第5話「影に触れる手」
朝霧透は、いつも通り小さな部屋に座り、カメラを見つめていた。モニターの中のユイは、昨日よりも少し元気な仕草を見せたように思えた。けれど、その笑顔の裏に潜む揺らぎに、透は気づかずにはいられなかった。
「……うん、笑ってる……と思うけど……いや、どうかな」
透は言い直す。心の奥の感覚と口に出す言葉の間には、いつも小さなずれがあった。善意なのか、ただの安心欲求なのか。どちらとも言えない曖昧さが胸を押した。
ユイは小さな手で、テーブルの端に置かれたマグカップを軽く触れる。水がわずかに揺れ、縁に小さな波紋を作る。そのささやかな動きが、透には深く心に刺さった。手を伸ばせば届きそうで、届かない。触れようとした瞬間、存在の不確かさが手をすり抜ける感覚。
透は別の行動も考えた――椅子の位置を変える、カメラを少し傾ける、窓を少し開けて空気を入れ替える――しかし、どれも選ばれなかった。選ばれなかった行動が頭の中で小さなざわめきとなり、胸の奥でじんわりと痛みを広げる。
「……透くん……」
ユイの呼びかけは、かすかに震えていて、途中で止まる。透は息を飲み、返す言葉を探すが、心の中で何かが引っかかり、結局口からは出なかった。
生活ノイズがじわじわと意識に入り込む――冷蔵庫の低いうなり、壁に触れる風、机の木のきしむ音。透の胸の奥で、少しずつ何かが崩れ始め、トラウマに近い感覚が薄く疼く。
「……願わないで……見てるだけ……かな……いや……違うかも」
言葉は繰り返されるたびに曖昧になり、透自身もその意味を完全には把握できない。
ユイは、マグカップの波紋に手をかざす。光が水面に反射して揺れる。透はその揺れを追いかけるが、指先は届かず、ただ見つめるしかなかった。胸の奥の痛みは、少しずつ現実感を持ち始め、日常と非日常の境界をぼやけさせる。




