33 亮太と飛鳥
湖の中で揺れる手がしきりに誘惑する。湖の底は暗く、その手だけが確実なもののように見えた。苦しい息の中、手を伸ばそうとした刹那、目の前に一筋の白い線が現れた。砂時計の砂のように流れ落ちる白い粒子は、きらめきながら、まるで闇を真っ二つに裂いていくようだ。
「よく覚えておきなさい、クーカイ。清めには二つの方法がある。お塩で清める方法と香りで清める方法だよ」
懐かしい声が言う。あの10歳まで毎年誕生日に見続けていた夢の中の声。連城亮太! お父さんの声だ。その時、朗らかに笑う声が近くで聞こえた。
「亮太ったら、気が早いんだから」
この声! 聞き覚えがある! 連城飛鳥、お母さんの声だ! ああ、あの夢には続きがあったんだ。お母さんが自分のお腹を、ぼくをなでている。お母さんの幸せな気持ちと優しい温もりを感じる。お母さんがまた笑った。
「まだ妊娠2か月なのに」
「でもお腹にいる時から、声が聞こえるっていうだろ」
お父さんがお母さんのお腹を、ぼくをなでた。その大きな手の温もりを感じる。その温もりが段々と熱くなってきた。
「飛鳥、この子は諦めて、治療してくれ。そうして、また子どもをつくればいいじゃないか」
お父さんが泣いている。
「嫌よ! 諦めるなんてできない。わたしは絶対にこの子を産む。何があっても」
お母さんが泣き叫んだ。
「このままじゃ、この子は産まれてこれない可能性だってある。すぐ死んでしまうことだって……」
「仮にもそんなことを言わないで!」
「飛鳥、治療しなければ、お前が死んでしまうだろ。飛鳥が、いなくなるなんて俺は耐えられない」
お父さんとお母さんの悲しみの涙に息が詰まる。
いっ、息が、本当に息ができない。薄れゆく意識の中、救急車のサイレンと何人もの足音を聞いた気がした。
「赤ちゃんは無事です」
その声を聞いた途端、意識が戻った。
青白い顔のお母さんの顔が見えた。満足そうにかすかに微笑んでいる。しかし目の下は真っ黒だ。呪いがかけられている。一瞥して分かった。
お父さんに伝えなきゃ。このままじゃ危険だって。ベッドの傍らにいるお父さんに向かって懸命に叫んだ。でも、「ふんぎゃあふんぎゃあ」
という言葉しか出ない。お母さんが荒い息をしながら、お父さんに手を差し伸べた。お父さんがその白く細い手を握る。
「亮太、お願い。この子に伝え……愛していると」
蚊の鳴くようなか細い声で言って目を閉じた。
「飛鳥!」
お父さんが泣き叫んだ。
医者と看護師さんが押し寄せて、お父さんを引き離すようにして、お母さんのベッドを囲んだ。心臓マッサージと電気ショックを繰り返している。でもお母さんの眼が開くことは二度となかった。お父さんが慟哭している。激しい悲しみがぼくの全身を貫く。
また闇が広がった。闇の中から、連城先生の唸り声が聞こえてきた。
「悪霊に魂を売った黒羽の元に行くなど自殺行為だ」
「俺はただ飛鳥を、飛鳥の遺体を取り返しに行くだけです。なにも戦いを挑もうってわけじゃない」
お父さんの声は決然としている。
連城先生が吐き捨てるように言った。
「なんと生ぬるい。話して分かる相手ではないだろう。飛鳥のことは可哀そうだが諦めろ」
「諦めるなんてできない。飛鳥をきちんと弔ってやらなくちゃ。必ず飛鳥を連れて戻ってきます。それまで連城和尚、いえ、お父さん、あの子を、海人を頼みます」
お父さんが背中を向けた。その大きな背中がどんどん遠ざかっていく。霧が立った。
「お父さん」
霧の中を思いっきり叫んだ。
すると、お父さんの声が再び聞こえてきた。
「俺にできるのは、清めの方法を教えることだけ――よく覚えておきなさい、クーカイ。清めには二つの方法がある。お塩で清める方法と香りで清める方法だよ。クーカイ――海人、忘れないでいてくれ。飛鳥と俺はお前を心の底から愛している。今までもこれからもずっと。愛している」
急に意識が鮮明になった。目の前に揺らめく漆黒の手を払いのけた。再び水草が全身にからみついてきた。右手に金剛杵を握りしめ、左手で印を結ぶ。すると身体をがんじがらめにしていた水草が糸くずのように切れた。上を目指して、水をかいた。懸命にかいて、かいて、水をかいて、湖面に顔を出した。肺が新鮮な空気を求めて喘ぐ。
「お前は本当に、亮太にそっくりだよ。飛鳥の子どもでもあるはずなのに。恐ろしいほど、飛鳥の血を感じない。これっぽっちもだ。飛鳥に似ているところがあれば、命くらいは助けてやっても良かったが。まったく似ているところがない。皆無だ。そうやって負け犬のように濡れそぼっているところなんざ、まさにお前の父親の亮太そっくりだ」
「お父さんのことを悪く言うな」
「去ね」
瞬間、吹っ飛ばされ、湖のヘリ、階段の一番下に激突した。衝撃で、また息が止まりかかる。強烈な背中の痛みを落ち着かせようと息をする。く、苦しい。うまく息ができない。息を吸うと、ゼエゼエという嫌な雑音が混ざる。背中から胸にかけての痛みに呻いた。湖の中であれほど求めた空気も、今は息をするだけで痛い。まるで全身の骨がバラバラになるようだ。
「冷静になれ、次の攻撃に備えろ、備えるんだ」そう訴えかける理性にしがみつくようにして、右手に握った金剛杵に力を籠める。その途端、血の気が引いた。力が入らない。見ると、右腕から大量に血が流れ出ている。めまいをおこしかけたところに唸り声が聞こえ、顔を上げた。血の匂いに引き寄せられるように、6匹の黒狐がよだれを垂らしながら、じりじりと近づいてきている。
「海人!」
クリスが側に駆け寄ってきた。
まるでたった今、悪夢から醒めたように、顔色が悪い。それでもクリスは素早く革帯の一番下のボタンを開けると、鞭を取り出した。肩で息をしながら、黒狐を祓うように振り回す。黒狐は少しでも鞭に当たると、叫び声を上げ消えていく。
「素晴らしい!」
黒羽が称賛するように手を叩いた。
「海人、クリストファー、なかなかだよ、お前たち。よく成長したものだ。本当に素晴らしいと誉めてやろう。褒美として、お前たち仲良し2人組にこれから、特別なショーを、凛と私が一体となるところを見せてあげよう」
何を言ったのか、一瞬わからなかった。一体になる? 口の中で反芻し、おぞましさに吐き気がする。
クリスが猛り狂った。
「なっ、何考えてんだ、この変態野郎め!」
「口を謹め、クリストファー。この世界の偉大なる覇者に対する口のきき方ではない」
黒羽が片手を上げた。
瞬間、竜巻が地面から沸き起こり、クリスと共にいきなり階段の一番上まで、吹っ飛ばされた。そしてそのまま地面に落下した。ぐしゃっという奇妙な音がした。口の中に血が溢れ、ペッと吐き出すと鮮血が地面に飛び散った。その先にクリスが横たわっている。動かない。
「クリス」
クリスに這っていこうとして、見えない手に頭をつかまれ、
「今、見るべきなのはクリストファーじゃない。こっちだ」
強引に祭壇の方を向かされた。
祭壇上のベッドで、凛ちゃんが穏やかな表情で目を閉じている。恐ろしさに震え上がった。
右手で握った金剛杵に左手を添え、印を頭の中で結びながら飛び上がった。
瞬間、目の中に火花が散った。心臓が限界まで鼓動し、熱い血液が血管を通って全身をかけめぐる。途端に全細胞が爆発するようにその力を拡張させはじめた。空気がまるで粒のように見え、祭壇までの距離が急に短くなった。一足飛びに祭壇に飛び乗った。乗った瞬間、口中に血があふれ、思わず吐いた。
黒羽が目を見張っている。
「極限まで自分の力を高めたな。その体で生涯に2度しか使えない禁断の人体拡張術を使うとは。なかなかのものだ」
きかない右手で強引に金剛杵を構え、そのまま黒羽に突っ込んだ。
黒羽の胸に金剛杵を押し当てようとした途端、黒羽の眼が赤く光り、次の瞬間には、松明を掲げた円柱まで吹っ飛ばされた。円柱から離れようとした時、黒い槍がまっすぐに飛んできて、左わき腹を刺し貫き、槍の穂先がそのまま円柱に深々と刺さった。激痛が走り、絶叫した。
槍の柄を掴んで、抜こうとするが、触れるだけで気絶しそうだ。目の前がかすみ始めた時、黒羽が標本にした昆虫でも見るような眼をむけてきた。気持ちが悪いほど爽やかで、そして楽しげだ。
「敬意を表して、その特等席で見せてやる」
幻聴のように黒羽の声が響いた。
まるで舞台俳優のように大きな動作で凜ちゃんの眠るベッドに近づいていく。
「凜ちゃん、起きてくれ。起きて、逃げてくれ」
懸命に声を張り上げる。でもかすれたような小さな声しか出ない。冷ややかに笑う黒羽の顔が見える。
「儀式が終わったら、亮太の元に行かせてやる。それまで大人しく見ていろ」
何か見えない手で口が塞がれた。
”凜ちゃん、逃げてくれ“
絶叫が体の中でこだまする。
ぼくは、凜ちゃんを、凜ちゃんだけは失いたくない。なのに……。
凜ちゃん!
祭壇の上の凜ちゃんは穏やかに瞳を閉じ、ピクリとも動かない。




