元悪役令息の僕
ちやほやされていないと、生きた心地がしなかった。
今にして思えば、それはずいぶんと傲慢な価値観でもあった。
でも、それが前世の僕だった。
男しか存在しないその世界で、僕は大貴族の一人息子として生まれていた。
家柄は申し分なく、この顔立ちは誰もが振り返るほど整っていて、僕が少し微笑めむだけで周囲は勝手に色めき立つ。
欲しいものは、いつだって言葉にする前には差し出されていた。
愛する伴侶もいたし、愛人だって一人や二人じゃなかったんだ。
誰かに必要とされていない瞬間なんて、もはや思い出せないくらいに。
だからナイフで刺されたその時も、正直なところ、現実味がなかった。
愛し合っていた男たちの、その地位を揺るがすほどの大きな争いに僕は巻き込まれていたんだ。
そして僕も、数多の悪事に手を染めていた。
だからこそ、当然の結末だと思っていた。
腹部に走った鋭い痛みと、床に広がる赤を、どこか他人事みたいに眺めていた。
――ああ、これが奪い合う愛の末路か。
なんて。
最後まで、そのようなことを考えていた。
そして、次に目を覚ませば、このザマだ。
鏡に映った男の姿を目にした瞬間、僕は心の底から絶望した。
「なんだよ、これ……」
ぱっとしない顔立ちに、地味な黒髪。
寝不足と不摂生がひどく刻み込まれた荒れた肌。
視界はひどくぼやけていて、鼻には無骨な眼鏡が乗っていた。
不潔極まりない、冴えない男。
それが、今世の僕。リオだった。
両親は、幼い頃に離婚していた。どうやら不仲が理由らしい。
母は早々に姿を消し、父は厳格というより無関心な人で、必要最低限の会話しかしてこなかった。
中学を卒業する頃には寮付きの高校に放り込まれて、それきり消息もわからない。
ただ、金だけは振り込まれ続けていた。
決して、生活に困ることはなかった。でも、誕生日を祝ってくれる人も、体調を崩しても心配してくれる人はいなかった。
その孤独を誤魔化すように、僕は無駄に夜更かしをして、コンビニ飯で腹を満たして、気づけばこんな見た目になっていたんだ。
前世の記憶が蘇ったのは、ほんの些細なきっかけだった。
夢だったのか、何かの拍子だったのかは覚えていない。
でも、気づいたときには理解してしまっていた。
――僕は、愛されないと駄目な人間なんだ。
この思いは、時が経っても薄れることはなかったんだ。
***
大学の入学式まで、あと一週間。
僕は、ようやく重い腰を上げていた。
美容院で髪を切り、服を新調し、眼鏡のフレームだって流行のものに変えていた。
肌の手入れだって、今さらながら始めていた。
いわゆる、大学デビューというやつをしようと思っていたんだ。
高校時代は存在感ゼロだったこの僕が、すべてをやり直すための賭けでもあった。
でもその結果は、惨敗だった。
いつだって男の視線を集めるのは、華やかな女子たちばかりなのだから。
この世界には、女という存在がいたんだ。
前世にはいなかった、絶対的な競争相手。
男たちは皆、阿呆みたいに女子の周りに群がって、僕のことなんて視界にも入れやしない。
正直言って、腹が立つ。
理不尽だとも思っていた。
だって前世では、いつだって、僕が世界の中心だったのに。
落ち込んでいたその時、僕は救いを思い出す。
スマホを開いて、ため息をつきながら、とあるアプリを起動した。
ゲイ向けのマッチングアプリだ。
高校時代、数少ない友人から聞いていた世界だ。
使えるものは、何でも使う。それが前世で学んだ、僕の生存戦略だった。
プロフィールを整えて、写真を選んで、手当たり次第にメッセージを送る。
前までの今世の僕は、声も小さくて卑屈で、どこか陰湿な雰囲気だった。
でも、今は違う。
前世の自信を取り戻すように、堂々と振る舞っていたのだから。
何人かとマッチして、連絡先も交換した。
でも、誰とも会うところまで至らない。
「どうして……」
前世では、政略結婚も運命的な出会いも、当たり前のように転がっていたというのに。
すぐにその身を重ねて、やがて気が合えば恋人になる。
とても、簡単なものであったはずなのに。
なぜだか、この心が動かなかったんだ。
そのような日々をおくる中で、僕は新しい友人を得ていた。
名前は、ユウト。
入学手続きの日、山のような書類を前に立ち尽くしていた僕に、彼は優しく声をかけてくれていたんだ。
以前の僕と同じようにもさっとしていて、でも、その態度には不思議と嫌味がなかった。
出席番号が前後だったということもあって、気づけばよく話すようにもなっていた。
重なる授業も多くて、次第に隣の席にいるのが当たり前になっていく。
ユウトは僕より背が高くて、がっしりとした体つきをしていた。
運動部出身なのかと思ったら、どうやらこれまでスポーツなどは何もしてこなかったらしい。
生まれつきだそうだ。
ユウトは写真が好きで、写真サークルに入っていた。
僕はサークルには入らず、アルバイトに精を出していた。
少しでも、出会いの機会が欲しいという下心を持って。
それでも、どれだけ人と会っても、この心は満たされることがなかったんだ。
「あーあ、恋がしたい……」
そう呟いた声が、やけに虚しく響いていた。
前世の僕は、今の時代の言葉で言うならちょろいほどの恋愛体質だった。
少し優しくされただけで、珍しいものを見せられただけで、すぐに恋に落ちていた。
今世では、絶対に、そのようなことはないはずだった。
***
ある日、僕はスマホを新しくしていた。
けれど、保護フィルムを貼るのに盛大に失敗していた。
気泡だらけの画面を見て、大きなため息をついたその瞬間、ユウトがそれを取り上げていた。
「リオ、貸して」
そして、驚くほど手際よく、新しいフィルムに貼り替えてくれたんだ。
「すごい!」
「そうかな?家族の分も、いつもやらされるからさ……」
「いや、まじですごいよ!ユウト。ありがとう」
「……それほどでも」
照れたように笑うその顔を見たときに、胸の奥がじんわりと熱を持っていくことに気付いてしまう。
――ああ、ダメだ。
そう思ったときには、もう遅かった。
前世にはなかった種類の感情が、静かに、確かに、芽のようなものを出していたんだ。
そしてそこから、僕のユウトへの片思いの日々がはじまった。
ユウトのことを意識しはじめてから、この距離が、どうにも嬉しくて仕方がなかった。
前世の僕なら、このようにもどかしく曖昧な関係はさっさと白黒つけていたと思うんだ。
手を取って、唇に触れて、それで相手の反応を見ればいいだけのこと。
拒まれれば次に行けばいいし、受け入れられればそれで終わりのはずでもあった。
でも、今世の僕は、そうすることができなかった。
ユウトと僕は、ただの友達でしかなかったのだから。
そして、僕とユウトは互いだけが唯一の友達でもあったんだ。
大学にいる間、気づけばほとんどの時間をユウトと一緒に過ごしていた。
同じ授業がなくても、昼休みになれば自然と学食で合流する。
ユウトがサークルで忙しくない日は、帰り道まで一緒だった。
僕の住んでいるマンションと、ユウトが暮らす実家は意外と近くて。
休日も、「暇?」の一言だけで簡単に予定が決まっていたんだ。
映画を観たり、適当に街をぶらついたり、ユウトが撮った写真をカフェで見せてもらったり。
特別なことは、何もしていないはずでもあったんだ。
それなのに、どうしてこの心が満たされるのか。僕は、よくわからずにいた。
「リオってさ」
ある日、学食でユウトがこう言った。
「最初は、近寄りがたいと思ってた」
「えっ、なんで?」
「なんか、こう……自信家みたいなかんじだったからさ……」
思わず、噴き出しそうになってしまう。
「自信家?この僕が……?ないない、」
「そう?」
「なーんにも考えていないよ、僕。びっくりするくらいに」
冗談めかして、言ったつもりでもあったんだ。
それでもユウトは、箸を止めて、真面目な顔で僕を見ていたんだ。
「……俺は、そうは思わないけどな」
たったそれだけの一言なのに、なぜだか胸の奥がざわついた。
前世では、甘い言葉なんていくらでも浴びてきたはずなのに。
どうして、こんなにも重く感じてしまうのだろうか。
ユウトは、無意識に優しかった。
それが僕にとっては、一番厄介なことでもあった。
疲れている時は黙って缶コーヒーを差し出してくるし、人混みで、さりげなく僕の歩幅に合わせてくれる。
誕生日をしっかり覚えてくれていて、たいしたことのない小さなプレゼントをくれたときなんて、危うく泣きそうになっていた。
――ちやほやされるような、愛じゃない。でも、それがいい。
前世の愛は、もっと派手でわかりやすくて、でも、誰のものでもあったんだ。
ユウトの気遣いは、静かで、曖昧で。
それでも、僕ひとりだけに向けられているような気がしてしまう。
それが余計に、怖かった。
マッチングアプリは、相変わらず続けていた。
何人かと出会って、食事をして、すぐに解散することが多かったけれど。
それでも、帰り道は決まって虚しく思えた。
隣にいる相手がユウトじゃないことに、いちいち落胆している僕がいたんだ。
「あーあ、何をしているんだろう……」
部屋に一人で帰って、天井を見上げながら、そのようなことを思う。
前世の僕なら、このような感情は無駄であると切り捨てていたことだろう。
なのに今は、ユウトの一挙一動に一喜一憂している僕がいた。
***
ある日、学内で、ユウトが女の子と話しているのを僕は見かけていた。
写真サークルの仲間らしく、楽しそうに笑っていた。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
――ああ、そうだ。
この世界には、女がいる。
そしてユウトは、たぶんノンケだ。
頭ではわかっているはずなのに、それを突きつけられた瞬間に足元がぐらついた。
前世のように、奪えばいいのか。先に手を出して、縛ってしまえばいいのか。
そのような考えが、一瞬、脳裏をよぎっては消える。
でも、それと同時に僕は思い出してしまったんだ。
血の匂いと、冷たい床と、愛し合っていたはずの男たちの、歪んだ目。
――あのような結末になるのは、もう嫌だ。
だから僕は、何もしなかった。
笑顔のまま、ユウトの隣に立ち続けることを選んでいた。
ただの、友達として。




