32 祭壇
「もういいから、降ろして。自分で走れる」
クリスがそっと床に降ろしてくれた。
川の流れる音が絶え間なく空間を埋めている。それ以外の音は何もない。ぼくとクリス以外の息遣いがない。悪霊も化け物も、もちろん連城先生の息遣いも……。涙が零れ落ちた。連城先生はぼくが小4の時に引き取ってくれて以来、この6年間、ずっと一緒にいてくれた。修行ではいつも厳しいけど、反面どこまでも優しかった。
「わたしはお前を生かすために生きている」そう言って憚らず、自分の生活の全てを注ぎ、持てる知識の全てを教えてくれた。なのに、連城先生に何のお返しもできないなんて。お礼も、何も伝えられないなんて……それだけじゃない。連城先生を「おじいちゃん」と呼ぶことさえかなわなかった。連城先生はぼくと血のつながったたった一人の家族だったのに……涙があふれて止まらない。
「いつまで泣いている」
クリスの冷たい声が響いた。
冷徹極まりない瞳に唖然とした。次いで腹が立った。あの時、一緒に戦っていれば、先生はあんなところで命を落とさずに済んだかもしれないのに。そう思うと悔しくて涙が止まらない。
「気持ちは分かる。しかし泣いている暇は……」
「分かるもんか! 自分の大切な人を亡くす気持ちなんて、絶対分かるわけがないんだ」
瞬間、クリスに胸倉を掴まれ、殴られた。
「その気持ちを2度と味わいたくなかったら、これ以上大切な人を亡くさないようにしろ」
クリスの青い瞳が悲しみに燃えている。
湖の底のような目は深い悲しみの色をたたえ、数えきれないほどの涙を流してきたことを物語っている。今、涙を流しているわけじゃないのに、全身で嗚咽しているようだ。大切な人を亡くした気持ちを、クリスは骨身にまで知り尽くしているんだ。
「海人、殴って悪かった」
クリスが差し伸べた手をつかんだ。力強い手に引っ張られながら、
「クリスの言うとおりだ。先を急ごう」
涙を拭って、足を速めた。
☆☆☆☆☆
前方に四角い入り口が見えた。あそこが連城先生の言っていた地下神殿に違いない。
仄かな灯りが漏れ、突風のような強い風が吹きつけてくる。そのせいで急にあたりの温度が下がった気がする。凍るような風の中を逆らうように、しゃにむに走った。勢いよく入り口に突っ込もうとして、ぐいっとクリスに首元を掴まれ、引き戻された。見ると、急階段が下に伸びている。危うく転がり落ちるところだった。焦って下を覗いて、そのまま息が止まりかけた。
コロシアムのような、すり鉢状の階段の下、そこに湖があった。湖の中央にせり上がるように円形の祭壇がある。
祭壇の四か所には古代神殿を思わせる円柱がまっすぐに伸び、その上に大きな松明の炎が怪しく揺らめいている。その踊り上がるような炎が織りなす明かりの中、円形の祭壇の中央には黒い石のベッドが据えられ、凜ちゃんが寝かされている。
一瞬、凜ちゃんが何も身に着けていないように見えた。胸元と足元が大きく開いた白いノースリーブのドレスは体に吸い付き、裸よりもなまめかしく、肌の白さを際立たせている。その凜ちゃんは手を豊かな胸の上で組み、王子様が来るのを待ちわびる白雪姫のような姿で眠っている。泥臭い地下の暗い空間にあって、沼地に咲く清らかな白い蓮の花のように美しく、そこだけが異様に、際立って輝いている。
「凜ちゃん」
階段を一気に駆け下りた。湖に足を突っ込もうとした途端、
「待て!」
クリスに肩を掴まれた。
「何かおかしい。伊吹がいないなんて変だ。罠かもしれない」
「でも、ぼくは二度と大切な人を失いたくないんだ」
クリスの手を力いっぱい払いのけ、湖に足を突っ込んだ。
その途端、骨まで斬るような冷たさと、内臓をえぐりとるような悪霊の気に襲われ、吐き気と頭痛で目の前が白くなった。倒れそうになり、とっさに下唇を思いっきり噛む。しょっぱい血の味と痛みが気付け薬の代わりになった。
ここで倒れて気を失ったら最後、悪霊の気にひっぱられ溺死させられかねない。そうなったら二度と凜ちゃんを助けられない!
ガチガチ言う歯を食いしばり、大きな波紋と水音をたてながら必死に走る。走るというより、足を進めるごとに全身が重くなっていくせいで、ほとんど歩いているのと変わらなくなった。それでも、鉛のような体を前へ前へと押し進める。
中央の祭壇まであと少し! もう少し。あとちょっとで凜ちゃんを助けられる。やっと祭壇にたどり着いた。登ろうと手を伸ばしたその時、頭上を大きな影が覆った。はっとして見上げると、祭壇の上から黒羽伊吹がぼくを見下ろしている。
「待っていたよ」
奇妙に優しい声が響いた。
大きくて切れ長の瞳も通った鼻筋も引き締まった唇も、不思議なくらい美しい。その美しい顔がぼくからクリス、入り口へと順々に向いていく。綺麗な瞳に楽しそうな光がまたたいた。形のよい唇の片側が嬉しそうに上がる。
「連城和尚がいないところを見ると、私の家来たちと十分に楽しんでもらえたようだな」
「ふっ、ふざけるな!」
怒鳴り上げた。
「どうして連城先生を殺させたんだ! 連城先生はお前の育ての親じゃないか」
「殺させた? それはむしろお前だろ?」
黒羽が虫けらでも見るようにぼくを見下ろした。
「見殺しにしてここまで来たんだろ?」
心臓をぶん殴られたような気がした。血だらけになって化け物を食い止める連城先生の姿が鮮明によみがえってきた。先生を死なせた。強烈な罪悪感で心臓が悲鳴を上げる。胸が痛くて、息が苦しい。できることなら時を戻して、強引にでも先生の側にいたい。側で戦いたい。黒羽が魅力的な笑みを浮かべた。
「本当に愚かしいことだ。お前たちがここへ来るより、あの老いぼれ一人が来た方が、俺を止められたかもしれないというのに。いつだってあの老いぼれは選択を間違える」
黒羽が大声で笑い出した。
その時、突然黒羽が大きく上に飛んだ。クリスの魔法陣が黒羽に殺到したためだ。
「間違っているのはお前の方だ。必ずお前の野望は打ち砕く。この日本に残されている結界だけは必ず護る」
「リー一族の悪い癖だな。表現がいつも大袈裟でいけない」
黒羽が魔法陣に向け、奇妙な形で印(逆さ印?)を結んだ。すると、クリスの作り出した魔法陣が黒い炭のようになり、ボロボロと床に落ちた。
「しかしお前がここまで来るとは意外だよ、クリストファー。恋人を殺されただけでは飽き足らないらしいな」
クリスの眼に凶暴な色が浮かんだ。指揮棒を握りしめ、弾丸のように黒羽めがけて跳躍する。黒羽が不敵な笑みを浮かべ、手を横に動かした。途端に空気に歪みが生じ、そこから黒い槍が現れ、風を切るようにしてクリスめがけて一斉に放たれた。
「クリス」
叫んだ瞬間、クリスの体が空中で槍に貫かれた。何本もの槍がしたたかに突き刺さっている。と思ったのもつかの間、槍がさしていたのはクリスの残像で、槍はクリスの体でとどめてもらえず、むなしく地面に落下した。
黒羽の眼が驚きで大きく見開かれた、その見開かれた目がクリスの存在を捉えた時には、クリスが黒羽のすぐ近くにいた。足元にいくつもの魔法陣を作って空中を飛び、黒羽めがけて指揮棒を振り上げている。
「これで終わりだ」
大量の金色の魔法陣が指揮棒の先端から現れ、黒羽めがけて一斉に飛んだ。あたりにいくつもの閃光が走り、光の魔法陣が黒羽の体を埋め尽くす直前、黒羽の眼が不気味に紅く光った。途端に光輝く金色の魔法陣が、一瞬で全て真っ黒な狐に変わった。黒狐は向きを変え、クリスに襲い掛かろうと、牙を剥いた。
まずい! あんな至近距離じゃ避けられない。
連城先生の金剛杵を掲げた。
「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドラジンバラハラハリタヤウン」
光の玉が金剛杵の両端から現れ、火花を散らしながらクリスの元へ素早く飛んだ。黒狐に襲われる寸前、黄金の光がクリスを包み込んだ。その光で黒狐たちが跳ね返されていく。
やった!
「クーカイ」
柔らかい声に凍りついた。黒羽が、ぼくのすぐ右横、息も触れんばかりのところに立っている。
そんな、いつの間にこんな近くに? 近づいてくる気配を全く感じないなんて!
「お前に最後のチャンスをやろう」
かっ、体が動かない。
「俺に仕えろ。そうすればもう苦しい修行もしなくてすむ」
神経を蝕むような甘い声――ふいに意識が飛んだ。次の瞬間、真夏のじりじりとした太陽が頭上に現れた。蝉しぐれの中、陽に焼かれるようにして山道を歩いている。
足が痛い、身体が重い、身に着けている物を全ておろしてしまいたい。ふらふらになって歩いていると、太陽の光がまぶしく反射した。途端に木の根に足をとられ、山道を滑り落ちた。地面に背中を激しく打ち、強烈な痛みが走る。痛みに呻いた。転げた場所には陽ざしを遮るものがない。太陽に焦がされそうだ。水を飲もうと手を伸ばして血の気が引いた。転がり落ちた拍子に水筒が飛んでしまったらしい。喉が、唇までカラカラに乾いていく。震える手で、なんとか法衣の汗を絞って口に運び、渇きを凌ぐ。
「こんなことをして何になる?」
どこからか黒羽の涼やかな声が聞こえてきた。身体中の痛みと強烈な乾きに呻き声しか出ない。
「何のためになる?」
その言葉が乾いた心と頭を激しく揺さぶった。
そうだ、ぼくは一体なんのためにこんな苦しい思いをしているんだ? 自分が生きるため? 周囲の人を、みんなを護るため?
「なるほど、他人のためとはご立派なことだな」
黒羽の声で、熱い太陽と山道が消え、目の前に賑やかな街の景色が現れた。高校生くらいのカップルもいれば、家族連れもいる。みな楽しそうに歩いていて、どの顔も輝いて見える。いつか見た光景だ。
「見ろ、世間の連中はお前の苦労や苦痛、苦悩とは何の関わりもない。お前が世間の連中のため、そんなにも大変なことをしているなど知りもしない。もっとも、みんなを護るために苦行をしていると知ったところで、世間の連中は『頼んだ覚えはない。お前が勝手にやっているだけだ』と言うだけだ。それから……」
向こうからお義父さんとお義母さんが詩織の手を引いて歩いてくる。楽しそうに笑いあいながら。
「お前が彼らを助けるのは当然でも、彼らはお前を助けてくれるか? 助けてはくれないだろ? 絶対に」
伊吹の声に呼応するように、頭上に勢いよく流れ落ちる滝が現れた。骨を切るような冷たさに、息が止まりかける。刃物のような冷たい水温に全身が、心臓までもが凍りついてしまいそうだ。
「何故自分ばかりがこんな辛い思いをしなくてはいけないのか。自分は何のために生まれてきたのか。どうして生きているのかさえ分からなくなるだろ」
伊吹の声に足元がぐらついた。お腹に力を入れ、倒れないよう、なんとか足を踏ん張らせる。
「教えてやろう。その苦しみの原因は、お前が望まれて産まれてきた子どもではないからだ。汚らわしくも亮太は同情から飛鳥を抱いた。それ故、亮太はお前を堕ろすことを望んだ。飛鳥だってそうだ。飛鳥が、お前の母親が愛していたのはこの俺だけだ。しかし既に堕ろせないところまできていた。だから嫌々ながら、亮太との子を産んだ。お前など所詮は偶然の産物。誰からもその誕生を望まれていなかったんだ」
足から力が抜けた。今まで自分を支えていた、支え続けていた力が全て抜けるように湖の中に倒れこんだ。
ごぼごぼという水音を聞きながら、暗い湖の中を、底へ底へと沈んでいく。汚い水槽のような、コケとも魚の死骸ともつかない生臭い匂いに我に返った。悪霊の気を帯びた水が鼻や耳に侵入しようとするのを、両手をバタつかせて払う。
その時、水草に絡みつかれた。苦しさにもがいた。しかし、もがけばもがくほどからみつく。息が、苦しい。このままぼくは死んでしまうの? ふいに強烈な恐怖に襲われた。このままだと湖の底に眠る悪霊たちと共にここから永遠に抜けられなくなるんだ! 恐ろしさに震えあがった。その時、目の前に力強い白い手が現れた。
「お前の辛さ、俺なら分かる。よく分かる。分かるのは俺だけだ。さあこの手をとれ」
手がゆらりと逆さ印を結んだ瞬間、水草がぼくの身体を放した。まるで命じられた看守のように。
「俺に仕えれば、もうお前を狙うことも襲うこともしない。お前の周りの人間もだ。どうだ? こんなに素晴らしいことはないだろ。そう深く考えるな。簡単なことだ。この手を掴めばいいだけだ。さあ早く楽になれ」




