。
「…………チッ、帰ってきてたのか」
これまた淑女らしからぬ舌打ちが飛び出したものの、だからといって引き返すのも敵前逃亡を意味するのでそれも出来ない。だが、向こうも私の顔など見たくもないだろうから、いつものように私の存在を無視して立ち去るだろう。
ーーそう思っていたのに、どうしてか今日に限って彼女は自分の侍女を後ろに引き連れて己の方から私の方へと歩いて来る。
どうして!? こっちに来る?
彼女は綺麗に結い上げた縦巻きの金色の髪を揺らし、羽扇で優雅に扇ぎながらこちらに歩いて来ると、私の数歩前で立ち止まった。
そしていつもなら眉間に皺を寄せて嫌なものでも見るような表情をするはずなのに、何故か今日に限っては不自然なほど上機嫌に微笑んでいる。
「あら? ごきげんよう。どうやらご機嫌が直ったというのは本当のようですわね? よろしかったこと。これで城中が平和になりますわ~ ーーねえ?あなた達もそう思いますわよねえ?」
彼女は自分の後方の侍女達に声を掛けると、彼女達は大袈裟なほど大きく首を縦に振る。
「ええ、本当によかったですわ」
「私達、恐ろしくて震えておりましたもの」
「ですから私達は王妃様や王女様に同行させて頂いて本当に幸せ者でしたわね。城に残った者達からどれほどうらやましがられた事か」
私への嫌味ともとれる言葉を口々に語る、この三人の侍女は彼女専用の侍女達なので当然、私の事をよく思ってはいない。だからさすがに直接ではないにしろ、自分達の主が嫌っている私に対して間接的に意地悪な態度を見せるものの、それは自分達の主が一緒にいる時だけでそうでない時は私の姿を見るなり、そそくさといつも物陰に隠れてしまうので、彼女達の意地悪などたいして気にはしていない。
「…………ごきげんよう、アニエス姉様。お帰りになっていたのには気付かなかったわ。それに姉様の方からお声を掛けて下さるなんて、珍しい事もあるものね? 私に何か御用かしら?」
そんな目前にいる彼女こそ私の腹違いの4歳年上の姉で、この国の第三王女アニエスだ。
ここ最近、父と私の親子喧嘩で城内の雰囲気が悪くなった事もあり、自分達がそのとばっちりを受けないように王妃が自分の娘達を連れてフォルセナに里帰りしていたそうだが、一連の騒動が治まった事を聞いたのか、どうやら王妃達親子は国に戻って来ていたらしい。
それにしてもこちらは色々と疲れているのに、どうしていつものように無視してくれないのだろうか? これがいつもの万全の状態の私ならば嫌味には嫌味で返すところだが、彼女の相手をするには今の私の気分ではますます疲れてしまう。だからここは私が大人になって、彼女の嫌味を適当に聞き流してさっさと立ち去ろう。
内心そう考えつつも私が愛想笑いを浮かべていると、アニエスはわざとらしく驚く仕草をする。
「まあ、珍しいだなんて。用事がなければ話しかけてはいけませんの? あなたの半分は血統の悪い、どこの馬の骨とも知れない血を引いてはいても、もう半分はこの国の王家の血を引く“一応”王家の一員と認められた私の“妹”なのですもの」
相変わらず口から出る言葉にはいちいち棘がある。なにが“妹”だ。そんなことこれっぽっちも思っていないくせに。
それに普段であれば私とは口を聞くのも汚らわしいと思っている血統至上主義の上流意識の塊のようなプライドの高い彼女が、自分の方から私に近付いて話しかけてくる事など、あり得ないから珍しいと言ったのだ。しかもその上機嫌が薄気味悪いこと、この上ないーーー
「あなたがまだお部屋に閉じ籠っているのではと丁度お見舞いに行くところでしたのよ? それもあなたときましたら私達がこうして帰国いたしましたのにあなたの母親はともかくとしても、私達の“妹”であるあなたが挨拶にも来ないだなんて、まことに非常識ですものね?
ですからてっきりあのまま病気にでもなってしまったのかと心配して“姉”である私自ら、あなたのお見舞いに足を運んだというのに、それが出会った途端、私達の帰国にも「気付かなかった」とか、話しかけたら「珍しい、何か用?」だなんて。なんとも薄情な“妹”だこと」
そんな主の言葉に三人の侍女達がまたこぞって声をあげる。
「ああ、アニエス様は本当にお優しいですわ」
「正統なお血筋であられるアニエス様御自ら、わざわざお見舞いに出向かれるなんて、本当にお美しい上になんてお心のお優しいお方なのでしょう」
「そうですわ。それなのに、そんなお優しいアニエス様のお心をお分かり下さらないだなんて、アニエス様、お可哀想に…………」
三人の侍女達はそう言って口々にアニエスに同情しているが、それを見ている私の視線はいつも以上に冷ややかだ。
ーーなにが優しい、可哀想なんだ。今までだって王妃や姉達が何処に外出して帰国しようが、そんな姉達に私が挨拶に出向いた事など一度も無いし、そもそも私達母娘の顔など見たくもない彼女達は普段から私達の存在をはなから無きものとして無視している。それなのにこれみよがしに“妹”と言う言葉を使い、私の“心配”などと、どの口が言うのだろう。私はそんな彼女にニッコリと微笑んだ。
「ああ、それは大変失礼しましたわ。けれど、随分と“お静かな”お帰りでしたので全く気付きませんでしたの。ですから今度はお父様の時のように、帰国された事が直ぐにでも分かるようにして下されば、その時は是非ともお出迎えさせて頂きますわ。ええーー勿論、花束を持って」
ーーそう、父が戦から戻って来る時などは、いつも凱旋パレードで列を成して街中を上げての大騒ぎで帰国するので、そんな父が城下に入れば直ぐに帰国が分かるようになっている。しかもその際、父はあちらこちらから花束を貰ってくるので、それを例に踏まえて少し嫌味を含めて言葉にする。やはり言われっぱなしというのも面白くない。
…………大人になるのは難しい。
するとそんな私の言葉に反応してアニエスの表情がにわかに変わり、眉間に深い皺が寄るも、またすぐに笑顔になる。
何なんだ? 一体?
「まあ、その様子であれば、こちらの心配など全く無用でしたわね。それはそうと今回の事でセルリアのユーリウス王子が呼びつけられたのですってね? 王子もお忙しいのに本当にお気の毒だこと。
ーーああ、そうそう、お気の毒と言えば、クラウス叔父上も大変お気の毒ですわ。やっと父上から“愛する女性”との婚姻を許されたというのに、あなたに邪魔をされて破談にされてしまったのですもの。
でもおかしいですわよね? あなたには婚約者がいますのに、叔父上の婚姻には反対なさるだなんて。お気の毒に、クラウス叔父上は酷く傷心されていらしたわ。 そのご様子を見ていてお可哀想になるくらいーーー」
その言葉を聞いて私の頭に一気に血が昇る。
「は? 愛する女性ですって!? 何を言っているのよ! あの女はただの幼馴染みで親友の妹ってだけだわ! それに私は身分違いを正しただけよ! だってそうでしょう? クラウスにアリシア程度の女が相応しいわけないじゃない!」
私がそう一気に捲し立てると、アニエスはさも可笑しそうに声を上げて笑う。
「あはは、“それ”をあなたが言いますの? 笑えますわね。あなたの方こそ、セルリアの王太子とはつり合いが取れてはいないでしょうに。少なくともあの男爵令嬢の方がどこかの“中途半端”な王女よりも、明らかに血筋の正しい貴族ですのにね。
アリシア嬢もお気の毒だこと。我儘な“誰か”のせいで、その“誰か”とは違い本当にお体を壊して、ご病気になられてしまわれたのですって。
ーーああ、それで、クラウス叔父上が毎日のように男爵家に通われているそうですわよ? それはもう甲斐甲斐しくーーー」
え?……………クラウス………が?
「………………クラウスが? 毎日アリシアの所に? ……………そんな事はないわ。だってクラウスは薬学研究の大きな集会があるから、それで忙しいって。だから城には中々来られないって……………」
私の中の先ほどまでの勢いもどこかに消え去り、どこからともなく心臓の音だけが大きく聞こえてくる。そんな私にアニエスの容赦のない言葉が降り注ぐ。
「ふふっ、それは大人の建前ですわよ。考えなくとも分かりますでしょう? “愛する女性”が病気になってしまいましたのよ? クラウス叔父上にしてみれば、とても平常ではいられませんことよ?
それにその事は貴族の間でも噂になるくらい有名ですのに、あなたはご存知ありませんの? ああ、それともまた箝口令でもしかれているのかしら? あなたは二人を破談にした当本人ですもの。
それともユーリウス王子の来訪に浮かれていて、耳に入らなかったのかしら? しかもクラウス叔父上があなたのお見舞いに来ても追い返したのですってね?
自分の婚約者は迎え入れるのに、叔父上の方には酷い仕打ちをした上にしかも会わずに追い返すだなんて
本当に信じられませんわ。なんて非情な姪なのかしら?」
アニエスの言葉がグサグサと自分に突き刺さる。
ーー私のもう1つの悩み。それはクラウスの事だ。
決してクラウスを追い返したくて追い返したわけじゃない。ーーただ、彼の顔を見るのが怖かった。彼のその口からアリシアの名前が出るのが怖かった。
そして…………何よりも嫌われてしまう事が怖かった。
だからクラウスを避けた。そうやっている内に今まで自分がどうやって彼に接していたのかも分からなくなって、会う事が出来なくなっていた。だから彼が忙しくなって城には中々来れないという事を聞いて、どこか安心さえしていた。
でもその間、クラウスは毎日アリシアの所に会いに行っていた? 私じゃなくて、彼女の所に?
ーーズキズキと胸が痛い。怒りというよりも悲しいような気持ちが沸き上がってくる。
…………どうして、こんなに胸が苦しいの?
…………どうして、こんなに悲しくなるの?
…………どうして、アリシアなの?
…………どうして、私の所じゃないの?
もはやアニエス達がそこにいる存在すらも頭には無くーーどうして?という疑問形の言葉だけが頭の中に反芻する。
…………分からない…………分からない。
自然に涙が込み上げてくるのを俯いてグッと堪えていると頭の上からアニエスの勝ち誇ったような笑い声が聞こえた。そしてトドメとばかりに彼女の言葉の凶器の槍が再び私に襲いかかってくる。
「ふふっ、もうクラウス叔父上はあなたに会いに来る事はないのではないかしら? 自分と愛する女性との幸せを壊した酷い人間になど、誰も会いたくなどないですものね。
事実、もうずっとクラウス叔父上は、城の方にはお顔を出してはいらっしゃらない様ですし。ですがアリシア嬢には毎日会いに行かれているのですって。
ーーああ、きっと、あなたは叔父上に嫌われてしまいましたのね? 無理もありませんわ。憎まれて当然の事をしたのですもの。でもあなたにはユーリウス王子がいらっしゃるから、叔父上の事など関係のない事でしたわね?
まあ、そのユーリウス王子にまで嫌われてしまわない様、精々努力なさる事ですわ。あなたの隠された本性などは、いずれに露見しましてよ?
そしてその内にアリシア嬢のようなご令嬢に王子を取られてしまうかもしれませんわね。ですがそれも自業自得ですわ。人の心まではあなたの我儘でもさすがにどうにも出来ません事よ?」
アニエスは高らかに笑うと、彼女の侍女達もクスクスと一緒に笑っている。
「ああ、そういえばこれはお見舞いですわ。フォルセナの特産物でしてよ。心配せずとも毒など入ってはいないから、安心して母娘でお上がりなさいな」
アニエスは侍女に指示すると、侍女の一人が私の前に出てきて持っていたバスケットに被せてある布を開くと、そこには果物がギッシリと詰まっていた。しかし私の目にはその光景が視界に入ってはいるものの、意識の方はそこには向いてはいない。
差し出されたバスケットを受け取らずに立ち尽くしている私の様子を見て、アニエスは満足そうにクスクスと笑いながら「後でお部屋に届けておきますわね」と彼女から言われたような気もするが定かではない。既に私の頭の中では違う意識で占領されていたからだ。
アニエスの言葉が頭の中に響く。
…………クラウスに……嫌われた?
ーーアリシアには毎日会いに行くのに私の方に会いに来ないのはーー私が嫌いだから?
ーークラウスが私を憎んでいる? クラウスとアリシアの幸せを私が壊したから?
その時、アニエスが口角を上げてニヤリと意味深に笑っていたことにも気付く余裕もなく、上機嫌で去って行くアニエスと侍女達の後ろ姿を茫然としたまま見送った。そして頭の中では、ずっと否定否定していた言葉が反芻し続ける。
……………嫌い?………嫌われた? ……………もう、私の顔なんて見たくもない? ……………会いたくない?
ーー私よりも、アリシアの方を選ぶの?
【13ー終】