番外編 ~彼、彼女が無名であった理由~ 2-2、ルアンナ・ブラフィルドの場合
お久しぶりです。
待っていただけた方がいらっしゃいましたら、申し訳ないです。……いないですかね。
かなり間があいてとなりますが、番外編の続きとなります。
よろしくお願いします。
まるで、地面が消失したかのようだった。
身体が前に揺れ、膝を着く。膝が着いた、ということはやはり地面などなくなっていない、ということで。
コンッ、と遅れて耳に入る、音。
自身の膝と木造の床が接触したことにより発せられたそれは。静寂の中、妙に遠くまで響き。
思いのほか勢いのあったからか、じんわりとした痛みが伝わってくる。
でも、今この時においてそれは、どこか他人事のようで。
「そ、んな……」
聞いたことのない――聞くはずのない、酷く沈んだ声色だった。
「うそ、でしょう――」
打ちひしがれたような、覇気の無い、己の声。
当たり前だ。彼女は――ルアンナは。この世に生を受けてから今まで一度も、一度たりとも。そのような思いとは無縁であったからだ。
恵まれた、順風満帆な人生であった。なに不自由のない、輝きを放つ人生であった。
そして、今日この時。その人生に更なる彩りが加えられる――そう、確信していたというのに。
――だからこそ、彼女は。
本当に、その声が自分の口から零れたのか。
本当に、自身の眼を通して伝えられる事実が、現実であるのか。
「……っ」
――信じられなくて。
碧眼の双眸より、はらりと一滴。
涙が頬を滑り落ちる。
その光景が、腕のある画家によって描き起こされたならば。さぞや、映えた名画となったであろう。
……その両腕に纏う、毒々しい紫色を除けば、であるが。
「…………」
数瞬の沈黙。後、ざわざわ、と。
地に膝をつき、うなだれる彼女の周囲を取り巻く、ざわつきと視線。
それは、ルアンナと同じ――いや、数瞬前まで同じ境遇であった、天能の発現に臨む生徒であったり。
或いは、そんな生徒を導き、監督する教師であったり。
はたまた、物言わぬ仮契約用のドールであったり。
待ち望んでいたはずの、天能の――ひいては、契約武装の発現。
当人たるルアンナは当然のこととして、学年主席たる彼女に期待していた学園側としても。
心待ちにし、そしてようやく訪れた、才能の開花。
――しかして、本来あるべきはずの祝福や賛辞の声は、そこに無く。
はらはらと、零れ続ける涙。滲む視界の中、ルアンナの両眼に映るは、毒々しい紫色をした禍々しい鉤爪。
手甲鉤、と呼ばれる、この武器は。この時、彼女の頭の片隅にすら知識は無く。
とにかく確実なのは、その種類においても、その色においても、彼女が心躍り、思い描いていたものとは程遠いということだけ。
――だから、信じられなくて。
両腕を上げ、見る。右を、左を。裏を、表を。
何度も何度も。何度も、何度も。
だが、それが彼女が思い描いていた光り輝く剣や、鮮紅に煌く槍になる――はずもなく。
紛れもなく、手甲鉤が、ルアンナ・ブラフィルドの契約武装であり。
――信じられなくて。
鼻を啜り、思わず、ぐっと彼女の両の拳に力が入る。
本人の意図せずして、ルアンナの両腕から放たれた、蜘蛛の糸は。
現実だ、と認識させるように。追い打ちをかけるように。
――ベチャリ。
彼女の美しいブロンドの髪を、顔を。
不快な音を伴い、汚し、纏わりついた。
――――――――
ことり、と扉の外で微かな物音が鳴った。
「ルアンナお嬢様……こちらに、お食事をお持ちいたしました」
続き、彼女の家で働くメイドの声。
「…………」
だが、ルアンナは答えない。
まるで聞こえなかったかのように。身動きをせぬまま、ベッドにいる。
以前であれば、そんなことをすれば、直ちに屋敷の中が慌ただしくなったものだ。
あの元気な、天真爛漫なルアンナお嬢様はどうされたのだと、心配されたものだ。
しかし、今は。
失礼いたします、とそれ以上の言葉はなく、メイドが去っていく。まるでそれが至極当然である、とでも言うように。
だが、やはりルアンナは動かない。
「…………」
彫刻のように。固まったまま、微動だにしない。
ただただぼんやりと、何もせず。強いて言うならば目を開いているだけ。
ふと、その瞳が正面にて動くものを捉える。
時計だ。時刻は勿論、日付も刻む、時計。
捉え、彼女は後悔した。嗚呼、と掠れた声が無意識に漏れる。
あの日が、丁度一年前であった。彼女の人生が狂い始めた、あの日が。
――どうして。
裏切られた気分であった。何に、と言われれば答えに窮するが――己に宿る天能に、とでも言えばいいのだろうか。
だが、その時は。まだ彼女は、ルアンナは。己を保ててはいたのだ。
無論、ショックはあった。だが、待ち望んでいたものが現れたのも事実であり。例えそれが期待外れだったとしても、その事実は多少ながらもまだ、ルアンナの精神を縫い留めてはいたのだ。
今までの輝かしき人生は、周りに与えられたものこそ多いが、ルアンナ自身で切り開いたものでもあるのだ。ここで頑張ろうと思えるのは、間違いなくルアンナの力であり、魅力であった。
――しかしその周囲が、今回は違った。
まず、学園。
彼等は、ルアンナに多大なる期待を寄せていた。
なにせ彼女ときたら、家柄良し、顔良し、成績良し、才能有りの超優良生徒である。
既に名門と呼ばれる学園であったが、頂点ではない。更に上はあった。
在籍する生徒や卒業生は、ある意味学園の顔。つまり学園は、ルアンナに広告塔としての役割を期待していたのである。
だが、注目していた彼女の天能――契約武装を見ると。学園は彼女への態度を変えた。仮に強力なものであったとしても、そんな契約武装は我が学園の顔に相応しくないとして。
次に、生徒たち。
ルアンナは生来、人に嫌われるような人物でなく、むしろ好かれることが多かった。
だが、例え彼女が純粋で、心優しき人物であったとしても。その生まれ持った様々を笠に着て、他人を貶めるような人物でなかったとしても。
――ねえ、聞いた聞いた!? ルアンナ・ブラフィルドの話!
――知ってる、契約武装でしょ? あの、学年主席様の。
持たざる者にとって、ルアンナは眩しすぎた。その存在自体を憎み、妬む者はまず間違いなく存在したのである。
――そうそう、私の友達がその現場を見てたらしくてさ! 気味の悪い紫色で、趣味の悪い鉤爪? みたいなのがいっぱいついてて……。
――しかも、何か糸みたいなのを、顔面にぶちまけたんでしょ? ビュー、と、さ。
――うんうん、気持ち悪いよねー! 私だったら、恥ずかしすぎて死んじゃうかも!
そしてそれを、ルアンナは聞いてしまった。
――ま、いい気味だよね。調子乗りすぎ。
――本当にね。……にしても、まるで蜘蛛みたい。アハハ、毒蜘蛛のお姫様の誕生だねー。
最後に、家族。
とはいえ、ルアンナの両親や、家で働くメイド達は、彼女を糾弾することはなかった。
今まで通り、優しく彼女を受け入れてくれたのである。
……だが、彼女は気づいてしまった。それは、今までの彼女であれば気付けなかったかもしれない、些細なもの。
しかし、人の裏を知った今の彼女は見てしまう。見えてしまった。
ルアンナを労わり、慰める両親やメイドの、その顔に。残念そうな――落胆したような色があることを。
純粋であり――言い換えれば、そういったものに慣れていないルアンナに、それは多大なる衝撃をもたらした。それこそ、天能の発現によりギリギリで踏みとどまっていた精神的余裕を、軽く吹き飛ばしてしまうほどに。
それから、一年。
彼女は誰とも会っていない。会おうとしていない。
ただただ、部屋に籠る日々。明暗を繰り返す外を横目に、何の感慨も抱かずに過ごしていた。
「どう、して……」
誰に問うたでもない。
掠れた声。そういえば、声自体を久々に出した気がした。
涙は、もう出ない。
「どう、し……」
今度は、最後まですら続かなかった。
ケホッ、ケホッ、と咳き込む。このままでは、声すら出せなくなるような気がして。でも、彼女はそれでもいいと思った。
――が。
時の節目とは、誠に数奇なものである。
ルアンナが人生の転機を迎えたのが丁度、一年前。
そして、彼女は再び迎えることとなる。その一年後。つまり今日という日に、再びの転機を。
きっかけは、一つの声であった。
「――やあ、お姉さん。こんにちは」
聞き覚えのない、少年のような声であった。
これが、よく聞くメイドや、両親の声であったら、ルアンナは今まで通り無視しただろうが。
しかし、耳にしたことのないその幼い響きに思わず反応し、扉を見る。
が、見ただけだ。いつもと変わらず無視しようと、視線を戻そうとして。
「ねえ、お姉さんは、面白い力を持っているね」
凍り付いたかのように、静止する。
だが、そんな彼女の様子を気にすることもなく――扉越しなので気付きようもないが――その声は、その言葉を紡いだ。
「その力で、シュラハトをやろうとは思わないの?」
鼻と口を同時に塞がれたかのように、息が止まった。
見開かれる眼。
ただ、それも長くは続かず。ケホッ、ケホッ、と咳き込む。
「……帰って」
暫くして、漸く出た一声が、それだった。
誰だかは知らないが、学園の生徒が嫌がらせのために寄越したのだろう。
すぐさまその様な考えが浮かぶほど、ルアンナはもう、誰かを疑うことに慣れていた。
「答えてくれたら、僕達は行こうかな」
しかし、そんなルアンナの猜疑心とは裏腹に、朗らかな少年の声。
――僕達。
それを聞いて、やっぱり、とルアンナは思った。
やっぱり、声の主たる少年以外にも、誰かがいて。その誰かは、自分の反応を見て楽しんでるに違いない。そう、思ったのだ。
「……帰って」
そんな思惑にはのってやるものか、と。ルアンナは冷静を務めて、先程と同じ言葉を返す。
だが、駄目だ。誰かがこの状況を楽しんでいる。そう、思っただけで。
「答えてくれたら、僕達は行こうかな」
「……かえ、って!」
「答えてくれたら、僕達は行こうかな」
「――帰ってよぉっ!」
涙が、溢れ出す。
人の闇を知った。人の悪意に慣れた――慣れた、つもりだった。
だが、耐性など無かった。部屋に引きこもり、逃げ続けた彼女には。
「ええ、無いわよ――あるわけないでしょう!! なんなの、こんな契約武装でシュラハトをやって……見世物にでもなれっていうの!?」
感情が爆発する。
ああ、これほどあっさりと相手の掌で踊って、学園で嗤われるんだろうな。
そう頭の隅では理解していても、止まらない。止められない。
「馬鹿にされるに決まってるじゃない! 笑われるに決まってるじゃない! それが分かっていて、どうしてっ――どうして、やろうと思うのよっ!?」
もはやそれは、絶叫であった。
自身でもまだ、これだけ声が出せたのか、と思えるほどに大きい。
はぁはぁ、と荒い息。
やってしまった、なんていうのは今更だ。
きっと明日には、学園中で笑い話にされて。一言一句真似されて、それを聞いて誰かが大笑いして。
でも。
これでやっと、役目を果たしたこの少年は、この場からいなく――。
「でも、その力を活かさないのは、僕は凄く惜しいと思うよ」
――いなくならなくて。
力を活かさないのが、惜しい。
一体誰のことを指しているのかと考えようとして、考えるまでもなかったことに気付く。
……惜しい? こんな力が、惜しい?
こんな気味の悪い力が、惜しい? こんな馬鹿にされる力が、惜しい?
こんな――こんな、胸を張って誇れるとは到底言えないこの力が、惜しい?
「……もう」
ベッドから降りる。
視線の向かう先は扉。一直線に、向かう。
「……もうっ!」
大粒の涙を零す顔。手入れなど久しくしていない、乱れた髪。
とても、人前に出れるものではない。
だけど、そんなことは彼女の――ルアンナ・ブラフィルドの頭には、すっかり無く。
「もう、いい加減にしてっ!! 私が――」
扉のノブに躊躇なく手をかけ。
力任せに、一気に開いた。
「――私が、何をしたっていうの!?」
しかし、彼女が想像していたような光景は、そこには無かった。
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる少年の姿も、ニタニタと嘲りの表情をする学園の生徒の姿も、そこには無く。
あったのは。
「ごめんね、お姉さん」
しゅんとした雰囲気を漂わせる白の少年と。
仏頂面を貫いた黒の少年だった。
番外編は、次で終わりです。




