4 異変
その晩も、またあの夢を見た。
暗闇の中を流れ落ちる白い砂。その白い砂だけど見ていると、不思議と気持ちが落ち着く。黒く恐ろしいだけの世界の中で唯一安心できるものだ。その時だった。
誰かいる。
人の気配を感じ、まわりを見まわした。しかし真っ暗で誰がいるのか分からない。いつもなら、闇にすくみ上るはずなのに不思議と怖くはなかった。それどころか、妙にうれしい気がする。
誰が側にいるのか確かめたい。思いきって前後左右に手を伸ばしてみた。すると目の前の落ちる白い砂にさえ手が届かないことに気づいた。あの砂まではずいぶん距離があるらしい。
もう少し、もう少し。
めいいっぱい手を伸ばすと、ふいにその手を掴まれた。でも、少しも怖くはない。ただただうれしかった。それは大きな手をだった。温かい指だった。優しい握り方だった。
この人がいれば、何一つ怖いことはない。誰だか分らないが、強くそう思った。
その時、
「クーカイ、クーカイ」
その声に全身の細胞が反応した。
そうか、クーカイってぼくのことだったんだ。
そう分かった途端、懐かしさがこみ上げてきた。
「よく覚えておきなさい、クーカイ。清めには二つの方法がある。お塩で清める方法と香りで清める方法だよ」
ふいに手が放された。その人が遠ざかって行くのを肌で感じる。
「待って、行かないで。置いてかないで! 待って!」
跳ね起きると、いつのまに来たのだろう、お父さんの心配そうな顔が目の前にあった。
「どうした、大きな声で叫んで。怖い夢でも見たのか」
「ううん、違う」
「じゃあどうして泣いているんだ?」
ビックリして顔を触ると、温かい涙で濡れている。気づかないうちに泣いていたらしい。お父さんはベッドの脇に座ると、頭をなでてくれた。大きな手だけど、夢の中の手とは違う。なんとなくがっかりしていると
「何かあるのか? お父さんには何も隠すことはないんだぞ」
お父さんが心配そうに額にしわを寄せている。
「実はね、お父さん。不思議な夢を見たの。男の人の声だけが聞こえてくる夢。ぼくのことをクーカイ、クーカイって呼んで話しかけてくるんだ。でも顔は見えなくて」
お父さんの顔色が変わった。
「まだ朝早い。夢のことは忘れて、もう少し寝てなさい」
お父さんは布団をかけ直すと、部屋を出て行った。
今日も霧のような雨が降っている。カラスの鳴き声がしないから、こういう日が続くのも悪くない。でも長ぐつの中に水が入るのは嫌だ。下駄箱で上履きに履き替えながら、つま先が濡れて変色した靴下を見つめた。こうなると一日中、気持ち悪い。
教室の自分の席に着くと、たまらず上履きを脱いだ。すると凛ちゃんが笑った。
「そうやるの、わたしだけかと思ってた」
見ると、凛ちゃんも上履きを脱ぎ、その上に白いレースの靴下を履いた足を乗せている。凛ちゃんの金に縁どられた白い光は相変わらず美しい。ボーッとなりながらその光を見つめていると、凛ちゃんのすぐ後ろにおじいさんが立っているのに気づいた。
「幸福が泳いでくるぞ。凛の元に幸福が泳いでくるぞ。たい焼きと同じだぞ……」
明るい声でささやいている。思わず吹き出した。
「どうしたの、楠木君」
「だって、凛ちゃんの後ろにいるおじいさんが面白いんだもん」
凛ちゃんが驚いて振り返った。
「おじいさんなんていないじゃない」
凛ちゃんの声で教室中のみんなの視線が集まった。
「そんなことないよ。白髪で、四角い黒縁の眼鏡をかけたおじいさんがそこに立っているじゃない。『凛の元に幸福が泳いでくるぞ。たい焼きと同じだぞ』ってさっきから言ってるよ」
「どうしてうちのおじいちゃんの口癖知っているの?」
教室中がざわめいた。
その時、扉が開き、先生が慌てた様子で入って来た。
「小早川さん、ちょっといい」
凛ちゃんが先生と連れだって廊下に出て行くと、廊下から先生の声が、かすかに聞こえてきた。
「たった今、おじいさんが亡くなられたわ。すぐにご両親が迎えに来るから」
凛ちゃんはその日、そのまま早退した。
午前中は、大好きな国語と理科の授業だったせいか、あっと言う間に過ぎた。しかし、ここからが問題だ。
給食の時間――。
教室の前方で割烹着を着けた給食当番たちが、バタバタと準備を始めた。この光景を見るたびに憂うつになる。鍋からムワッと匂いが立ち上った。今日は春雨スープか……春雨だけか野菜だけならいいのに、ハムが春雨にまとわりつき、野菜にくっつき、スープに匂いを残す。それがたまらなく嫌だ。列に並びながら、ため息が出た。トレイの上に、春雨スープの茶碗がドンと乗っかる。揚げパンがその脇に座る。そして、みかんがスルリと転げ落ちそうになった。
あっと思った時、前から日焼した隼人君の手が伸びた。素早くみかんをキャッチするとトレイの上に戻してくれた。
「悪りぃ、乗せが甘かった」
「ううん、だいじょう……」
ぶ、と言いかけてビックリした。隼人君の顔が真っ赤に腫れ上がっている。隼人君はサッカークラブだから日焼しているのは当たり前だけど、日焼の赤さなんていうレベルじゃない。病的に赤く腫れ上がっている。
「隼人君。大丈夫? 具合悪いんじゃないの」
「なんだよ。ちゃんとみかん落さなかったんだからいいだろ」
「みかんのことじゃないよ。顔真っ赤だよ。当番代わるから保健室行ったほうがいいんじゃない?」
「何言ってんだよ、ムカつくな。邪魔だからサッサと行けよ」
隼人君は怒りながら次々とみかんをトレイに乗せている。不思議とみかんを受けとるみんなも平然としている。
みんな、どうして変に思わないんだろう……。
“いただきます”という大合唱を上の空で聞きながら、機械的に揚げパンを口にほおりこんだ。
そういえば、さっきもそうだ。誰も凛ちゃんの後ろに立つおじいさんに気づいていないみたいだった。
ボソボソとした揚げパンを牛乳で流し込む。
もしかしてみんなでぼくをからかっているのかな……。いや、違う。凛ちゃんは本当に驚いた顔をしていた。からかわれているんじゃないとしたら……実際みんなに見えてないんだとしたら……。
ぼくだけに見えている。
それはゾッとするような結論だった。トレイの上のスープがさっきから蛍光灯の光を反射し怪しい生き物みたいに光っている。突然、自分が見ている世界がガラリと変わった。
ああ、元に戻れるなら戻りたい。
その時、後方から悲鳴が上がった。ビックリして振り向くと、隼人君が倒れているのが見えた。真っ赤に顔を腫らして苦しそうにもがいている。先生がすっ飛んできて叫んだ。
「誰か保健の先生を呼んできて」
ものすごい勢いで亮太君が教室を飛び出して行った。そして隼人君は救急車で運ばれた。
その夜もあの夢をみた。
誕生日にしかみない夢も、もう四日連続だ。こうなってくると、ある種異常だ。
今日のは昨日と同じ展開で、全く同じところで目が覚めた。目覚めたら、やっぱり涙でほほが濡れている。あの男の人はいったい誰なんだろう。
―清めには二つの方法がある。お塩で清める方法と香りで清める方法だよ――。
その言葉が強烈に刻み込まれた。お塩っていうくらいだから、黒い世界に降ってくるのは、砂ではなくて、お塩なのかもしれない。そして、男の人はお塩を使う清めの方法を教えてくれているのかもしれない。そう考えると、ただ怖いだけで何の意味もないと思っていた夢にもちゃんと意味があることになる……。
ここまで考えると、急に頭がズキズキし始めた。
いい加減、考えすぎ。夢は夢。お父さんだって、“夢のことは忘れろ”って言っていたじゃないか。それに、こんなことばかり考えて、寝不足だから他の子に見えないものまで見えるようになるんだ。
梅雨寒の中、ブルッと震え、布団の中で寝返りを打った。




