九話 終わらない一日
――それに俺の苗字、あまり縁起のいいものでもないだろ?
苦笑と共にそう締めくくって、堅一は屋上から立ち去った。
その際、閉まる扉の隙間から見えたのは。堅一の言葉を聞き、押し黙ったまま思案するように顔を俯かせた姫華の姿。
「ま、これでもう関わってこないだろ」
教室へと戻る道すがら、階段を下りながら堅一は独りごちた。
呪い。
その言葉を聞いて、そしてそれを他者にかけられると知って。好意的に受け取る人間がどれほどいることか。少なくとも、まともな神経の持ち主であれば、その大多数は忌避することだろう。
気味が悪く、得体の知れない能力だというのは、他ならぬ堅一自身嫌というほど理解している。
当人である堅一ですらそうなのだから、他人であり、しかも知り合って間もない姫華はそれ以上のものがあるはずだ。
そんなことを考えながら、食事を終えたであろう生徒達で賑わい始めた廊下を抜け、急ぎソルジャー4の教室へと戻る。
時間もそこそこ経過してしまったため、昼食の購入に行っていた毅も戻ってきている可能性が高い。
そうして、クラスに辿り着いた堅一が教室の扉を開けると。
その姿に気づいたクラスメートから、好奇の視線と、そしてなぜか侮蔑の籠ったような視線が一斉に突き刺さった。
かと思いきや、あからさまにざわつき、チラチラと堅一を見ながら小声で会話する生徒達。
さりげなく耳を澄ませば、「……最低」だの「……信じられない」などという単語を聞き取ることができた。
――好奇の視線は覚悟の上だったが、それ以外のはなんだ?
不思議に思いつつも、視線を気にしないように努め、自身の席に向かう。
予想していた通り、そこにはすでに、毅が席に座って待っていた。向き合った二つの机の上には、弁当が二つ。それも、未開封の状態で、毅の手には割り箸すら握られていない。
「悪い、毅。待ったか?」
軽く謝りの言葉をかけ、堅一が毅の肩をポン、と叩けば。
グルンッ、ともの凄い勢いで首を回した毅が、堅一を見上げた。
「待ったか? じゃねぇ! お前は、人に昼飯を買いに行かせて、一体何処をほっつき歩いてんだ!?」
直後、堅一の耳朶を打ったのは、囁くような、それでいて静かな怒りを伴った毅の非難。
それに気圧され、堅一は思わず後ずさる。
「い、いきなりなんだよ?」
「それはこっちの台詞だっての!」
それを皮切りに、ヒソヒソ声で、しかし怒るというなんとも器用な口調で、毅は捲し立てる。
「弁当を買いに戻ってきたら、動けないとか何とか言ってたはずのお前は教室にいない。その上、妙な話は広まってるときた。どうなってんだ、この変態!」
「……へ、変態?」
毅の口から出た思わぬ言葉に、堅一は目を瞬いた。
常日頃から呼ばれているとかいうのならまだしも、しかしそういうわけでもない。そもそも、堅一にはそんな不名誉な名称で呼ばれる謂われもないのだ。
だというのに、まさかの変態呼ばわりである。
「ちょ、ちょっと待て、落ち着けって」
その呼び方に不穏なものを感じ、堅一は、毅の対面である自身の席に慌てて座った。
そして、声の大きさを落とし、毅を問い詰める。
「変態って、何のことだよ?」
「俺だって詳しくは知らねぇよ。でもな、さっきクラスの奴の話が聞こえたんだ。お前が、あの市之宮姫華の弱みを握って脅迫してるって」
「……はぁ?」
なんだそれは、と思わず堅一は間抜けな声を上げた。
真実どころか、事実に掠ってすらいない。そもそも、話が飛躍しすぎである。
そんな堅一を見た毅は眉間を寄せつつ、より一層声を潜めて言い放つ。
「市之宮に契約を結ばせることを強要して、それがバレそうになったから嫌がる市之宮を連れて逃げた。それが、俺がここで聞いた話――」
それを聞くや否や、堅一はそっと教室内の様子を盗み見た。
昼食をとっている生徒も、すでに終えて雑談をしている生徒も。全く堅一を気にしていない者もいるが、大半はチラチラとこちらの様子を窺っているのが、雰囲気でなんとなく感じ取れた。
「…………」
つまり、人に聞かれまいと屋上に行ったのが、裏目に出たというわけか。
その事実に、堅一は眩暈を覚えて、こめかみを押さえた。
「確かに、契約を申し込まれもしたし、屋上で話もしてきた」
「……マジかよ。……そんで、何がどうなってんだ?」
一部を認めた堅一の言葉に、毅は目を瞠り、呆然と呟いた。
しかしすぐに我を取り戻し、先を促す。
「誤解というか、勘違いというか。とにかく、そうとしか言えない」
堅一がそう言った瞬間、毅の目が、馬鹿を見るようなそれへと変わった。
「お前さ……それで、ああそうですかってなると思ってんのか? あの1クラスが、4クラスに契約を持ちかけたってのがそもそも、本来ありえないことなんだぜ?」
勿論、堅一とてそれで納得させられるとは思っていない。
だが、事の全てを説明するには、昨日の襲撃事件から遡らなければならないわけで。
「しょうがないだろ。本当に、そうとしか言えないんだから」
ゆえに、堅一は憮然とした顔でそう言うしかなかった。
「……まぁ、お前がそう言うんなら、俺にはどうすることもできねぇか。それに、その現場も実際に見てねーし」
呆れたように溜め息を吐くと、毅は机に置いた唐揚げ弁当のビニール包装を、ビリビリと破いた。
自分の言ったことながら、あっさり引き下がったことに目を丸くする堅一を前に、毅は割り箸を唐揚げに伸ばし、咀嚼して一言。
「あー、やっぱり冷めてら」
ブツブツ、と文句を言いながら、次々に口へと物を運ぶ。
それをぼんやりとして見ていた堅一も、思い出したように弁当の包装を破り、割り箸を手に取った。
中身は、毅と同じ唐揚げ弁当。
適当に唐揚げを一つ掴み、口に運んで苦笑する。
互いに弁当を突っつきあう中、会話に上がるのは、やはりというべきか、市之宮姫華に関する話題だった。
「んで、契約は結ぶのか?」
「……いや、断るよ」
毅の問いに、しばし時間をかけ、堅一が返答する。
厳密にいえば、面と向かって断ってきたわけではないが、堅一としてはすでに決裂したつもりでいた。
そんな堅一の言葉に、やれやれ、とでも言わんばかりに毅は肩を竦める。
「ま、堅一のことだからそうすると思ったぜ。……しかし、勿体無い。俺だったら、喜んで飛びつくのによ」
「あのな、相手は1クラスのジェネラルだぞ? 4クラスの俺じゃ釣り合わないし、なにより面倒事が目に見えてるだろ。現に、もう誤解されてるし」
「……そんな理由で断るのは、お前ぐらいのものだと思うがな。もっとも、不釣り合いってのは同意するけど」
そんな会話を繰り広げつつ、二人は箸を進める。
「でもま、夏休みまでもうすぐだ。それまでは不名誉な噂も我慢するんだな。この手の噂は、下手に口出ししたところでどうにもならないし」
「……そうだな」
人の噂も七十五日というが、夏休みに入ってしまえば学園に来なくてすむ。仮に二学期にまだ噂が残っていたとしても、姫華と堅一が契約を結んでいないという事実が認識されれば、やがて沈静化して忘れ去られるはずだ。毅の言う通り、下手に口を出すよりかは、その方がいいと堅一は思った。
姫華は、恐らく堅一の前に現れることはない。仮契約の影響で知られているとはいえ、そのためにも堅一は己の天能を姫華に教えたのだから。
――ああ、それなら脅迫というのはあながち間違いでもないかもしれない。
呑気にもそんなことを考えつつ、堅一はすっかり生温かくなってしまった唐揚げ弁当を、黙々と口にするのだった。
――そのため、時間の経過で問題が解決する、という結論に至った堅一は、すっかり油断していた。
昼休みだけでなく、授業時も度々クラスメートに懐疑的な視線に向けられ段々と居心地が悪くなってきた中、ようやく迎えた放課後。
堅一は、手早く荷物を整え、そそくさと席を立った。
昨日は帰りを共にした毅だが、今日の放課後は、パートナーの捜索、及び契約の申込みをすると息巻いていた。
少なくとも数十分、下手をすれば数時間は学校に残ることになるだろう。
最後列に位置する机から、堅一はそのまま教室後方の扉へと足早に目指す。
なんでもない行動だが、そこはやはり悪目立ちしてしまったためか。声をかけられはしないものの、いくつかの視線が付き纏う。
いい加減げんなりとしつつあるが、かといって堅一にはどうにもできないわけで。
表面上は事も無げに振る舞い、視線をただ前にのみ集中させる。
時間にしては、たかが数秒の出来事。しかし堅一にとっては、扉までが普段の二倍も三倍も長く感じられた。
そうして、ようやく出入口に到達した堅一が、胸を撫で下ろすと共にその引き戸に手を伸ばそうとして――。
――ガラッ。
その手が取手に達するよりも早く、開かれる扉。
外側から開けられたのだ、と理解した堅一は、相手の進路を譲ろうと無意識に身体をずらそうとする。
「んなっ!?」
だが、その際チラと相手の顔に目をやった堅一は、間抜けな声と共に硬直した。
扉の向こう側にいた人物も、中途半端に腕を伸ばした堅一の姿に気付き、驚いたように目を見開く。
双方が過剰に反応したのは、単に扉の先に人が立っていたからというだけでなく、その人物にも問題があったからだろう。
だが、例え同じ理由だったとしても、驚愕は堅一の方が大きかった。
「おまっ、なんっ……」
正常に口が回らないほどの、動揺。
そんな堅一を前にして、いち早く我に返った対面の人物――市之宮姫華は、小さく会釈した。
前後、二つの内の一つである後方の出入口という場所に加え、堅一の出した妙ちきりんな声。
ゆえに、見なくとも感じ取れる。クラスに残っていた生徒達から、いくつもの視線が向けられているのを。
だが、今の堅一にとっては、そんなことは瑣末事でしかなかった。
堅一の脳裏を埋め尽くすのは、何故、という困惑のみ。
そんな時だ。
「――黒星堅一君、だね?」
凛とした響きを伴った、少々低めの女性の声。
姫華のものではない。彼女の声を近くで耳にしたのは今日が初めてだが、それでも違うと断言できる。
直後、スッ、とあまりに自然な動作で堅一と姫華の間に入り込んできたのは、一人の女子生徒だった。
漆黒の髪は、後ろで一括り――いわゆるポニーテールで束ねられ、その怜悧な面差しは興味深げに堅一を見下している。
その胸には、まるでそこにあるのが当然、とでも主張するかのように映える、金の校章。
「私は、二年のジェネラル、天坂舞という」
突然現れた彼女が、そう名乗った、瞬間。
不意に、堅一の後方――つまり教室内から、女子の黄色い歓声が上がった。
思わずビクッ、と身を竦ませる堅一だったが、眼前の舞はまるで気にしていないかのように言葉を続ける。
「いきなりで申し訳ないが、これから時間はあるか? 少し話を聞きたいんだが」
途端、今度は、女子の黄色い悲鳴。
次から次に起こる不測の事態を前に、冷静さを取り戻せない堅一だが。
それでも、反射的に口は動き、紡いだのは拒否の言葉。
「……あー、ない――」
「都合が悪いようなら、また明日にでも改めるとしよう」
無論、このまま帰宅するだけの堅一に、用事などなかった。だが、姫華だけでも問題であるのに、上級生の1クラスまで出てくるとなると、面倒臭いを通り越して不気味である。
ゆえの拒否だったが、しかし堅一が言い切る前に、舞は即座に次の手を打つ。
もっとも、それは手とも言えないほどの提案。時間がなければ、日を改める。本当に用がある人間からすれば、当然の帰結。
いずれにせよ、どう足掻こうが堅一の負けであった。
「…………」
ニヤリ、と口元に笑みを湛えて、押し黙った堅一を見下す舞。
堅一には、その表情がまるで「お前の考えていることはお見通しだ」とでも言っているかのように思えた。
「……ないわけではないです」
せめてもの意趣返しに、遮られた言葉に続くように、返答する堅一。
しかしそれを聞いた舞は、満足気に頷き、
「では、私に着いてきてくれ」
実にあっさりと踵を返した。
堅一の皮肉など、まるで意に介していないようだった。
はぁ、と隠すこともなく溜め息を一つ吐くと、堅一は自身よりも背の高い先輩に続き、クラスメートの視線を背に受けながら廊下に出るのだった。