部屋と彼
どの道をどんな風に歩いて、自分のアパートまで戻ってきたのか、全く分からない。
いや、あの洋館へは、いつも同じ道しか通らないのだから、いつものように帰って来たに違いないのだか。
まだ鈴の音に包まれたような感覚のまま、彼は自分の部屋の鍵を開けようとしていた。
殺風景な部屋に入り、壁にもたれて座る。
美しい少女の声が、言葉が、少年の頭を支配していた。
「岩木、とま…」
もう20年近く共にある自分の名前が、少女に問われることで大切な意味を持ったような感覚がした。
この感覚は、とまが、彼と出会った時と似ていた。
彼とは、自分でも信じられないことに、数年来の友人だった。とまの瞳を嫌悪しない、唯一の心を許せる他人であった。
その友人は、決まってとまが彼のことを考えた時に計ったようにやって来た。
今日も例に漏れず、場違いに明るいインターホンの音が響いた。
「開いてる」
とまが少し声を張ると、少しして玄関のドアが勢いよく開いた。
「よっ!トマコちゃん、無用心だぞ?」
狭い玄関で靴を脱ぎながら、がたいの良い青年は白いビニール袋を無造作にとまに向かって放った。
「夜は鍵を掛けてる」
とまはそう答えて、いつものように取り落としたビニール袋を苛立たしげに拾い上げた。
「あと、トマコって呼ぶな」
いつものやり取りを済ませた後、とまと青年は2人してアイスをかじっていた。
青年は、短く切った茶髪を若者らしくはねさせている。身長も肩幅もかなりあるので、ともすれば威圧的な印象を与えかねないが、生き生きとした真夏の太陽のような瞳が、彼から圧力というものを消し去っていた。
青年、川瀬広高は、とまよりおそらく2、3歳年上の放浪者だった。大学に受かったという話を聞いた気がするが、通っているのかは全く謎である。広高は、大体絶妙のタイミングでやって来ては、ひとり旅だとか山籠りだとか、色々な話をして帰っていくのだ。
「で、トマコちゃんはその美少女に惚れちまったって訳か」
いたずらっ子のような表情をして、広高は言った。
「トマコって呼ぶな。僕が女顔を気にしてるの、知ってるくせに」
「いいじゃないか、可愛いのは正義だろ」
「ヒロタカ、君って本当に…。
え?質問に答えろって?
惚れたとか何だとか、そんなんじゃないよ」
ただ、名前もちゃんと訊けなかったな、と思って。そんな言葉を、とまは飲み込んだ。それだけのことなのに、やけに気恥ずかしく感じた。
「ま、また会えるんでないの?俺はそう思うよ」
広高がそう言うと、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。彼の言葉には生命力が溢れている。
「…うん」
こくんと、どこか幼げな仕草と表情で、とまは白いワンピースの少女との再会を望んだのだった。