29 手がかり
「凜ちゃん」
叫び声が夕暮れの空に虚しくこだました。
東の空は地平線から群青、青、藍と変わり、星がまたたき始めており、西の空では、太陽が今日最後の光を投げかけている。穏やかな日没だった。腕の中の若菜ちゃんは眠っているようにぐったりとしている。ただクリスが掴み上げている楠木詩織だけが手足をバタつかせ「放して、キンキンを生き返らせるんだから」と叫んでいる。
顔を上げ、東屋をもう一度見やった。目の錯覚で見えているはずのものが見えていないだけであってほしい。しかし、東屋ではイズルが地面に伸びているだけで、黒羽伊吹の姿も凜ちゃんの姿もない。
あのバラの咲く庭で、凜ちゃんのことを護るって約束したのに、絶対に護るって約束したのに。なのに! 凜ちゃんを黒羽に連れ去られてしまうなんて、それもぼくの目の前で!
2人が消えた後、漆黒の魔法陣が描かれていた跡から、邪気が黒煙のように立ち上り、風に吹かれている。途端に黒羽の『日記』のページが記憶の中に蘇り、黒羽のどす黒い感情が頭の中にどっとあふれた。
黒羽が凜ちゃんをどうするつもりなのか。黒羽の『日記』を読まされたというよりほぼ疑似体験させられた後ならはっきりと分かる。悪霊や黒狐の餌にするなんて生ぬるいことはしない。
自分の野望を満たすための犠牲にするつもりなんだ。あの清らかで美しい魂が喰われてしまう。そして無残にも凜ちゃんは殺される。そう思った途端、頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。
「なんて顔してんだ」
クリスがあきれ顔で言った。
「だって凜ちゃんが、このままじゃ凜ちゃんが……」
「だからって絶望をするな。胸を張れ。最後まで希望を捨てるな」
「でもどうやって! 凜ちゃんを一刻も早く見つけださないと危険なんだ。どこへ消えたかも分からないのに!」
「少しは落ち着け。あの子はあれで、かなり強い力で護られている。黒羽といえど、簡単には手を出せないはずだ」
「どうして、そんなことが分かるんだ」
「リー一族の力だ。あの凜ちゃんって子は、かつて空海に秘儀を授けた恵果阿闍梨の系譜だ。俺は、黒羽の『日記』の世界に飛び込むために、いい加減、嫌になるほど多くの魔法陣を使ったが、あの子はお前への想いだけで飛び込んできた。それだけの力を秘めているんだ」
「でも、凜ちゃんは護ってあげないと……」
ふいに凜ちゃん家の庭で、カモノハシの悪霊に手枷首枷をはめられ、歩かされている姿が浮かんだ。すると何故かクリスの顔がパッと赤くなった。
「お前って真面目そうな顔して、意外とやらしいな」
「どういう意味だ」
「俺、心の中を読んだり覗いたりできるんだが、お前が、想像とはいえ、凜に透け透けの恰好をさせるなんてな。しかもかなりのディテールで……」
「ちっ、違う。想像したんじゃなくて、本当にあったことを思い出していただけだ。一昨日も凜ちゃん、襲われたから」
「何! 一昨日も凜は襲われていたのか」
「ああ、狙われていたんだ。以前から新興宗教の……」
“教祖に”と言いかけた瞬間、あっとなった。そうだ。それがイズルだったんだ。若菜ちゃんの除霊に必死になりすぎて、イズルが「教祖として」とか「除霊ができる」とか言うのを深く捉えていなかった。イズルこそが、あの木村さんも信奉していた宗教の教祖だったんだ。そして、その背後にいたのが黒羽伊吹!! クリスが深く頷いた。どうやら心の中を読んだらしい。
「しかし、一体なぜ? どうしてそんな手の込んだことをする? なんで凜にこだわる? 恵果阿闍梨の系譜だから? 過去の恨みって言ったって1700年も前のことだし、いい加減しつこすぎるだろ」
クリスが顎に指をからませ、考え込むようにした。
視線を彷徨わせていたクリスが急にハッとした顔になった。
「まさか!」
その時だった……
「クーカイ」
朗々とした2つの声が響いた。
夕空を背景に二つの影。二人とも背が高く、大柄。一人は杖をついている。ぼくとクリスは同時に叫び声を上げた。
「連城先生」
「モンセニョール」
連城先生と、黒いローブをまとった神父さまが歩いてくる。神父さまはぼくに静かに歩みよると、
「マドモアゼルとあそこに倒れているムッシュは病院に運びます。心配ありません。救急車は呼びましたから」
と微笑んだ。
「海人、エドモンド神父は悪魔祓いやメンタルケアが得意でおられる。その子を預けなさい」
連城先生が言うより早く、神父さまは若菜ちゃんを、ぼくの手から地面にそっと横たえさせた。
「モンセニョール」
クリスが、野兎のように手足をバタつかせている詩織をエドモンド神父の方へぐいっと押し出した。
「この子も病院に運びますか」
「いいえ、クリス。その子はケガはしていませんのでその必要はないでしょう。それより、その子を地面に降ろして差し上げなさい。その子は小リスではないのですよ」
クリスがしぶしぶ地面に詩織を降ろした。地面に足がついた途端、すぐに逃げ出そうとした詩織の両肩をクリスが抑えつける。エドモンド神父は詩織の眼の高さまで腰を折ると微笑した。
「私はエドモンド・ルクレール。フランスのロワール地方にある教区で神父をしています。お嬢さん、イブキ・クロハの居場所を教えていただけませんか」
「知らない」
「知っていることだけでもいいのです。教えていただけませんか」
「知らない!」
「人の命がかかっているのですよ」
「知らないって言っているでしょ!!」
詩織はプイっと顔を背けた。詩織は黒羽を親し気に“伊吹”って呼んでいた。もしかして本当は何か知っているかもしれない。
「詩織、もし知っているなら教えてほしい」
ぼくは初めて義妹に話しかけた。すると詩織がびっくりしたようにこちらを向いた。
「お義兄ちゃんなんて嫌い! 大っ嫌い!」
詩織の眼に涙が盛り上がっている。
初対面の義妹からここまで嫌われるなんて、ちょっと(いやかなり)ショックだ。詩織の眼から涙がこぼれ落ちた。
「お義兄ちゃん、詩織のかわいいキンキンを殺すなんて、ひどいよ。産まれてからずっと一緒だったのに」
「あれは悪霊だ。詩織と一緒にいれば、いずれ詩織を喰いつくす」
「喰いつくす?」
「詩織を食べちゃうってことだ。あいつは詩織が十分に成長し、食べごろになったら食べる気でいたはずだ。最近お肉だけじゃ足りないって言っていたのだってその兆候だ」
詩織がちょっと震えた。
「嘘だ。キンキンはお義兄ちゃんよりお兄ちゃんみたいだったんだから。詩織を食べるはずがない。それなのに詩織からキンキンをとるなんて」
「だから、とったんじゃなくて」
詩織が大声をあげて泣き始めた。
「海人は女性の扱いが慣れていないな」
クリスが詩織を自分の方に向かせた。しゃがみこむと、透き通るような青い瞳を熱っぽくきらめかせ
「マドモアゼル、かわいい顔は泣くと何倍も可愛いって言うけど、本当にその通りだね」
うわっ、6歳児に言うことか? ぼくは真っ赤になりながらクリスを睨んだ。
「さあ、かわいらしいマドモアゼル。俺に黒羽の居所を……」
「おじさん、気持ち悪い」
詩織の声が冷たく響いた。クリスの眼に青い炎が燃え上がる。
「このガキ、頭かち割って、脳髄ん中覗くぞ」
「いっ、義妹になんてこと言うんだ」
ぼくは慌てて、クリスの手から詩織を奪った。
詩織の顔に驚きが走り、やがてぽろぽろと大きな涙を流し始めた。詩織を優しくあやすように抱きしめる。
「大丈夫だよ、詩織、何も怖いことないから。あのお兄ちゃんには手出しさせないから」
すると詩織がさっきよりも激しくぎゃんぎゃん泣きはじめた。
「分かったよ、詩織。黒羽の居所は知らないんだよね。分かったから。もう泣かないで」
「泣き止まんか!」
連城先生の一喝で、その場が静まり返った。
「ここでこんな風に時間を使っている暇はない。エドモンド神父、この子のことも頼みます」
エドモンド神父が詩織に手を伸ばし、ぼくの胸から引き離すようにした。
「さあ、連城さんたちはもう行ってください」
連城先生とクリス、ぼくは立ち上がり、公園の出口に向かって歩き出そうとすると、
「待って」
詩織が口を開いた。
「地下水殿って、以前言っていた」
びっくりして振り返る。
「地下水殿? 地下水殿って、一体どこにあるんだ?」
「地下水殿は、この国の……あれ……言えない」
詩織は戸惑ったように手で口を押さえた。
「言ってくれ、詩織。この国のどこなんだ?」
詩織は言葉ではなく、ゲロを吐いた。
「これ以上は酷だ」
クリスが首を横に振った。詩織はエドモンド神父に背中をさすられている。
「あの子の心にはロックがかけられている。もやがかかっていて俺にも何も見えなかった」
「心の中を覗いたのか」
「既にね。もしロックをかけているのが本人なら、上手く聞き出しさえすれば、ロックが外れて、見えると思ったんだ。けど、違った」
「つまり、それって」
「黒羽によって記憶にロックがかけられているってことだ。あの子にこれ以上聞くのは無理だ」
ぼくは口元をぬぐっている詩織をもう一度抱きしめた。
「ありがとう、詩織。教えてくれて」
詩織が腕を突っ張り、ぼくを遠ざけるようにした。
「これでお義兄ちゃんが死んだら、詩織、許さないから!」
詩織の眼に新たな涙が浮かんだ。
「お母さんとお父さんをこれ以上泣かせたら許さないんだから!!」
「え?」
「お義兄ちゃんのせいで、お母さんとお父さん、夜によく泣いているんだから。『海人はきっと大丈夫』『家に帰ってこないのは頑張っている証拠だ』とか言いあって。それで最後は決まって『海人が、詩織のお義兄ちゃんが今日も一日健康ですごせますように」って2人で祈っている。もしもお義兄ちゃんが死んだら、お母さんとお父さんはずっと泣き続けると思う」
心が震えた。ああ、お義母さんもお義父さんもぼくのことを忘れてなんかいなかったんだ。6年前のあの日、抱きしめてくれた温もりが身内に蘇ってきて、泣きそうになる。涙がこぼれないよう、唇が震え出さないよう注意して口を開く。
「詩織、お義母さんとお義父さんを頼んだよ」
さっと立ち上がって、背を向けた。
「絶対帰ってきてよ。お義兄ちゃん。そしたら詩織、キンキンのこと許してあげるから」
振り返らなかった。振り返ったら号泣してしまいそうだ。クリスが、無言でぼくの肩に手をかけた。連城先生も何も言わない。
ぼくは大きく息を吸い、一度吐きだしてから、
「行きましょう、凜ちゃんを助けに」
と言った。




