28 賢者と愚者
詩織と言う名前に反応したように、女の子がこっちを見た。
クリッとした目はお義母さんに、小さい鼻と唇はお義父さんに似ている。なんで、どうして、ここにいる? お義父さんとお義母さんと幸せに暮らしているんじゃなかったのか?
そう思った瞬間、6年前の夜を思い出した。お義母さんのお腹に義妹がいる時、体の中に黒狐が入った。あの時、もっときちんと祓うべきだった。
「お義兄ちゃん」
詩織がにっこりとほほ笑んだ。
「あのね、キンキン、お腹空いているんだって。最近、詩織があげるお肉だけじゃ足りないんだって。やっぱり人のお肉がいいんだって」
黒狐をなで上げた。
「でもお義兄ちゃんがいじわるして、キンキンにお肉くれないんだ」
詩織が何もないところに向かって話しかけた。
「どうしようか、伊吹」
すると水の中に墨汁でも垂らしたように、空気中に闇が広がった。その闇が形をなし、黒羽伊吹が現れた。
咄嗟に金剛杵から光の球を繰り出す。クリスも指揮棒の先を素早く動かし、光の球を繰り出した。2つの光の球は七色に輝きながら、黒羽めがけて飛んでいく。光がぶつかる寸前、黒羽が人形を自分の前に盾のようにしておいた。悲鳴が上がった。人形の口から。いや、あれは人形なんかじゃない! キャミソールにミニスカートを着た女の子! 若菜ちゃんが崩れるようにしゃがみこんだ。
「若菜ちゃん」
咄嗟に飛び出そうとした時、クリスに腕を掴まれた。
「止せ、この魔法陣から出るな」
「でも若菜ちゃんが!」
クリスの腕を振りほどこうと、もみ合っていると、黒羽の冷たい声が響いた。
「詩織、この若菜を餌にするといい」
「本当に? いいの? でもこの子、イズルの大切な子なんじゃないの?」
「まさか。単なる捨て駒さ。いくらでも代わりはいる。そうだろ、イズル」
黒羽の後ろに控えていたイズルが立ち上がると、若菜ちゃんの側にしゃがみこんだ。
「イズルさん。嘘でしょ……わたし全てをあなたに捧げてきたのに」
イズルが若菜ちゃんの長い髪の毛を引っ張り、強引に立たせると、お腹を蹴り上げた。毬のように跳ね上げられ、若菜ちゃんが地面に叩きつけられた。
「若菜ちゃん」
ぼくの叫び声なんか耳に入らないのか、若菜ちゃんはイズルに向かって這い始めた。
「待って、見捨てないで。今度こそ絶対、絶対役に立つから」
若菜ちゃんの顔は涙でボロボロだ。服も土に汚れてぐちゃぐちゃだ。
「役に立つから」
「そうかい若菜。その気持はよく分かったよ」
イズルの眼は、まるで使い終わったティッシュでも見るように若菜ちゃんを見つめ、
「なら、黒狐の餌になって黒羽様の役に立つといい」
そう言うと、詩織に微笑みかけた。詩織の顔から弾けるような笑顔が浮かんだ。
「ありがとう、イズル」
黒狐よだれを垂らしながら、若菜ちゃんに向かって襲い掛かろうとしている。若菜ちゃんは動かない。その眼が絶望しきっている。気づくとぼくはクリスの手を振りほどいていた。
「バカ、止せ」
クリスの声を聞きながら、黒狐の口の中に金剛杵を突き立てた。
「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドラジンバラハラハリタヤウン」
黄金の光が金剛杵の突端にふくれ上がり、黒狐の体を割いた。黒い泥のような肉片がポタリポタリと辺りに飛び散った。
「キンキン!」
詩織がその泥をかき集めるようにしている。ぼくはぐったりとしている若菜ちゃんを抱き上げた。
「しっかりしてくれ、若菜ちゃん」
若菜ちゃんがうっすらと目を開けた。
「海人……わたし、もう嫌だ。こんな人生嫌! 生きていたくない。もう死んじゃいたい」
「ダメだ。そんなこと言っちゃダメだ。若菜ちゃん」
「海人……」
「今からでも遅くない。何度でも言う。遅いなんてことは絶対ない。若菜ちゃんはいつだって弱い人や困っている人の味方をする優しい人じゃないか。みんなから必要とされるスピリチュアルカウンセラーになれるから。だから死んじゃいたいなんて言っちゃダメだ」
「海人、ありがとう……わたし本当はね。小学校の頃、海人のこと……」
若菜ちゃんが囁くように言って、目を閉じた。
「若菜ちゃん、しっかりしてくれ」
叫び声を上げた。
「気を失っているだけだろ。それより、この子の方だ。黒狐を復活させようとしている!」
クリスの声にギョッとした。いつの間にか詩織を掴み上げている。
「放してよ、キンキンを元に戻すんだから」
ジタバタと詩織が暴れている。
その時だった。
「お前たちは揃いも揃って、本物のバカだな」
黒羽の声に振り返ると、魔法陣の上、凜ちゃんを腕に抱えて黒羽が立っている。
「賢者は過ちから学ぶが、愚者は何度も同じ過ちを繰り返す」
「凜ちゃん」
金剛杵を構え、凜ちゃんの元に走った。しかし地面から立ち上る黒い壁に阻まれ、跳ね返される。
「賢者は過ちから学ぶと言っただろ」
「魔法陣の下に男が倒れている。まさかその男を利用して魔法陣を書き換えたな」
イズルが、漆黒の魔法陣の中、うつ伏せに倒れている。
「そうだよ、クリストファー。リー一族の当主であるお前ともあろう者が今頃気づくとは、なんとも愚かしい。まあマダム・リーからその座を継いだばかりのガキには期待されるほどの力もなかったのであろう。マダム・リーの浅はかさは本当に嘆かわしい限りだ」
「マダム・リーのことを悪く言うな!」
「悪く言う? 事実だろ? あの女の浅知恵のせいで、飛鳥との仲が上手くいかなくなったんだ。リー一族の者は全員八つ裂きにしても足りない」
その言葉に、日記の中で見せられた映像が浮かんだ。そうか、クリスはあの横浜港の客船で会った黒衣の女の人の一族なんだ。クリスが鼻でせせら笑った。
「逆恨みも甚だしい。おばさまの助言も聞かず、悪霊に魂を売ったくせに」
「なんとでも言え。凜さえ手に入ればお前たちなどこわくはないわ」
黒羽の足元の漆黒の魔法陣から黒い土埃が立ち上り、渦のように回転した。突風が吹き、砂や小石が礫のように飛んでくる。ぼくは若菜ちゃんを、クリスは詩織を庇うようにした。強い風が止むと、黒羽は凜ちゃんと共に消えていた。
(第三部完 第四部に続く)




