3 けはい
その晩、夢を見た。
塗りこめたような黒い闇を縦に真っ二つに裂いている白い線。良く見るとそれは砂時計の砂のように流れ落ちている。輝くような白い粒子を見つめていると、
「……カイ……クーカイ」
闇から染み出るように男の人の声が聞こえてきた。
「きゃあああ」
悲鳴を上げて布団から跳ね起きた。一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ゆ、夢?
とっさに机の上のカレンダーを見た。
6月17日、今日は誕生日じゃないのに、どうして……
奇妙だった。初めて誕生日以外の日にあの夢を見た。でも変なのはそればかりではない。
「クーカイ……」
音のない世界で初めて聞いた声。妙な気分だった。初めて聞いたのに、どこかなつかしい。うれしさがこみ上げてくるのに、なんだか悲しい。実に奇妙な感覚だった。
それにしても、クーカイって何なんだろう――。
考えてみても分るものではない。ゴロリとベッドに横になると、いつの間にかウトウトと眠ってしまった……。
二度寝しなきゃ良かった。
走りながらそう思った。長ぐつに雨が入ってきて気持ち悪い。けど走り続けなきゃいけないし。傘もランドセルまでいつもより重く感じる。
「海人!」
雨に濡れた桜並木を、若菜ちゃんが赤いカサを揺らしながら駆け寄ってきた。
「若菜ちゃんも寝坊したの」
「まあね、昨日すごいことがあったから」
「すごいことって?」
若菜ちゃんは、器用にも走りながら、レインコートのポケットに手をつっこみ、
「河原に行ったら本当にあったの」
大切そうに小さな石を見せてきた。
「えっ」
息を飲んだ。べったりと血がついている。
「わっ、わっ、若菜ちゃん、それっ」
「そおなの。昨日のお告げ通りよ」
「違うよ、その石、血がついているよ」
「失礼ね、血じゃないわよ。これは模様よ。しま模様」
しま模様なんかじゃない。石には血がついている。ゾッとするような嫌な色。そして鼻をつく悪臭。足を止めると、驚いたように若菜ちゃんがふり向いた。
「海人、どうしたの。遅刻するわよ」
「若菜ちゃん、あのね……怒らないで聞いて………その石捨てた方がいいと思う」
「何よ、急に。今日の海人、変よ」
確かに変だ。何かがおかしい。
「でも、その石、血がついてるんだよ」
「わたしのお守りに変なこと言わないで」
ピシャリと言うと、若菜ちゃんは駆け足で校門をくぐって行った。
妙な感覚は学校に着くと、もっとひどくなった。
扉を開けると、教室全体が霧がかっている。驚いて目をこらすと、みんな一人ひとりが背中に何かを背負っているのが見える。
それは、光を放っているものもあれば、モヤのようなカスミのようなボンヤリとしたものもある。そして不思議なことに、仲の良い子達は背負っているものの色や種類がよく似ているのに気づいた。
教室の端っこでふざけあっている岡君と田無君は、灰色のモヤのようなもので、二人共すごくよく似ている。サッカークラブの隼人君と亮太君は、赤い色の光で、やっぱりよく似ている。
「楠君、宿題やった?」
隣の席の小早川凛ちゃんがランドセルを下ろしながら聞いてきた。
その姿を見た途端、息を飲んだ。凛ちゃんはクラスでも目立たない、おとなしい子なのに背中からの光はまばゆい白、その白をさん然たる金色が縁取っている。
こんな光があったなんて……。
「知らなかった」
「えっ? 算数の宿題出てたわよ」
「そっ、そうだったよね」
恥かしくなって、机の中を探すフリをした。まぶしくて見ていられない。
その時、先生が教室に入って来た。
「おはようございます。今日はみなさんにうれしいお知らせがあります。昨日作文コンクールの受賞発表会があり、小早川さんが大賞を取りました」
先生の拍手と共にクラス中が拍手で包まれた。凛ちゃんが恥ずかしそうにうつむくと背後の白い光から白梅の香りが漂ってきた。
ああ、なんて気持ちのいい。いい香りなんだろう。
「凛ちゃんって、すごい」
「そんなことない。運が良かっただけ」
凛ちゃんがほほ笑んだ。これは運だけではない。なんとなくそう思えてならなかった。
放課後、帰ろうとすると、隣のクラスから出てきた若菜ちゃんに呼び止められた。
「海人、お願いがあるんだ」
今朝のことで、何となく気まずい気がしたけど、若菜ちゃんは眼をキラキラさせている。もうすっかり忘れてしまっているようだ。
「ちょっとだけ付き合ってほしいの、旧校舎まで」
“旧校舎”と聞いて、縮み上がった。
「嫌だよ、ぼく」
「お願い、一生のお願い」
「昨日言う通りにしたじゃない」
走って行こうとすると、
「昨日のこと、おばさんには言わないから」
若菜ちゃんの冷たい声に驚いてふり返って、はっとした。
「何よ、変な顔しないでよ」
若菜ちゃんがふくれた。でも、気のせいか若菜ちゃんの顔が、まるで影がさしたみたいに暗く見える。
「お願いよ、海人。どうしても、もう一回やりたいの。知りたいことがあるの」
切々といった感じで、若菜ちゃんはお祈りをするいつものかわいらしいポーズをとった。
旧校舎に向かおうと体育館を曲がったところで、凛ちゃんに呼び止められた。
「どこ行くの?」
「どこだっていいでしょ」
若菜ちゃんが、そのまま歩きだそうとすると、凛ちゃんがうつむいた。
「また旧校舎に行くの?」
ドキッとした。しかし、若菜ちゃんはまるで動じない。
「何で知ってるの」
「わたし、昨日コンクールの受賞発表会に出るため学校にしばらくいたんだけど、その時旧校舎に入って行く二人を見ちゃったの」
「なるほど、それで連城先生がいたんだ……」
若菜ちゃんが納得したようにつぶやいた。
「連城先生がどうしたの?」
「何よ、言いつけたくせに」
「言いつけてなんかない。ただ旧校舎には妖怪が出るってウワサがあるし、地震が来たとき危ないって言われてるし、近寄らない方がいいと思うの」
若菜ちゃんが嘲るように声を上げて笑った。いじわるそうな声、バカにしたような表情……。今、目の前にいる若菜ちゃんは、いつもの勇者ではなく、時々見せるはにかんだ、かわいい若菜ちゃんでもない。まるで別人のようだ。
「小早川さん、おどしているつもり」
「ただわたしは心配しているだけよ」
若菜ちゃんの眼がさらにきつくなった。
「なにそれ、良い子ぶっちゃって。本当は先生に、ほめられたいだけじゃないの。何よ、だいたいあの作文だって、私が前に書いた作文を真似ただけじゃない」
「そんな……」
凛ちゃんがショックのあまり言葉を失った。その目があまりに痛々しい。いたたまれなくなって思わず口を開いた。
「若菜ちゃん、その言い方ひどいよ」
「何よ海人、小早川さんのこと好きなの?」
「わたしは」
凛ちゃんが涙ぐみ、小刻みに震えだした。
「昨日のこと誰にも何も言ってないし、何も言わない。ただ止めた方がいいって思っただけだから」
凛ちゃんはクルリと背を向けると、走りだした。ランドルを揺らしながら。
ああ、純白で金の縁取りがある光が行ってしまう。
遠ざかる光を見つめながら訳もなく悲しさがこみ上げてくる。次の瞬間、その光を追って走り出した。
「どこ行くのよ、海人」
穏やかな声にふり返った。若菜ちゃんは何事もなかったようにほほ笑んでいて、いつの間にかいつも通りに戻っている。
旧校舎の中は、昨日より暗い気がした。天気は昨日と似たようなものなのに不思議と闇を感じる。保健室はさらにひどかった。窓があるのに、一切光を感じない。
「暗くてよく見えない」
「待ってて」
若菜ちゃんがスマホを取り出したんでギョッとした。学校には持ってきてはいけないことになっているはずなのに……。若菜ちゃんがスマホのライトをつけた。
「ほら、これなら明るいでしょ」
とんでもない。余計に暗さを感じる。しかし若菜ちゃんはまったく気にならないらしく慣れた手つきで紙を広げている。そして……
十円玉の上に指を乗せるやいなや、若菜ちゃんが嬉しそうに口を開く。
「コックリさん、コックリさんおいでください」
“はい”を十円玉が囲むように動いたその時、震えあがった。
得体のしれない“何か”が十円玉の中に入ってきた。
ドクン、ドクン、ドクン
十円玉から鼓動を感じる。何かの生き物の鼓動。それも速い。でも、全身の震えが止まらないのは、この身がすくむような感覚は、指の下の鼓動から感じられるものじゃない。
誰かに見られている!
その気配を感じる。この暗闇の中、こちらをじっと伺うものがいる。刺すような視線、と息づかいが、もうひとつある。
こっちの方が落ち着いた規則的な鼓動だ。しかし若菜ちゃんは十円玉の鼓動や刺すような視線にはまるで気づかないらしく、「ママとパパを仲直りさせるにはどうしたら良いですか」 と、質問をしている。
ああ、コックリさんなんて、断れば良かった。でも、いまさらもう遅い。何かに操られるように指が動く中、どうしたらいいか、必死で考えた。
指先のこの鼓動はまだいい。何となくそう思う。しかしさっきからこちらを伺っている視線が気になる。
妙な胸騒ぎを感じてこっちの鼓動まで速くなる。どうも“それ”はこの部屋の外にいるらしい。ヒタヒタと近づこうとしてはまた離れる、を繰り返している。でも視線だけは動かない。
「いつパパが家に帰ってきますか」
若菜ちゃんは質問を続けてるけど、いい加減、もう止めないといけない。外にいる“それ”がここに入ってきたら、ぼくたちの方が二度と家に帰れなくなる。
いや。身体がブルブルッと震えた。それだけじゃない。とんでもなく恐ろしいことになる。
でも若菜ちゃんはいつになく真剣だ。質問の内容も、若菜ちゃんのお父さんとお母さんのことばかりで……知らなかったけど、若菜ちゃん家って、複雑みたいだ。鋭い視線を感じ首筋が冷たくなった。
「若菜ちゃん、もう止めよう」
若菜ちゃんのスマホが鳴った。画面には“パパ”という表示が見える。慌てて若菜ちゃんが、
「コックリさん、コックリさん、お帰りください」
と言うと、十円玉が“はい”を囲んだ。
「パパ、どこにいるの? 早く帰ってきて」
若菜ちゃんがスマホに飛びつくようにして叫んだ時、十円玉の中の何かが、フッと消えた。すると、ジッとこちらを見つめていた視線も、不思議となくなった。