6 連城先生
その電話がかかってきたのは、ちょうど夕飯を食べ終えた時だった。
「もしもし海人、今から一緒に学校に行って」
切迫するような若菜ちゃんの声が響いた。
「どうしたの、若菜ちゃん」
「コックリさんに使った十円玉が見当たらないの。旧校舎で落したみたい」
「えっ、そうだったんだ」
「そうだったんだ、じゃないわよ。あの十円玉を今日中に使いきらなきゃ、わたしたち呪われるのよ」
「そんなっ」
思わず大きな声が出た。リビングにいるお父さんとお母さんが振り返っている。
「どうすればいいの?」
声をひそめた。
「学校に取りに行くしかないわよ」
「無理だよ。お父さんも、お母さんも心配するから」
「学校に忘れ物したから、わたしと一緒に取りに行くって言えばいいでしょ。それじゃあ7時半に裏門で」
早口でまくしたてると、若菜ちゃんは電話を切ってしまった。
夜の学校は昼間とまるで顔が違う。青白く見える校舎、静かな校庭、体育館も無口だ……何もかもがひっそりとしていて、まるで別人みたいだ。明るい水色の裏門まで、どんよりとした暗い群青色に見える。
若菜ちゃん、遅いな。
腕時計を見ると、もう8時。約束の時間を30分も過ぎている。あの電話の感じだと、すぐに飛び出してきそうだったのに……。もしかして、もう中に入っちゃったのかな。
犬の鳴き声が響いた。ここだと不思議と狼の遠吠えみたいに聞こえる。
いくら若菜ちゃんだって、一人で中に入って行けないはずだ。もうすぐ来るに決まっている。
こわごわと通りを振り返ったが、暗い道に若菜ちゃんの姿はない。その時、背後から肩を叩かれた。
「きゃああ」
「何をしている」
振り返ると、連城先生が立っている。眼には力強い光をたたえ、先ほどの哀しみや憐れみのかけらすらない。
「ぼ、ぼく、忘れ物を取りにきたんです」
「だったら早く取ってきなさい」
連城先生は出てきたばかりの裏門を大きく開けたが、若菜ちゃんを待っていることを告げると、
「何で山根さんなんだ」
と、ギロリと目をむいた。
「ひっ、一人じゃ取りにいけないんで」
連城先生は、大きく開いた裏門からさっさと校内に入った。
「来なさい」
「連城先生?」
「一人じゃ怖いんだろ」
その通りだ。若菜ちゃんを待つべきだという気もしたが、これ以上ここに一人でいるのも怖い。
一瞬のためらいの後、すぐに先生のあとを追った。
連城先生は2百年以上生きている妖怪じゃないかという噂もある怖い先生だけど、こういう時一緒だと心強い。妖怪や幽霊も怖がって逃げてくれる気がする。それにしても、年をとっている割に意外と歩くのが早い。あっという間に校舎にさしかかった。
「先生、連城先生、ここじゃないんです」
「旧校舎の方だろ」
ギクリとした。
先生は知っているんだ。でもどうして? なんで分かったんですか、なんて聞けるはずもない。振り向きもせず連城先生はスタスタと歩いていく。体育館の角を曲がった時、思わず目を見張った。
明るい。
旧校舎がまるで光でも差しているかように鮮やかで明るい。それは遠くからでも、よく分かった。夜の暗さの中、その明るさは異様だった。その時、脇を小さな男の子が通りこし、そのまま旧校舎めがけて走って行った。こんな時間に小学1年生ほどの子が旧校舎にいるなんて。全身に鳥肌が立った。
「怖がらなくていい」
連城先生の目が、校舎に吸い込まれていく小さな男の子の姿を追っている。
「先生も視えるんですか?」
「ああ……」
「どうして視えるようになったんですか?」
「質問は後だ。これから大人や子供を視ても無視しなさい、害はない。ただし……」
連城先生の目がカッと見開かれた。
「黒い狐を見たら、すぐにその場から逃げること」
「どうして、ですか」
「危険極まりない獣だからだ」
重みのある、恐ろしい言葉だった。
「危険極まりないって……」
思わず声が震えた。すると連城先生は辛そうに眉根を寄せ、鋭い痛みにでも耐えるように目を閉じた。
「黒狐は人肉を好み、清らかな魂を食い尽くす。古の昔より今も変わらない……」
「あっ、あの……でも旧校舎には、黒狐はいないんですよね?」
「とにかく、黒狐以外だったら何を見ても大丈夫だ。安心していなさい」
しかし、安心などできるものではなかった。
校舎に近づくと、ざわめきが聞こえ始め、3階の窓から授業を受ける子どもたちの姿が、はっきりと視えた。そしてその下の2階の廊下では小さい子どもがかけ回り、それを教師と思しき大人が追いかけている。
まるで昼間の学校だ。
旧校舎の中に入りながらそう思った。
でも、今の学校とはまるで違う。みんな、どこそこ古めかしい。通り過ぎていった男の子も坊主頭だし、向こうから歩いてくる女の子2人もおかっぱ頭だ。まるで、この間テレビで観た昭和時代の学校みたいだ。だとすると……ここにいる人たちはみんな……。
その時、連城先生が急に立ち止まった。
「着いたぞ」
言いながら、保健室のドアを開けた。そこは、さらに明るかった。窓にはカーテンが揺れ、その側にはベッド、そして壁際には薬棚が置かれている。何もなかったはずの保健室が息づいている。連城先生に続いて、恐る恐足を踏み入れた途端、何かを蹴ってしまった。十円玉が床を転がっていく。
あれだ。あの十円玉だ。
慌てて手を伸ばそうとすると、連城先生が叫んだ。
「触るな、それを素手で触ってはいけない」
連城先生は素早くポケットから何かを取り出すと、
「けがれているからな」
言いながら十円玉の上から白い砂をかけた。キラキラと輝く粒子、まばゆいばかりの白……。
ふいに夢の中の、あの夢での男の人の言葉が浮かんできた。
―清めには二つの方法がある……。
「お塩で清める方法」
つぶやくと、はじかれたように連城先生は顔を上げた。
「その通りだ」
連城先生は十円玉をつまみあげると、手の平に乗せてきた。そこからはもう鼓動は感じられない。さっき頑固に帰っていかなかった“何か”はようやくいなくなってくれたらしい。
「その十円玉は、今日中に使いきる必要はない。ただ……」
連城先生は再びポケットから何かを取り出した。それは、長方形に折りたたまれた白い小さな紙だった。
「これを七日間持っていなさい」
気のせいか紙全体が輝いて見える。
「中には清めの塩が入っている。お守りだ」
「あのっ、どうして七日間なんですか」
「魂は通常七の倍数で動く。よく初七日とか四十九日とか言うだろ。まあ、お前たちにイタズラした低級霊レベルなら七日間で十分だ」
分かったような、分からないような説明だったが、この長方形の小さなお守りには、大きな安心感がある。それは確かだ。
お守りをズボンのポケットにつっこむと、保健室を出て行く連城先生の後に続いた。
「分からない」
先生がチラリと振り返った。
「何がですか」
「さっき質問していただろう? どうして視えるようになったのかと」
「あっ、はい」
「物心ついた時から視えていたから、なぜ視えるようになったのか分からない」
「あの、それって……呪われているからですか?」
「呪われている?」
「他人に視えない物が視えるのは、呪われているからですか」
「確かにそう思う時もあった」
連城先生が歩く速度を落とした。
「しかし実際は違う。神様からの贈り物で、役目があるからなんだ、ある時そう分かった」
ふいに今日の非難めいた眼、刺すような視線が思い起こされた。神様からの贈り物にしては重すぎる。
「辛くないですか?」
連城先生が悲しそうに目を潤ませた。
「本当に辛いのは、そんなもんじゃない。大切な人を失うことだ」
瞬間、脳裏に若菜ちゃんの顔が浮かんだ。
ツインテールの長い髪、笑ったり怒ったりクルクル変わる表情。その鮮やかな若菜ちゃんの映像が、急に揺らぎはじめモヤがかかったようになった。
嫌だ! ぼくは失いたくない。
そう思った時にはもう駆けだしていた。
「急にどこへ行く」
連城先生のしわがれた声を背中で聞き、おかっぱ頭や坊主頭を通り越し、そのまま旧校舎を飛びだした。校門を抜け、踏切を渡った。細い道を通り抜けると、若菜ちゃん家が見えた。インターホンに飛びついた。
反応がない。
慌てて家を見上げた。一瞬、明かりが消えているのかと思った。しかし、つつましい光が見える。インターホンを押し続けた。10回目で、ようやく迷惑そうな若菜ちゃんのおばさんが出た。
「あのっ、夜遅くすみません。若菜ちゃんいますか」
インターホンの向こうで息を飲むのが分かった。
「海人君ね、よくも……」
「若菜ちゃんは、若菜ちゃんは大丈夫なんですか?」
「海人君、うちの子には二度と関わらないで」
ブツリという音をがして、インターホンが切られた。しかしこのまま帰れるわけがない。妙に胸がざわついて、再びインターホンを押した。しばらくするとドアが開き、若菜ちゃんのおばさんが鬼のような形相で現れた。
「うるさいわね、若菜が起きるでしょ」
「若菜ちゃん、もう寝ちゃったんですか」
「ええ、あなたのせいで高熱を出してね。まったくコックリさんなんてやらせるからよ」
「そんな……ぼくがやらせたんじゃ……そうだ、これお守りなんです。若菜ちゃんに渡してください」
連城先生からもらったお守りを、おばさんに差しだした。すると、おばさんは邪険に手を払い、
「迷惑だから。もう帰りなさい。今度インターホン押したら、警察呼ぶわよ」
肩をいからせながら、家の中へと消えていった。しばらくの間、その固く閉ざされたドアを見つめていた。でも、もうどうすることもできない。お守りをにぎりしめ、重たい足を引きずりながら歩き始めた。
やっとの思いで家にたどり着くと、待っていたようにすぐにドアが開いた。
「海人、どうしたの? ずいぶん遅かったじゃない」
お母さんが眼を血走らせている。黙って家に上がると、お母さんが右手をつかんだ。
「忘れ物はどうしたの?」
胸がチクッと痛んだ。何も言えない。言えば、若菜ちゃんの家に怒鳴りこみに行くかもしれない。
「お母さん、手を放して。ぼくもう寝たい」
「ちょっとどうしたの、何よこれ、手が真っ赤じゃない」
ドキッとすると同時に右手に痛みが走った。お母さんは、ひざまずくとケガをしていないかを確かめはじめた。にぎりしめていた右手も強引に開かされる。
「これは、何!」
「お守りだよ」
お母さんが、愕然として手を放した。まるでお守りという言葉に絶望的な何かを感じたみたいに。
どうしてお母さんまでそんな顔をするんだろう。連城先生と同じような表情をするのはどうしてなんだろう。
すごく気になったけど、幸いお母さんにはそれ以上、何も聞かれなかった。