34 黒いマンダラ
黒羽は凜ちゃんの眠るベッドの傍らに立つと、まるで生贄を捧げる邪神教の神官のように、両手を天に高くつき上げた。
すると何もなかった空間に黒い大きな円、その中に楕円や奇妙な文字がいくつも浮かび上がった。まるで黒雲のような漆黒の魔法陣、
いや曼荼羅だ。
その曼荼羅に触れていた黒羽の指先が一瞬漆黒になった。黒羽の唇に満足げな笑みがこぼれた。そのピアニストのようなに繊細な細い指で、黒羽が凜ちゃんの唇をなでる。
すると凜ちゃんの眉間にしわが寄り、苦し気に呻いた。黒羽の指先は凜ちゃんの唇の輪郭をなぞると、そこからゆっくりと顎、喉を伝っていく。また凜ちゃんの口が開き、苦し気な息がもれた。指はそのまま緩慢な動作で鎖骨の間を舐めるように滑る。凜ちゃんの息が荒くなってきた。黒羽の指がゆっくりゆっくりと下っていく。凜ちゃんの組んだ手がほどかれ、ふくらみとふくらみの間、心臓の真上に滑り落ちた瞬間、凜ちゃんがびくんと身体を震わせた。黒羽の指が凜ちゃんの心臓の上で止まった。黒羽が虫の羽音のような不快な呪文を唱え始める。すると凜ちゃんの身体が、大きくびくんびくんと、まるで熱病にでもかかったかのように震えだした。
その時だった。凜ちゃんの身体を包み込む白い光がまばゆく輝きだした。黒羽が凜ちゃんから急いで離れ、眼を覆う。
目を開けていられないほどのまぶしい光が止むと、光の中から白龍が凜ちゃんを護るように黒羽の前にぬうっと現れた。
「ようやく現れたな。恵果阿闍梨の魂。一部だけとはいえ凄まじい力だ。おい、俺にお前の力を渡せ、全部」
黒羽が尊大に言った。
「もしも拒めば、凜を惨殺する。凜が死ねばお前とて無事ではないだろ。さあ、その昔、長安で空海に渡した秘儀を俺によこせ。それさえあれば、俺は完璧になる。完全無欠になるんだ」
白龍は金色に光る眼で黒羽をじっと見つめたまま動かない。まばたきもせず、微動だにせず、ただ見つめたままだ。しびれを切らした黒羽が、凜ちゃんの左手を持ち上げると、その甲に鋭く伸びた爪を突き刺した。鮮血がほとばしり、凜ちゃんが悲鳴とともに目覚めた。
「な、なに、これは一体」
凜ちゃんは混乱と恐怖からパニック状態で叫んだ。
黒羽は凜ちゃんの傷ついた左手に顔を寄せ、
「お目覚めかな」
赤い舌でチロリと血を舐めた。
とっさに凜ちゃんが手を引っこめようとしたが、体が動かないらしく、表情だけが引いている。黒羽は、まるでソムリエがワインを味わうように、舌先で凜ちゃんの血を転がし、ほほ笑んだ。
「素晴らしい。やはり一級品の味がする。ようやく見つけた。お前をやっと見つけたんだ」
「あなた、あの夢の中の黒い鬼……」
凜ちゃんが恐怖のあまり固まった。その青ざめ、ひきつった凜ちゃんの頬を黒羽が撫であげる。
「さあ、どちらを選ぶ? 俺に秘儀を渡し、共に生きるか。自らの死をもって我が本尊を蘇らせるか」
黒羽が白龍に向かって言った。しかし凜ちゃんに、それはわからない。
「秘儀ってなんのことですか」
凜ちゃんが泣きながら震える声で言った。
「お家に、お家に帰してください」
その声に呼応するように、白龍がまばゆい光を放って消えた。
その光の粒が空間に消えゆく寸前、ぼくの体に飛び込んできた。温かい光が体中を駆け巡る。切れた血管を修復し、骨を治し、肉が再生されていく。光はクリスの体にも入ったらしく、クリスが今、息を吹き返したのを感じる。指を動かした。力が入る。同時に強烈な痛みにうめきそうになるのを辛うじてこらえた。黒羽に気づかれないよう、黒い槍をそっとひっこ抜く。黒羽の視線は凜ちゃんに注がれたまま動かない。再び凜ちゃんの心臓の真上に指を置き、叫んだ。
「もう一度だけ言う。出て来て! 秘儀をよこせ」
「なんのことだかわかりません。お願いです、お家に帰して、帰してください」
「なるほど。それが答えか。秘儀を渡さないのであれば我が本尊を完成させ、この国の結界を破るまでだ」
黒羽が頭上に浮かぶ黒い曼荼羅に手を突っ込んだ。
一瞬、蜃気楼のように空間が黒くゆがんだ。黒羽が手を引くと、そこには黒光りした髑髏が握られている。
「この髑髏にお前の全身の血を注ぐ。実に1000年以上の時をかけ、あらゆる人間の血を吸ってきた髑髏だ。666万人目のお前の血によって本尊として完成するのだ」
黒羽が凜ちゃんの目の前に髑髏をぬっと突き出した。
悲鳴を上げようと大きく開いた凜ちゃんの唇に、髑髏の口が触れそうになった瞬間、金剛杵を掴む手に力をこめた。閃光が走った。金剛杵と魔法陣から出た光が黒羽の手から髑髏を跳ね飛ばす。
「おい、その子の相手が髑髏じゃ、あまりにも可哀そうだろ」
ぼくの隣にクリスが立っている。
指揮棒を片手に、頭から血を流しながらも不敵な笑みを浮かべている。慌てて黒羽が祭壇を転がる髑髏を拾おうと手を伸ばした。しかし髑髏はものすごい勢いで湖の中に落ち、水しぶきを上げた。
「おのれクーカイ! よくもまた俺の邪魔を!」
黒羽が鬼のような形相で振り返った。もはや端正な顔の面影はない。憎しみと恨みのため元々の顔を変えてしまっている。
「許さんぞ、絶対に」
するとクリスがほほ笑んだ。
「黒羽、お前とはじめて意見が一致したな。俺もお前を許さない」
「クリス! ぼくたちも! だろ」
ぼくをちらりと見やり、クリスが豪快に笑った。
「そうだな、海人。いくぞ」
「ああ」
頷くより早く、黒羽が両手を頭上高く挙げ、空気をかき混ぜるようにして素早く動かした。
黒い曼荼羅が大きく回転し、火花を散らし始めた。勢いよくこちらに向かってくる。目の前に金剛杵を真一文字に構える。「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドラジンバラハラハリタヤウン」と唱えようとした瞬間、頭の中に連城先生の声が響いた。
「魔界の門へとつながる曼荼羅は必ず壊さなくてはいけない。チャンスは一度。秘術を使え」
気づくとあの破壊の旋律を唱えていた。金剛杵の両端から黄金に輝く二体の龍が躍り上がるようにして現れた。
クリスが指揮棒で作り出した銀色の魔法陣に乗り、二体の龍が黒い曼荼羅に勢いよくぶつかっていった。瞬間、激しい光がほとばしる。強い光の中、黒い曼荼羅はまるで消しゴムのカスのように小さくなっていく。
同時に黒い曼荼羅から奇妙な叫び声が上がった。それは老若男女、何千何万もの人の苦痛の叫び声だ。もし地獄から聞こえる音があれば、こういう音なのではないかと思える凄まじい叫び声だった。
まばゆい光は、黒羽をも包み込んだ。燃えるような赤い瞳が信じられないものを見るように光を見つめている。
「連城和尚、止めろ。止めてくれ……」
光の中を、もがくように手をバタつかせていたが、その身体を光の環が縛めのように巻き付き、ぐいぐい締め上げた。黒羽の絶叫が響いた。
まるで煙が上へ上へと上がっていくように、まばゆい光が、黒羽ごと空へと昇っていく。その光の粒子の中、黒羽の肩をがっちりと掴む連城先生を見た気がした。




