7 真実
次の日、若菜ちゃんは学校を休んだ。若菜ちゃんがいない学校は、火が消えたようで、まるでお通夜みたいに暗く感じる――。
若菜ちゃん、少しは熱下がったかな……。若菜ちゃんとは、幼稚園の時から一緒だけど、休んだのを見たことがない。
“コックリさんなんかやらせるからよ”
ふいに昨夜の若菜ちゃんのおばさんの言葉がよみがえってきた。
やらされたのは、ぼくの方だけど、若菜ちゃんが具合悪くなったのは、やっぱりコックリさんをやったせいなんだろうか。たまらなくなって窓の外を見た。中庭には紫陽花が咲いている。紫がかった青い花が緑の葉の中でいっそう鮮やかに見える。
そうだ、若菜ちゃんに紫陽花を持って行ってあげよう。
授業が終わると、すぐに学校を飛び出した。早く若菜ちゃんに会いたい。一目散に走り、細い道を通り抜けたところで、
「もう少しだ。がんばれ」
男の人の叫び声が聞こえた。踏切に男の人が二人しゃがみ込んでいる。その二人のすき間から、ツインテールの長い髪が見えた気がした。
まさか……。
心臓の鼓動が早くなる。
こんなところにいるはずがない。
そう思いながらも、踏切に向かって走っていた。遮断機の前まで来た時、愕然とした。線路で若菜ちゃんがしゃがみこんでいる。
「若菜ちゃん、どうしてこんなところにいるの」
叫ぶと若菜ちゃんが顔を上げた。その顔が今にも泣きそうだ。
「コックリさんの紙を処分しに行っていたの。それより海人も、足を引き抜くのを手伝って! ぜんぜん抜けないの」
苦しそうに身をくねらせ、線路の間から足を引っぱり出そうとしている。そして、それを、背広を着た初老の男性と、若い男性が手伝っている。
でも、手が多すぎる!
男性二人と若菜ちゃんの手、合わせて六本のはずが、それ以上の手が線路からにょきにょき出て、若菜ちゃんの足にからみついている。あまりの光景に恐ろしさで足がすくんだ。でもこのままじゃ若菜ちゃんが危険だ。必死になって線路の中へと突進し、若菜ちゃんの側にひざまずいた。その途端、
カンカンカンカン
おぞましい音と共に遮断機が下り始めた。
「このままじゃまずい」
「電車を止めましょう」
初老の男性と若い男性は口々に言うと、慌てて遮断機の外に飛び出して行った。
落ち着け、落ち着け。
心の中で唱えながら、線路の間から伸びる得体の知れない手を一本、また一本と払いのけた。
「何やっているのよ、海人」
若菜ちゃんが泣き叫んだ。
「手を外しているんだ」
「手じゃないわよ。足よ。足を外して」
若菜ちゃんが、無我夢中で足を引っこ抜こうとしている。その足をちがう手が伸びガッチリと掴んだ。その手をひっぱたくようにして、払い落としながら思った。若菜ちゃんにはこれが見えていないんだって。
でも返ってその方がいいのかも。自分の足を掴む、このイソギンチャクのように線路から伸びる手を見たら、いくら若菜ちゃんだって倒れてしまうに違いない。
「助けてよ海人、助けて」
若菜ちゃんが泣きながら力任せに肩を、腕を殴ってきた。とんでもなく痛い。なんでこんな風に殴られなきゃいけないんだろう。悲しくて涙が出そうになった。
カンカンカンカンカン
遮断機が閉まる音に混ざって、線路を滑るように走る電車の音が近づいてくる……今は泣いている場合じゃない。力をこめて、若菜ちゃんを掴む手を払った。何本も何本も払った。
「とれた」
叫ぶと同時に、若菜ちゃんがしりもちをついた。そして、足を引きずりながら、素早く遮断機の外に逃れた。
良かった!
立ち上がって走り出そうとした瞬間、足元に強い抵抗を感じた。ゾッとした。線路から太い手が伸び、足首をつかんでいる。
「はっ、放して」
思いっきり足を揺さぶった。しかし手は食らいついたスッポンのように離れない。
その時、電車が見え始めた。運転手が恐怖にひきつった顔で何事かを叫んでいる。
「放せよ! 放せ!」
大声で叫ぶと、ズボンのポケットから何かが、すべり落ちた。
お守り?
そう分かった瞬間、風を感じた。
「無事か」
しわがれた声が耳元で聞こえた。太く逞しい腕に全身を抱えられるのを感じながら、何も分からなくなった。
消毒液の匂いと、ささやくような声がする。目を開けると、見慣れない白い天井が飛び込んできた。身体の下のベッドはやけに固い。
ここは一体……
その時、
「海人を返せって言うんですか」
押し殺したお父さんの声が聞こえて、はっとした。
ぼくを返せって、どういうこと?
見ると、ベッドの周りを仕切るカーテン越しに三人の人影が映っている。
「海人は、わたしたちの子です。誰にも渡さないわ」
「落ち着きなさい、優子……連城先生、いきなり海人を天徳院に引き取らせてほしいとは、一体どういうことですか」
連城先生? それじゃあ、そこにいるのは連城先生……。
「一言で言うならば、黒羽伊吹に気づかれた、ということです」
戦慄が走った。
何のことだかさっぱり分からないのに、黒羽伊吹という言葉を体が覚えている。そんな感じだった。しかし震え上がったのはぼくだけではなかった。その一言で、部屋の空気がガラリと変わった。両親から流れ出る気は恐怖しきっている。連城先生の気配も並々ならぬものを感じる。
「そんなことある訳がない。連城先生。あなたほどの力がある方が、押さえこんできたはずじゃないですか」
「いや。今回の事件が何よりの証拠」
しわがれた連城先生の声は無情だった。
「年齢が二桁になるちょうど今年、海人の力が強まるため、注意はしていたんですが……」
「そんなこと、最初から分かっていたはずじゃないですか。そうよ、今からでも」
震えるようなお母さんの声がハッキリと聞こえてきた。
「今からでも遅くないわ。なんとか海人の力を抑えて、ずっと抑えて」
「落ち着きなさい、優子」
お父さんが抑えこむような声で言った。
「連城先生、海人を天徳院で修行させる以外、何か方法はないのですか」
「海人の力が覚醒した今は、もう不可能に近いでしょう……お二人が、海人の事を本当の子供のように育ててきてくださったことには感謝しています。しかし、海人には疑いようもなく連城家の血が流れている」
衝撃があった。
連城家の血が流れている! それじゃあ、ぼくは連城先生の……。
「孫の海人には、私以上の力がある。僧侶としての道を歩ませ修行をさせ力をつけさせる。そして自分の身を護れるようにしてやる。それ以外、してやれることは、黒羽から護る方法はないのです」
「帰って、ください」
お母さんの声がとぎれとぎれに聞こえてきた。
「誰が、何と言おうと……海人は、私たちの子です。誰にも渡しません」
「しかし、このままだとお二人にも危険が……」
「連城先生、お引き取り下さい。私たち家族の身は私たちで護ります」
お父さんの声も少し震えている。
「お二人とも、くれぐれも気をつけてください」
連城先生は、繰り返すように言うと、そっと病室を出ていった。その後しばらくの間、お母さんのすすり泣く声が聞こえていた。
ぼくは、お父さんとお母さんの本当の子じゃなかったんだ……。
全身の力が抜けるのを感じた。とても信じられるものじゃない。土壌深く張ってきた根っこをいきなり引っこ抜かれた。そんな気分だった。
力が覚醒したとか、僧侶になる以外方法がないとか、連城先生の孫? だとか、クロハとか……。訳のわからない恐怖の渦が押し寄せ、飲み込まれるようだ。夢中で布団にしがみついた。力一杯掴んでいないと、そのまま奈落の底に落ちていってしまう。そんな気がしてならなかった。