十七話 一方的な約束
夏にしては冷たい風が、吹き抜けていった。
闘技場を出た堅一は、空気を大きく吸い込み、そして長く吐き出した。
しかしすぐさま、黙々と歩き出す。その歩調は心なしか速い。
「あー、やっちまった……」
歩みを止めることなく、頭をガシガシと掻きながら、一言。
訓練において轟朱門への怒りを露わにし、闘技場を後にした堅一だったが。しかし彼は今――激しい自己嫌悪に陥っていた。
怒りがあったのは、確かだ。しかしあそこまでやる必要がなかったのもまた、事実。
おかげで、入学して初めて、おおっぴらに天能を行使してしまった。……もっとも今日までは、大勢の視線に晒されるという機会すらなかったわけだが。
――天能封じの呪い。
黒星堅一が、轟朱門に行使した呪いである。文字通り天能を封じる呪いだが、その効果はあくまで一時的なもの。すでに轟の天能は元通り使えるようになっていることだろう。
そしてもう一つ、ドール撃破のために行使した、自身への身体強化の呪い。
以上二つが、今の黒星堅一でも行使可能な、呪いの全てである。
だが、当初堅一は天能を行使するつもりはなかった。
それでは何故あんな事態になったのか。
これは堅一が負の感情を禁じている理由の一つでもあるわけだが、単純に堅一の性格の問題である。
確かに、堅一は短気ではないし、大抵のことは流して事を荒立てもしない。
だが、それは決して気にしていないのではなく。堅一とて感情を持った一人の人間であるから、一定のラインを越えてしまえば、その限りではないのである。
要するに普段は大人しい人間だが、許容できない出来事を前にすると、気分が高揚して攻撃的になりやすいのだ。
感情が昂れば、冷静さを失いやすくなる。そして冷静さを失えば、制御もできず。
時間が経って我に返った時、必ずと言っていいほどこうして反省する結果となるのが、黒星堅一という人間だった。
そうして、闘技場から数十歩といった地点で。
「……黒星さんっ!」
人知れず頭を抱える堅一を、背後から呼び止める声があった。
つい振り返ってしまった堅一の目に映るのは、闘技場から飛び出してきた姫華の姿。
彼女は小走りに、足を止めた堅一の眼前まで近づいてくる。
「……何?」
咄嗟に堅一は、ぶっきらぼうに口を開いていた。またか、と隠そうともせず、胡乱な目を姫華に向ける。
それを気にしながらも、姫華は言った。
「すみません。少し、黒星さんにお聞きしたいことが」
「聞きたいこと?」
怪訝な顔で、堅一が聞き返せば。姫華は呼吸を僅かに乱したまま、意を決したように口を開いた。
「黒星さんが、前に契約されていたというジェネラルの方の事なのですが――」
いっそ清々しいほどの直球であった。
堅一の目が、微かに見開かれる。しかしそれも一瞬のことで、堅一はすぐに目を細めると、動揺を押し殺して静かに問いかけた。
「その話は誰から?」
「えっと……天坂先輩からです」
少し躊躇うような姫華の返答に、やはりか、と堅一は顔を顰めた。
それを知っているのは、目下、天坂舞ぐらいのものである。しかも、舞と姫華は闘技場で隣同士に座っていたのだ。
「それで……あの人から何を聞いた?」
「黒星さんに昔、パートナーがいたことぐらいです。それ以上は黒星さん本人に、と」
姫華の言葉に、堅一は内心で溜め息を吐く。
何とまあ余計なことをしてくれたものだ、と思いつつ、堅一は視線を鋭くさせて姫華を睨むように見据えた。
自然と、声が低くなる。
「で、それを聞いてどうするつもりだ? ……というかそもそも、何でまだ俺に関わってくるんだ?」
舞の件はさておき、堅一としてはそれが不思議であった。
追い返した、というわけではないが、堅一としては再三拒絶の意を示しているのである。
面と向かって断ったのも然り、退学予定であるのを告げたのも然り。あれだけ言われれば、どんなに鈍感な人間だって分かるというものだ。
呪い、という未知の天能に対しての、単なる興味本位か。はたまた、あまり想像できないが、碌でもないことを企んでいるとか。
いずれにせよ、まともなことじゃないだろう。
そう考えていた堅一だが。しかし返ってきたのは意外な言葉だった。
「黒星さんが、心配だからです」
「心配? ……俺が?」
堅一の顔から視線を逸らすことなく、告げる姫華。
虚を突かれて目を瞬いた堅一は、確認するように自身を指さした。
そうです、と姫華が頷き、真剣な眼差しで問い返す。
「おかしいですか?」
「いや、おかしいというか……」
複雑な面持ちとなり、堅一は言葉を淀ませた。
知り合って間もない姫華に心配されるというのもそうだが、そんなことを面と向かって言われたのは久しぶりであったからだ。
「……まあ、パートナーは、あれだ。……俺と同じ年の男のジェネラルで、アンタと同じ回復の天能を持ってる。知っての通り、今は契約してない」
パートナーのことを聞かれて鋭くなっていた堅一の眦は、すでに和らいでいる。というよりかは、身構えて警戒していたことに馬鹿馬鹿しさを覚えただけなのだが。
答えるつもりも、そして必要もなかった問い。しかし姫華の言葉に毒気を抜かれた堅一は、ボソボソと口にしていた。
「では、その方が黒星さんのベストパートナーなんですか?」
「そう思ってる」
「私と契約を結んでいただけないのは、その方がいらっしゃるから?」
「……まあ、そうだな」
相も変わらずはっきりとした物言いの姫華に、一拍遅れる形で堅一は返答していく。
そうして、その質問は来た。
「――その方は今、どちらに? この学園の生徒ではないですよね?」
瞬間、無意識の内に、堅一は空を仰いでいた。
灰色が太陽を覆い隠す、曇天の空。見ているだけで、余計に気分が滅入ってしまいそうな天気だ。
視線を姫華に戻し、肩を竦めて言う。
「さあ。生死不明だよ。……全く、アイツは何処でなにやってんだか」
はっ、と小さく姫華が息を呑んだのが分かった。
数瞬の間をおき、すみません、とか細い声が堅一の耳に届く。
「ああいや、別に気にしてないから」
堅一は手をヒラヒラさせつつ、苦笑した。
「まあ、そういうわけだ。俺なんて存在はいなかったことにして――」
「――私では、その方の代わりにはなれませんか?」
遮られる、堅一の言葉。
一瞬呆気にとられるものの、すぐに大きく嘆息する。
「……ああ、なれない」
「黒星さんが、その方と再び契約するまででいいんです。それも、駄目ですか?」
「無理だな」
姫華の提案を、にべもなく一蹴する。
「そうですか……」
声色は暗く、姫華が顔を俯かせる。風に靡く、絹のように滑らかな紺色の長髪。
ようやく姫華の視線から解放された堅一は、ポリポリと頬を掻いた。
お互いに口を開かず、沈黙が広がる。
と、暫くして姫華が顔を上げた。
「そういえば、明日が終われば夏休みですね」
それは、暗い雰囲気を断ち切るような、一転した明るい声。
なによりその内容は、今までの話題とあまりにかけ離れたもので。
「あ、ああ……そうだな?」
戸惑いながらも、堅一は首を縦に振る。
すると姫華が、囁くように言った。
「もしも――もしも、で構いません」
「ん?」
「夏休みの間に黒星さんの気が変わったら、あの公園に来てください」
待っていますから、と続けた姫華に対し、堅一はあからさまに眉根を寄せた。
「……言っておくが、期待するだけ無駄だぞ? というか、待つだけ時間の無駄だ」
堅一の突き放すような言葉に、しかし姫華は微笑みを湛える。
「夏休みが終われば、私も諦めます」
「……案外、強情なんだな」
「はい、よく言われます」
口元に手を当て、上品な仕草でクスリと姫華が笑った。
その所作に少々目を奪われつつも、堅一は口を開く。
「……話は、それだけか?」
「はい。ありがとうございました」
体の前で手を合わせ、姫華は優雅に一礼をする。
「そっか。……それじゃ」
軽く手を上げ、堅一は姫華に背を向ける。
恐らくこれが、市之宮姫華との最後の会話になるだろう。
胸中でそんなことを考えながら、堅一は鈍色の空の下を歩き去って行った。




