温かい手
自分の手が温かいことが嫌だった。夏は熱いからと嫌がられ、冬は無理やり冷たい手に握られて熱を奪われていく。手が温かいというだけでなぜこんな理不尽な扱いを受けなきゃいけないんだろう。
『手が温かい人はね、心も温かいんだよ』
誰かがそんなことを言っていたけど、手が冷たくても優しい人はたくさんいる。そもそも、心が温かいってどういうことだよ、と突っ込みを入れたくなる。
「はぁ」
答えが出ないとわかっていながらも、ループする思考はとまらない。冬の冷たい空気に、吐き出した息が白くなって消えていった。
「今日は寒いなぁ。手が冷たくなっちゃった。手、つないでもいい?」
「うわ、冷た。なんで手袋してこないんだよ」
アベックが手をつなぎながら目の前を通り過ぎていった。チッ、リア充が。
「はぁ、もう家に帰ろう」
あてもなく歩いていた足を家に向けた。そのとき、世界がひっくり返った。宙を舞う体と青ざめた顔をした運転手の顔を見て、車に轢かれたことを悟った。聞こえてきた悲鳴はきっとさっきのカップルのものだろう。少しずつ遠のく意識の中で、投げ出された手が妙に冷たかった。
自分は死ぬのだと思ったが、案外人間とはしぶといものでどうやら私は生きているらしい。鬱陶しいくらいのせみの鳴き声がする中で一人ぽつんと立っていた。ここは、どこだろう?後ろを見ると大きな病院がある。その近くの広場にある大きな木の下に私はいる。
「あーちゃん、まってよ」
「まーくんはやく、こっちだよ」
病院のほうから二人の子供が走ってきた。あーちゃんと呼ばれている女の子を、まー君と呼ばれている男の子が追いかけている。とても仲の良さそうな二人を見て理解した。これは自分の記憶だと。あの女の子は自分で、あの男の子は小さいころに死んでしまった自分の双子の兄だと。二人は楽しそうに私がいる木の根元まで来ると、仲良く絵本を読み始めた。しばらくそんな光景をぼんやりと眺めていたら、ふいに幼い私がまー君の手を取った。
「まーくんのて、つめたいね」
ポツリとつぶやかれた言葉に、そういえば、と思い出す。ずっと病気がちだったまー君は夏でも手が冷たかった。私はよくまー君の手を握ってその手を温めていた。今目の前で幼い自分がやっているように。
「あーちゃんのては、あったかいね」
小さい私がまー君の手を温めようと一所懸命手をさすったり息を吐きかけたりしている間、まー君はいつもされるがままになっていた。そして、しばらくするといつも同じ言葉を言うんだ。
「あーちゃんのおかげで、ぼくのてもあったかくなったよ。あーちゃんのてはおひさまみたいだね」
にっこりと笑うまー君に、幼い私もつられて笑った。そういえばこの頃の私は自分の手が温かいことが誇らしかった。まー君の手を握ると最初はどんなに冷たくてもだんだん温かくなってきて、最後には同じくらいの体温になる。するとまー君が笑ってくれて、自分もつられて笑顔になれた。いつから私はこの手の体温が嫌いになったんだろう。
「まー君、あーちゃん、そろそろお部屋に戻らなきゃだめよ」
病院の中から現れた看護師さんに言われて二人は手をつないでその場を去っていった。私はその後をついて行くことにした。
ここが記憶の中だからだろうか、病院の中はひどく不思議な空間になっていた。幼い自分が興味をもって見ていたであろう場所はかなり鮮明に再現されていて、それ以外の場所は酷く曖昧になっている。さらにそこにいる人たち、患者さんや看護師さんたちの顔はほとんどなかった。ぼんやりと、まるでにじんだ絵の具のようになっている。その中でも数名はっきりと顔があるのは、おそらく自分達が頻繁に接触したことのある人なのだろう。そんな不思議な空間を幼い自分たちは突っ切って、まー君の病室まで戻っていった。
この不思議な記憶の中に来てからどれくらいの時間がたっただろうか。あっという間に季節は冬になっていた。少しずつまー君は弱っていき、今ではベッドから起き上がれないくらいになっている。幼い私は毎日まー君の手をとって、息を吐きかけて温めていた。
「まーくん、て、あったかくなった?」
もう殆ど喋ることができないまー君は、それでも幼い私の問いかけに対して笑顔を向けた。
「よかった」
つられて無邪気に笑っている幼い自分は気づいていない。まー君がもうすぐいなくなることに。あの頃は、また夏になったら二人であの木の下で絵本が読めると信じていた。明るく元気に笑う小さな私に対して、まー君は静かに少し悲しそうに笑っていた。
今ならわかる。まー君が日に日に弱っていくのが。それでもまー君は幼い私のいる前では笑顔を絶やさなかった。ふと外を見ると雪が降っている。まー君が死んだのも確か雪が降っていた日だった。きっと今日、まー君は死んでしまうのだろう。そう思ってまー君のほうに目をやると、すでにまー君の顔には白い布がかかっていて、幼い私がその手を握っていつものように温めようとしているところだった。そういえば私はまー君の死に際を見ていない。だから私の記憶で構成されているこの世界ではそれは再現されることはない。
「ぱぱ、まーくんのてね、すっごくつめたいよ。ぜんぜんあったかくならないの」
いつもならまー君に直接話しかけるのに、まー君の顔が見えないせいか、はたまた傍にいる両親がいつもと違って悲しみに満ちた表情をしているせいか、私は父親に向かって話しかけた。
「まー君はね、遠いところに行っちゃったんだよ。そこはとても寒いところだから手が冷たいのかもしれないね」
泣きそうになりながら静かに告げた父親が私の頭に手を載せた。ふと気づくと私は幼い頃の姿になっていた。あの時私は、なんて言ったんだっけ?思い出すことはできないけど、意思に反して口が勝手に動く。
「だったら、まーくんがさむくないようにわたしがあたためてあげるね」
私は再びまー君の手をとると、一所懸命に息を吐きかけて温めようとした。まー君の手はとても冷たかった。いつもみたいにじわじわと温まっていく感じはなく、私の手からどんどん熱を奪っていく。
「冷たい」
ポツリと呟くと、涙があふれてきた。おかしいな、あの時私はまー君が死んだことが理解できなくて涙なんて流さなかったはずなのに。左手でまー君の手を握ったまま、右手で涙をぬぐう。左手の熱がどんどん奪われていく。思い出した、私が自分の手の体温が嫌いな理由。冷たい手に触られると、この日の出来事を思い出すからだ。何も反応を示してくれないまー君を、ずっと温かくならないまー君の手を。
どれくらいの時間そうしていただろうか。不意に左手が温かいことに気づいた。安心するような温かさに誘われるように私は目を開けた。
「あーちゃん、おはよう。あーちゃんの手が冷たかったから僕が温めておいたよ」
動かしづらい体を動かして左を見ると、笑顔のまー君がいた。あの頃と変わらない幼い姿のまー君。でもその手はとても温かかった。じわりじわりと手に伝わる熱に心が温かくなるのを感じた。
「あり、がとう」
途切れ途切れに呟くと、まー君はにっこり笑って姿を消した。驚いてみていると、その姿は母親のものになった。どうやら幻覚でも見ていたらしい。泣きはらした顔の母親の声をぼんやりと聞きながら私は再び意識を手放した。
私が事故にあってからそれなりの時間たった。一度死に掛けたのが嘘のように、今では怪我もすっかりよくなって元の日常生活を送っている。変わったことといえば、私の手が冷たくなったことだろうか。今までどんなに寒くても失われることがなかった手の体温は、事故をきっかけになくなってしまった。きっとまー君が持って行ったのだと私は思っている。そしてその体温で冷たくなった私の手を温めてくれたんだ。そんなことを思っているうちに、季節がめぐってまた冬が訪れた。
「やばい、手が冷たい」
今まで手袋なんか必要なかった私には手袋をするという習慣は皆無であった。よく手袋を忘れては息を吐きかけて温めていた。しかしそんなの焼け石に水で、なかなか温まってはくれない。
「また手袋忘れたのか?」
困っているとすっと手が差し出される。その手をそっと握ると、とても温かかった。
「あったかい」
じわりと手から熱が伝わってくる。
「お前の手は冷たすぎだ。冷え性なんだから手袋忘れるなよな」
呆れたように言いながらも気遣ってくれる言葉に頬が緩んでいくのがわかる。
「ねぇ、知ってる?」
昔は大嫌いだった温かい手。今では失ってしまったのを少し残念に思っている。あの手はきっと魔法の手だったに違いない。
「手が温かい人はね、人の心も温めることができるんだよ」
だって、今私はつないだ手から伝わる熱にこんなにも幸せを感じているのだから。
つたない作品を最後まで読んでいただきありがとうございました。