5 報い
外に出ると澄みきった青空が広がっている。
気持ちのいい五月晴れの空なのに。すごい違和感がある。気持ちのいい空気の中、訳の分からない視線を感じる。家を出た瞬間からだ。近所のおばさんや行きずりのサラリーマン、散歩の犬までもが見ているような気がする。
ここまでくると、もう空気にまで見られているようで落ち着かない。視線の数は学校に近づくほどあからさまに増えていった。しかも決まってこちらを見ながらヒソヒソと話をしている。しかし、教室に入ると、みんなが一斉に話を止めた。席に着くまで、みんな呼吸を忘れたようにじっとこっちを見ている。ランドセルから教科書とノートを取り出している間も鋭い視線が刺さるようだ。
まるで針山の上にいるみたい……。
“視線が刺さる”という言葉を文字通り肌で感じる。
その時、前の席に座る亮太君が筆箱を落した。反射的に拾おうと手を伸ばすと、亮太君が怒鳴った。
「触んなよ、呪われるだろ」
「呪われる? 呪われるってどういうこと」
亮太君は無言で筆箱を拾い上げると、前を向いた。
呪われる、のろわれる、ノロワレル――。
頭の中で何度かみ砕いて考えても、分からない。
「海人のせいらしいぜ」
ふいに岡君の声が耳に飛びこんできた。
「小早川のジイサンと隼人に呪いをかけたの、海人なんだって」
急に心臓を殴られた気がした。“呪い”という言葉と自分の名前とが混ざりあって勝手に駆け回っている。
違う。ぼくは呪いなんてかけてない――。
叫ぼうとしたが、声が出てこない。胸が苦しくなって涙がこみ上げてきた。
その日は授業で何を聞いたのか、給食に何が出たのか、まるで分からなかった。ただ授業が終わると、教室を飛び出した。
今日くらい辛いと思った日はない。今日ほど一日を長いと感じた日もない。
逃げるように廊下を走り、階段を駆け下りる。下駄箱が見えたところで、
「何度も呼んでるのに、どうして待ってくれないのよ、海人」
振り返ると若菜ちゃんが口をとがらせている。
相変わらず元気で少し自分勝手で、それでいて……すごくかわいい。若菜ちゃんだけは昨日とちっとも変ってない。それがうれしかった。
「海人どうしたの? どうして泣いてるの?」
若菜ちゃんの後ろにクラスの女子たちの姿が見えた。
「ここじゃ話せない」
若菜ちゃんがいきなり手首をつかんで、走り出した。風が耳でうなり声を上げている。
ああ、このままどこか遠くに行ってしまいたい。
しかし体育館の裏手まで来ると、若菜ちゃんが立ち止まった。
「ここなら大丈夫よ」
確かにここは旧校舎へと続く道だから、誰かが来る心配はない。しかし、気のせいか冷気を感じる。
「海人、何があったの?」
若菜ちゃんの声はやけに優しい。また涙があふれてきて、止まらなくなった。
「みんなが……“海人に関わると呪われる”……って……」
「なんだウワサのことか」
「若菜……ちゃんも……知っていたの……知っていて……話しかけたの」
「だって海人は呪いなんてかけるわけないから。絶対にかかけないって信じてるから」
また新たな涙がこみ上げてきた。
ふいに若菜ちゃんのためなら何でもしてあげたい気になった。
外は相変わらず清々しいほどの青空が広がっているのに、旧校舎の中は真っ暗で、また暗さが増したような気がした。
「海人、人に視えないものが視えるって霊感のことよ。わたしにも霊感があるから分かるの。でも海人がどうして霊感が強くなったのかコックリさんに聞こう」
と言われた時、断りきれずにここまで来てしまったのは失敗だった。足元では床が何かの生き物みたいに鳴いている。
「若菜ちゃん、ぼくのことはもういいからさ。帰ろう」
「ダメよ。ね、これで最後だから」
言い出すと若菜ちゃんは止められない。その頑固さに思わずため息が出た。
保健室まで来ると、若菜ちゃんはいつものように紙を広げ十円玉を取り出した。
「コックリさん、コックリさん。お出でください」
まただ。
十円玉の中に何かが飛びこんできた。
指先に脈動を感じながら、自然と体が強張った。
後ろの扉だ!
部屋の外に何かが来た。荒い息をさせ、こちらを見ている。こないだと同じだ。それに今日感じたどの視線よりも強くて鋭い。そして――。
くさい。
血とケモノの匂いがする。息をつめた。若菜ちゃんが口を開いた。
「どうして楠海人は霊感が強くなったのですか」
十円玉が踊るように紙の上を動く。
「く…す…の……“楠海人が呪われているから”」
ビックリして顔を上げると若菜ちゃんも驚いたように目を見開いている。
「どうしたらいいか聞いてみよう」
若菜ちゃんの声が震えている。瞬間、ゾクリと背中に嫌なものを感じた。
「もういいよ、止めよう若菜ちゃん」
かまわず、若菜ちゃんが続けた。
「どうしたら楠海人の呪いが解けますか」
十円玉がまた動きだした。
「や…ま…ね……“山根若菜がいなくなれば”」
息がつまった。
山根若菜がいなくなればだって? そんなの冗談じゃない。呪いは解きたいけど、若菜ちゃんがいなくなるなんて望んじゃいない。
その時だった。
ドンッ。
後ろの扉が音を立てた。心臓が止まりかかる。外にいる何かが体当たりしているんだ。とっさに若菜ちゃんを見た。でもこの音に気づかないのか、若菜ちゃんはぼう然として十円玉を見つめている。
まずい。このままここに入られたら、恐らく若菜ちゃんもぼくも……。
殺される。
恐ろしい感覚が全身を貫き、思わず叫んだ。
「若菜ちゃん、さっさと終わらせよう」
我に返ったように若菜ちゃんはすぐさまうなずいた。
「コックリさん、コックリさん、お帰りください」
十円玉が“いいえ”を囲った。
「どうして帰ってくれないの」
「若菜ちゃん、もう一回」
「うっ、うん。コックリさん、コックリさん、お帰りください」
“いいえ”
若菜ちゃんが青ざめ、また口を開いた。十円玉があざ笑うかのように動く。何度も何度も、“いいえ”“いいえ”“いいえ”……、頑なな答えを繰り返す。唇が震え、喉がからからになってきた。どうしよう、どうしたらいい?
ガタガタガタッ
大きな音に眩暈がしそうになった。背後の扉を誰かがこじ開けようとしているんだ。その音が徐々に大きくなっていく。恐る恐る振り返ると、ここに入ってきた時に比べて木製の扉が少しゆがんだみたい。ああ、あの古びた扉はどのくらいもつだろう。
この十円玉の中に入った“何か”が消えれば、外から体当たりしている別の“何か”も消えるはずだ。この間がそうだった。
さっさと“はい”を囲って帰って……祈るような気持ちで十円玉を見つめた。その時、
“バシッ”
扉の蝶番がポップコーンのように跳ね飛んだ。
来る!
次の体当たりで確実に扉が開き何かが突入してくる。そう思った瞬間、ものすごい勢いで扉が開いた。
「きゃああああ」
悲鳴を上げた。若菜ちゃんも絶叫している。
「そんなところで何をしている」
大地を震わすような声が轟いた。
「いつまで叫んでいるんだ。お前たち、こんなところで何をしている」
連城先生が眼をギョロつかせて、にらんでいる。
「なんだ先生か、驚かさないでくださいよ」
若菜ちゃんがほっと息をついている。
違う。
とっさにそう思った。さっきまで体当たりしていたのは連城先生じゃない。恐らく……。
「動物だったはず」
思わず発した言葉に連城先生の眼球がギョロリと動いた。信じられないとでもいうように首をかすかに振っている。
「なんでだ。どうしてこんなところに入った」
つぶやくように言うと、悲しげな目でじっと見つめてきた。側にいる若菜ちゃんが紙を素早くポケットに突っ込んでいるのに見向きもしない。
連城先生はどうしてそんな眼をするんだろう……。
悲しみとも憐れみともつかない眼で見つめられると、なんだか自分が取り返しのつかないようなことをした気になる。
「肝試しのためです」
若菜ちゃんが澄まして答える。すると連城先生は大きな眼を初めて若菜ちゃんに向けた。
「先生こそ、こんなところで何をしているんですか」
「そんなことは関係ないだろう。くだらないことしてないでさっさと帰りなさい」
機械的にランドセルを肩にひっかけ、部屋を出たところで振り返った。
どうしてあんなに悲しそうな眼をするんだろう。連城先生は大きな肩をガックリと落とし、立ち尽くしていた。




