9 襲撃
その時、インターホンが鳴った。
「はーい」
お母さんが出ていったが、すぐに戻ってきた。困ったような顔をしている。
「若菜ちゃんが来ているわよ。何だか様子がおかしいのよ。あがったらって言ったんだけど……」
玄関先に若菜ちゃんが立っていた。怒っているみたいに顔を赤くし、口を真一文字に結んでいる。
「若菜ちゃん?」
「海人、あのね、さようならを言いにきたの」
「えっ」
「突然、おばあちゃん家に引っ越すことになったの。でもここから近いのよ。だいたい電車で2時間くらい」
若菜ちゃんがうつむいた。
「それでも転校しないとダメらしいんだ」
「そんな……」
「だからお別れ」
若菜ちゃんが顔を上げた。笑っているのに、全然眼が笑っていない。
「もうっ、心配しないで。わたしってほら、可愛いし、明るいから、新しい学校に行っても、すぐ友達できると思うの」
若菜ちゃんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。びっくりして見ていると、若菜ちゃんが顔を背けた。
「もうっ、海人ったら泣かないでよ。また会おうね、とか会いに行くよとか気の利いたこと言えないわけ?」
泣いているのは、若菜ちゃんじゃないか。
そう言いたいのに胸がつまって、言葉が出てこない。
「それじゃあね、海人。バイバイ」
若菜ちゃんがくるりと背を向けた。青いスカートがひるがえる。その瞬間、若菜ちゃんを包む赤い光に黒い矢が突き刺さっているのが見えた。
血塗られた石のせいだ!
すぐにそう思った。
「若菜ちゃん」
呼び止めると、若菜ちゃんがふり返った。
「あのね、あの……い……」
言わない。見ない、聞かない。そう決めたはずじゃないか。
そういう声が心のどこからか響いた。
普通に暮らす。お父さんとお母さんといつまでも暮らしていくためにも、黙っていなきゃダメなんだ!!
「どうしたの海人?」
若菜ちゃんが怪訝そうな顔をしている。
「ううん、何でもな……」
い、と言おうとして、心臓が止まりかけた。若菜ちゃんの目の下がみるみるまっ黒になっていく。筆で墨をたらしたように。普通じゃない。このままじゃ若菜ちゃんは……。
「あの石すてて」
一気に言った。
「えっ、いす?」
「いすじゃない。若菜ちゃんが河原で拾った石。お願いだから捨てて」
「何よ急に。あれはお守りだって言ったでしょう」
「お守りなんかじゃない。あれには血がついているんだ。すごく、すごくいやなものを感じる。若菜ちゃんにだって分かるでしょう」
最後の言葉に若菜ちゃんがキッと睨んだ。
「分からないわよ」
「だって霊感があるって、いつか言ってたじゃない」
「どうしてよ……」
若菜ちゃんが目を血走らせた。
「どうして海人なの」
「若菜ちゃん?」
「わたしの方が強くて、優しくて、人のためを思っているはずなのに。どうして、霊感をもらったのがわたしじゃないの? 海人なんか弱いし、すぐ泣くし、怖がりだし、イジメられるし、わたしがいなきゃ何もできないくせに!」
頭を思いっきり殴られた気がした。
「若菜ちゃん、本気で言っているの。そんな風にぼくのこと思ってたの」
「さようなら」
若菜ちゃんは吐き捨てるように言うと、ドアに体当たりするように出ていった。
☆☆☆☆☆
若菜ちゃんのことがショックでとてもそんな気分じゃなかったけど、お父さんとお母さんと遊園地にいった。最初こそ落ちこんでいたけど、2つ目のアトラクションで今朝のことが頭から消えた。メリーゴーランドも観覧車もみんなで乗ると、すごく楽しい。あっという間に時間が過ぎた。
でも夜一人になると、また今朝のことが浮かんできた。
―さようなら――
若菜ちゃんから永遠の別れを叩きつけられた。そんな気がする。
やっぱり石のこと言わなきゃ良かった。そうすれば若菜ちゃんにあんな風に言われることも、あんな風にお別れすることもなかったはずだ。息苦しくなって寝返りを打った。
でも、分かってて言わないなんて、どうしてもできなかった……。
眠れない。なんだか空気が重苦しい。いや重苦しいのは心の方だ。
水を飲みに行こうと部屋を出た途端、体が硬直した。
廊下の奥。沼地のように黒い毛と飢えた赤い瞳がこちらを睨み据えている。
黒狐!
体中の血管が緊張し、息が詰まった。
―黒い狐を見たら、すぐにその場から逃げること――。
連城先生の言葉が身内によみがえった。逃げなきゃ、そう思った瞬間、黒狐が唸り声を上げ、こっちに突進してきた。
か、体が動かない。
黒狐が牙を剥いた。思わず頭をかばい、しゃがみ込んだ。しかし黒狐は頭上を高々と飛び越え、そのまま走って行ってしまった。
たっ、助かった。
全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。すると階下から悲鳴が上がった。
お母さん!
心臓が縮み上がった。よろめきながら立ち上がり、転げるようにして階段を駆け降りた。両親の部屋のドアノブに手をかけるが、開かない。
「お母さん、お父さん、開けて」
ドアノブを力任せに引っ張る。開かない。ドアをどんどん叩いた。
「お母さん、大丈夫なの、ここを開けて!」
返事がない。心臓の鼓動がどんどん早くなる。
どうしよう、お母さんに何かあったら。
「お母さん! お父さん!」
その時、突然ドアが勢いよく開き、反動でしりもちをついた。
「うわっ」
お尻の痛みに耐えながら見上げると、なんとお母さんが立っている。うつろな目、青白い顔、気怠そうな前かがみの肩、力なく垂れた腕……。
「お母さん」
お母さんの顔に黒狐の顔が重なった。うつろな目が赤く光ったかと思うと、いきなり四つん這いになり、獣のように駆けだした。
「おおっ、お母さんっ」
慌てて追いかけ、開け放たれたダイニングに駆けこんだ。台所のほうから、かすかな光がもれているのが見える。急いで台所に飛びこむと、開けっ放しの冷蔵庫の前でお母さんがしゃがみ込んでいた。
「お母さん」
お母さんが振り返った。真っ赤な肉をくわえている。心臓が止まりかけた。
「お母さん止めて、それ生のままじゃない」
お母さんの手にしがみつき、その手を揺さぶった。瞬間、物凄い勢いで台所の入口まではね飛ばされた。全身に痛みが走る。あまりの痛みにおもわずうめき声をあげた。けど、お母さんは見向きもしない。口の端からダラダラとよだれを垂らし、それを拭おうともせず、髪を振り乱しながら、肉を飲み込んでいる。
“黒狐は人肉を好み”
連城先生の言葉が頭に浮かんだ。
“清らかな魂を食い尽くす。古の昔より今も変わらない……”
「そんなのイヤだ」
吐き気に襲われながら立ち上がり、お母さんの背中を両こぶしで強く叩いた。
「出て行け、お母さんから出て行け」
お母さんの強烈な肘鉄が脇腹に入った。激しい痛みに一瞬息がつまった。
「どうしたんだ、こんな夜ふけに」
眠そうな声と共にお父さんが現れ、すぐにお母さんにかけ寄った。
「何やってんだ優子!」
しかしお母さんは、お父さんの姿など目に入らないかのように、肉をむさぼり続けている。その時、お母さんのお腹の赤ちゃんが必死に両手を伸ばし、もがいているのが見えた。
このままじゃ、お母さんも妹もどうにかなってしまう。どうしよう。どうすれば黒狐を……。
「追い払える?」
「払うって?」
お父さんがすっとんきょうな声をあげた。
「何を払うって言うんだ海人」
脳裏にあの夢が浮かんだ。
―よく覚えておきなさい、クーカイ。清めには2つの方法がある。お塩で清める方法と香りで清める方法だよ―。
そうだ、清めには塩!
「お父さん、塩だ」
お父さんが驚いたように目を見開いている。けど今は説明しているヒマはない。戸棚から塩を取り出した。
「何やってんだ、海人まで」
お父さんの声を無視し、塩を手の平いっぱいに握りしめ、祈りを込めた。
―どうかこの塩でお母さんが清められますように。そして黒狐を払えますように――。
すると一瞬、手の中の塩がまばゆい光を放ったように見えた。
―どうかお母さんを、妹を助けて、お願い――。
お母さんの頭と背中に、きらめく塩をふりかけた。その途端、手が止まった。そしてそのまま横倒れに倒れ、お父さんの腕がかろうじて支えた。
☆☆☆☆☆
お母さんは運ばれた病院に、そのまま入院することになった。急性胃腸炎という診断とお腹に赤ちゃんがいることをお医者さんから告げられた。
「やったな、海人、お前に弟か妹ができるぞ」
お父さんは泣きながら笑っている。今にも踊り出しそうだ。お母さんは、ベッドの上で静かに眠っている。その顔を見て、泣きたくなった。
払えなかった……。
汚わしい毛並みをした黒狐の影がお母さんの体の奥にハッキリと見える。図々しくも体をまるめ、残酷な眼を閉じている。
あの塩は黒狐を眠らせたにすぎなかったんだ。そして黒狐は今、いつ起きてもおかしくない状態だ。あいつが目覚めれば、またお母さんに異常な行動をとらせるに違いない……。
「うれしくないのか」
お父さんが心配そうに顔を覗きこんできた。
「海人は弟や妹が出来るのが嫌なのか」
「そんなことないよ。ただちょっと眠いだけ」
「そうか……そうだよな」
お父さんの背後に一瞬黒い影が見えて、はっとした。
「なら、ゆっくりと眠るがいい」
いきなりお父さんの腕が伸び、首を乱暴に掴まれた。
「永遠にな」
黒狐! 目覚めたんだ!