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非現実的な妄想

ついさっき、約1時間前に、キリスト教のお誘いを受けたので、それについての考えをこに。

神様というものは、一体何なのだろうか。


私自身は考えたこともないし、信じるつもりもない為、どうでもいいというのが本心であるわけで。

――が、少し考える機会があったので、それをここに記しておこうと思う。



そもそも、何を持って神と呼ばれるのか。

神は一体何をするべき存在なのか。

人間は何故神を讃えるのか。

神とはそんなにも偉大なる方なのか。


何故。何故。何故。


この通り、話し出したらキリのない疑問が、神というものにはある。

我々は神を知らないのだ。では、何故讃える?

何処に讃える必要がある?

知りもしないくせに、信じもしないくせに、神社のお参りで合格祈願するのか?

それはあまりにも、馬鹿馬鹿しく、ご都合主義にも程がある。


ところで。

神が人間に心を与えた、という話を耳にしたことはあるだろうか。

これはよく聞く話だろう。

愛や、苦しみ、喜び全て、神が与えてくれたと。


しかし、それを誰か証明したのか?

誰か根拠がある者はいるのか?

見たことがあるのか?

あるわけが、ない。

証明することも、根拠を挙げることも、見たことも、ないのだ。


確かに、それだけで居ないと断言するのはおかしいだろう。

居ないことを証明することはできないのだから。

居ることの証明することはできたとしても、居ないことの証明はできないのだから。

信じてしまうのも、無理はない。

しかし、だからといって信じるか?

理論的に説明のできない存在を、私たちは信じるべきなのか?

見たことのない存在を、信じるべきなのか?


見たことのない非現実的な存在を信じることのが、讃えることのが、祈願することが、馬鹿馬鹿しいと感じるのは、僕だけなのだろうか。

少し私らしくない話でしたかね。

書かなきゃよかったといまさらの後悔でございます。

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