“生”の意義
Twitterで、“死ぬべき人はいて、死んでいい人はいない”というツイートをたまたま見たもので。ちょいと私な意見をここで。
何故、私達は生きているのか。そう疑問に思ったことはないだろうか。
いつかは死なねばならない運命を背負ってまで、何故生きねばならないのかと。生きる意味があるのか、と。
言ってしまえば、ここに私はいなくてもいい。私一人いなくても、世の中の刻は止まらず、地球は回り、人は生き続けるのだから。何事もなかったかのように、時は刻まれていくものなのだから。
だからといって、決して不要ではないのだろう。きっと、誰かに必要とされているのだろう。それは、全ての人間がそうだ。誰かに支えられ、誰かを支えているのが私達なのだから。きっと、こんなありきたりな言葉は事実なのだろう。
しかし。
それが私の生きる意味となると、また別の話だ。違う、違う。その程度では、生きる意味にはならない。
前述の通り、私達は人を支え、人に支えられて生きている。その事実は変わりようのないもので。それは人間のルールで。だとしたら、私一人いなくなったとしても、また他の誰かが代わりをしてくれるのだ。ならば、いる意味など、ない。
じゃあ何故私達は生きているのか。
何故死にたくないと嘆くのか。死ぬなら、早くても遅くても同じなのに。結局死んでしまうのに。与えられた人生を、何故生きねばならないのか。
だからここで一つ、私の考えをどうか。
わかるはずのない生きる意味を、無理矢理作った私の考えをどうか。
結局のところ、全ての人間の人生で共通していることこそが、生きる意味なのだろうと私は思うわけで。
結局、死ぬことこそが、生きる意味なのだろうと、私は思うわけで。
それが自殺であろうと。
それが突然の事故であろうと。
それが病死であろうと。
死だなんて、早くても遅くても同じ。
私一人いなくても、何も変わらない。
必要だけれど、不必要なのだ。
少し極論過ぎたか。
つまり私が言いたいことは。
死んでもいい私は、死ぬべきではないのだろう。
だからといって、人の死は寂しいですが。
でもきっと、死は大切で、死は愛すべきなのでしょうから、いちいた悲しんでちゃ心が持ちませんよね。