十九話 待つ者達
プルルッ、プルルッ、と携帯電話から発せられる機械音が、室内に響き渡った。
ベッドで横になっていた堅一は、気怠げにうっすらと瞳を開け、もぞもぞと四肢を動かす。
上体を持ち上げれば、身体にかけていたはずの夏用の薄い毛布が、床にまるまっているのが見えた。
暑かったのか、それとも単に寝相が悪かったのか。どちらにせよ無意識の内に落としてしまったようだった。
「……んー」
毛布は一時そのままにし、震動する携帯電話を止めようと、呻き声を上げながら手を伸ばす。しかしそこでふと、頭が覚醒した堅一は自身が目覚ましを設定していないのを思い出した。
夏休みであるのに加え、これといって予定もない。そのため、目覚ましは設定していなかったのである。
ではこれは何か、と考え、ようやくその音が着信時のそれであると気づく。
寝ぼけ眼を瞬き、携帯を手に取って画面を見れば。そこに映し出されているのは「荒山毅」の文字。
電話に出ようと、のろのろとボタンへ指を運ぶ。しかしそれがボタンへと到達する前に、プツッと着信音は途切れてしまった。
「…………」
部屋に、沈黙が戻る。
まるで堅一が出ようとするのを見計らったように切れた着信だが、実際鳴り始めてからそれなりの時間が経過しているのだから、必然といえば必然だろう。
一瞬硬直した後、こちらから毅に電話をかけようと携帯電話を操作する。が、間を置かずして、再び画面に映し出される毅の名前。
当然、今度は取り逃すことなくはずもなく、電話に出た。
「あー、もしもし」
「……お前、まだ寝てたのか? もう昼だぞ?」
そんな堅一を迎えたのは、電話口から聞こえる毅の呆れ声。恐らく、寝起き声だというのが電話越しにも伝わったのだろう。
携帯電話を耳に寄せながら、部屋にある壁掛け時計を見やる。
長針と短針が指し示す時刻は――午後十二時半を少し過ぎたところ。確かに、毅が呆れるのも頷けるというものだ。
「……まぁ、いいだろ。夏休みなんだし」
「お前、夏休み2日目からそんな調子で大丈夫かよ?」
「昨日は普通に起きたって。今日は偶々だ、偶々」
堅一はベッドの上で座り直しながら、偶然であることを強調する。
そしてそれは、決して咄嗟に出た見栄っ張りの嘘ではない。
確かに、夏休み2日目である今日は惰眠を貪ってしまった。しかし夏休み初日である昨日は、これほど遅くまで寝ていない。普段の学園登校日の起床時間よりは遅かったが、長針の数字が二桁になる前には起きていたのだ。
「で、何か用か?」
もっともそんな事を言っても仕方がないので、早々と話題を切り替える。
「ん、ああ。堅一さ、やっぱ数日でもいいから学園に来る気ないか? 一人で鍛錬ってのも、どうも味気なくてな」
用件は、学園での鍛錬の誘い。
堅一は、ふぁ、と短く欠伸をしながら、口を開く。
「……鍛錬ねぇ」
「頼むって。少しでもいいから」
あまり乗り気ではない堅一の口振りだったが、毅は諦めずに食い下がる。
堅一はその声色から、電話の向こうで片手で合掌をする毅の姿を幻視した。
「な、いいだろ? 頼む!」
堅一としては、どうしても学園に行きたくないわけではない。単純に、行く理由がないだけなのである。
まあ、夏休みの間、全く運動しないのでは身体が鈍ってしまう。それに、いくらかの気晴らしにもなるだろう。
しばしの逡巡の後、堅一は了承の意を返した。
「……まぁ、少しでいいなら」
「本当かっ!? さすが堅一、話が分かるぜ! それじゃ、適当に行ける日を決めたら、時間のある時折り返し連絡してくれよ! んじゃ、またなっ!」
それを聞くや否や、怒涛の勢いで毅は捲し立て、そのまま電話を切った。
耳に当てた携帯電話から、ツー、ツー、と虚しい音が発せられる。
「……現金な奴」
堅一はボソリと呟き、携帯電話を耳から離した。
そしてベッドから腰を上げると、何の気なしにテレビをつける。
『――連日曇り空が続いていますが、明後日以降は夏らしい青空が各地で見られるでしょう』
やっていたのは、天気予報。若い女性のお天気キャスターの静かな声が、堅一の耳に入ってくる。
窓の外を見れば、そこに広がっているのは未だ鈍色の雲に覆われた空。時折雲間から陽光が射すが、それも断続的でしかない。
数日後に晴れるのなら、その時に纏めて洗濯でもしよう。
予定ともいえない予定を決め、さて、今日はどうしようかと考える。
夏休み初日である昨日は、一歩も外に出ることなく、寮で過ごした。
普通の高等学校とは違い、特殊な教育機関である弐条学園とて、夏休みの宿題は出る。堅一はそういったものを早々と取りかかるタイプなので、宿題半分、だらだら半分で一日を終えた。
「……ま、とりあえずコンビニでも行くか」
しかし考えてみても、別段予定などないのだから、これといって浮かぶものもなく。
一分ほど悩み、財布を片手に寮を出た。
外に出た瞬間、堅一の頬を撫でるのは、湿りを伴った温風。
曇っていようが夏は夏。そんな当たり前ともいえることを再認した堅一は、寮の階段を下りつつ購入リストにアイスを加えた。
そうしていつもの如く、コンビニへの近道である「南見中央公園」へ進入しようとして。
「公園、か……」
その敷地を踏もうと上げられた堅一の右足が、ピタリと宙で止まる。
心中に去来するのは、市之宮姫華が残した言葉。
忘れていたわけではない。ただ、宣言したように、姫華の元に行くつもりはなかった。
もっとも、本当に待っているかどうか半信半疑ではある。
黒星堅一という人間に、市之宮姫華が何を見出したのかは分からない。が、他ならぬ堅一自身が、己にそうまでして契約する価値があると思っていないのだ。
公園、と姫華は大雑把に言ったが、正確には、ゴーストに襲撃された場所だろう。そこを迂回して、コンビニに向かうことはできた。
できたのだが――自然と、足は向かっていた。姫華と初めて会話を交わした、あの広場へと。
その広場は、公園内にいくつかある遊び場の中でも比較的小さく、すべり台やブランコといった遊具も設置されていない。
堅一は広場内には入らず、隣接する林の中を進み、遠目から様子を窺った。その様はまんま不審者ではあるが、曇り空のためか公園には人が少なく、周囲には懐疑的な視線を向ける人影もない。
そうして、目を凝らすと――。
「いる、な……」
呟きに込められたのは、呆れか、それとも感心か。
自身でもそれを何と形容すればよいかもわからず、ただただ堅一は呟いた。
少人数の子供の集団がサッカーをやっていたり、それを微笑ましげに見ながら年配の夫婦が散歩している、広場。その、隅の方に。
一人ポツンと、何をするわけでもなく、彼女は立っていた。紺色の長い髪に、紫色のヘアバンド。夏休みだというのに、律儀にも弐条学園の制服に身を包んでいる。遠目ゆえ、その表情こそ見ることができないが、あれは市之宮姫華で間違いないだろう。
「…………」
しばしの間、林の中で立ち尽くしていた堅一だったが。
ややあって、姫華から視線を外し、踵を返す。
当たり前だ。自分はただ、ちょっとした好奇心で様子を見に来ただけなのだ。
断じて、声をかけに来たのではない。
――どうせ、すぐ帰るだろ。
内心で、そう呟く。
小さく頭を振ると、堅一は元々決めていた通り、広場を迂回してコンビニへと向かうのだった。
――――――――
シャーペンが、くるくると回り、堅一の指先で弄ばれる。
カチッ、カチッ、と壁掛け時計の秒針の音が、静かな室内に木霊する。
と、堅一の指からシャーペンが弾かれ、床をコロコロと転がった。
のろのろとした動作でそれを拾い、卓上に開かれた数学の問題集を前に、溜め息。
「……はぁ」
どうにも、宿題をする手が思うように進まなかった。
ふと見れば、壁の時計は午後六時を指している。堅一が起床してから、五時間と少し。
コンビニで買い物を済ませてからは、寄り道することなく寮へと戻ってきた。
そして少し遅めの昼食を摂り。休息と宿題を繰り返して、今に至るのだが。
「あー、止め止め」
シャーペンを置き、ベッドに仰向けで寝転がる。
集中できないのだ。
夏であるがゆえ、快適な気温でないというのはある。が、それだけでないのもまた事実。
――もはや、何が意識を乱しているか分からない、などとは言うまい。
いや、そもそも分かってはいたのだ。単に堅一が、己の内心に気づかない振りをしていただけで。
自分は――黒星堅一は、間違いなく市之宮姫華のことを意識している。
同学年の一女子生徒ではなく――れっきとした、一人のジェネラルとして。
両手を組み、枕と頭の間に差し込む。全身の力を抜き、無意味に天井を見上げる。
堅一の耳に入ってくるのは、壁掛け時計が時を刻む無機質な音だけ。
それを、どのくらい聞いていただろうか。
ぼーっとしていた堅一の耳が、秒針とは違う別の音を捉えた。
室内ではない。部屋の外から微かに、サァッという音が聞こえてきたのだ。
「……雨?」
身体を起こし、薄暗くなりつつある窓の外を確認してみる。
道端には小さな水溜りが散見でき、そこに連続して波紋が広がっているのが見てとれる。豪雨までとはいかないが、そこそこに強い夕立のようだった。
予報では言っていなかったような、と思いつつも、ボスンと再度ベッドに倒れ込む。
どちらにしろ、外がどうなっていようが出かける用事もない堅一には関係ないのだ。
そう考え――ふと、脳裏をよぎるものがあった。
昼間公園にいた彼女は、どうしているだろうか。
しかし堅一はすぐに、苦笑いと共に己で答えを出す。
「……いや、もういないだろ、さすがに」
そう、いるわけがない。疑問に浮かぶのも阿呆らしいと思えるほどに、それは意味のない自問自答だ。
とうに帰宅しているか、あるいは用事で出かけているか。ともかく、いるはずなどないのだが――。
「…………」
堅一は声もなくベッドから立ち上がると、そのまま玄関へ向かった。
コンビニの安いビニール傘を取り出し、靴を履いて外に出る。
そうして、ボタボタと天から降る雨が広げた傘を叩く中。堅一が足を踏み入れたのは公園だった。
いうなればそれは、ただの確認作業。
彼女がいないのは分かっている。しかしそれは所詮堅一の推測でしかなく、現場を見てはいない。
例えるなら、如何に答えに自信がある問いでも、無性に正解を確認したくなるようなものだ。
つまり、ここでいないのを確認してしまえば、気分はいくらか晴れるのではないか。そう、堅一は思ったのだ。
――いるわけがない。いつからあの場にいたかは知る由もないが、堅一が見かけた時刻から数えても、五時間は経過しているのだから。
寮から出た時に比べ、僅かに弱まる雨脚。しかしそれに反するように、堅一の足は自然と速くなる。
そうして、ようやくあの広場に辿り着いた堅一は――。
――中の様子を窺って愕然とした表情を浮かべた。
広場内を照らす、街灯。そこから少し離れた、広場へとせり出すように伸ばされた大樹の枝の下。
そこに、雨の降る空を見上げて佇む市之宮姫華の姿があったのだ。
「……なに……やってんだよ」
喉の奥から絞り出されたような声が、堅一の口から出た。
小さな声が届く距離ではなく、また姫華は空を仰いでいるため、広場入口にまで近づいた堅一に気づく様子はない。
呆然と立ち尽くしていた堅一だが、思い出したように、慌てて近くの木陰に移動する。
雨だから当然ともいえるが、広場内には姫華しかいない。通行人の姿もないため、姫華が堅一の方に顔を向ければ、即座にばれてしまうのだ。
「……どうすりゃいいんだ」
傘を閉じ、木に背をもたげて呟く。
口に出したものの、何が一番いいかなどは決まっている。
――このまま帰るのだ。見なかったふりをして。
しかし、と堅一は広場内の姫華の様子を窺う。相も変わらず、空を見上げている姫華。
雨が止めば帰るのか、それともまだ待っているつもりなのか。
前者だったら、まだいい。だが、後者であれば。
「まさか本当に、夏休みの間こんなことするんじゃないだろうな?」
夏休みが終われば諦める。
姫華は、堅一にそう言った。
何を馬鹿な、と堅一は思った。口だけで、一度たりとも待ちはしないのでは、とすら思いもした。
だが、実際彼女は、ああして堅一を待っている。行かないと宣言されたにも関わらず。
――不意に、その姿がかつての自分と重なった。
いなくなったかつてのジェネラル――アイツを待つ、自分と。
「…………」
しばらくの間、木立に隠れて様子を窺っていた堅一だが。
ようやく足を動かした先は、寮ではなく、姫華の方だった。
もっとも、堂々と姿を現してではない。姫華が雨宿りをする木と堅一のいる木は、林として繋がっているため、身を隠しながらの移動。
大きな音をたてないよう、慎重に歩を進ませる。
幸いにも、降りしきる雨は堅一に味方していた。
堅一がたてる僅かな物音は雨によって掻き消され、姫華の背後、数本離れた木まで接近することができたのだ。
堅一は息を潜め、様子を窺う。
微塵も気づいた様子はなく、堅一に背を向けている姫華。ほとんど微動だにせず、ただただ眼前にのみ視線を向けている。
時折雫が落ちてくるものの、幾重にも広げられた木葉は、堅一の立つ場所に雨粒を降らすことはない。
堅一は傘を木に立てかけると、慎重にポケットから携帯電話を取り出し、顔だけを姫華へと向けた。
堅一がこの場に留まってから、およそ十分が経過した。
雨は依然降っており、姫華に動きはない。
それから十五分後、少し雨が弱まってきた。
濡れはするが、走り抜ければ問題無いと思える程度の小降り。しかしやはり、姫華は動かない。
再び十五分が経ち、水音が止んだ。姫華は空を見上げ、雨が降っていないのを確認すると、歩いて木の下から出た。
そのまま帰るのか、と堅一は期待したが。しかし姫華は広場内に留まり、広場の入口へと視線を走らせている。
それから更に二十分。止んでいた雨がポツポツと降り出してきた。
姫華が、再び元いた木陰へと戻ってくる。間一髪、堅一が顔を引っ込めたことで、ばれることはなかった。
――帰らない、か。
一連の流れを見ていた堅一は、木に背をもたげながら諦めたように小さく溜め息を吐く。
市之宮姫華が、本当に黒星堅一が来ると信じているのなら。
無駄だ、と怒鳴ってやりたかった。
しかしそれで彼女が諦めるかとなると微妙である。現に、何度も堅一は拒否しているのだから。
堅一は携帯電話をポケットにしまうと、徐にビニール傘を手に取った。
少しだけ姫華に近づき、ビニール傘を彼女から見えるように木に立てかける。焦らず慎重に、極力音を出さないようにしながらだ。
そして姫華から遠ざかると、手ごろな石を右手に拾い。ビニール傘を立てかけた木の近くへと放り投げた。
放物線を描いた石は木の幹に当たり、カァン、と渇いた音が木立に反響する。
音に反応して、振り返る姫華。その視線が、ビニール傘に吸い寄せられるのが遠目から確認できた。
それを見届けると、堅一は木立を抜け、雨の中を走り去る。
冷たい雨が、服の上から全身を濡らしていった。




