27 黒羽の日記
周りの景色にひびが入り、そしてガラスが割れるように、景色が、連城先生が、本尊が、本堂が何もかも粉々に割れ始めた。
悲しみ、憎しみ、怒り、妬み。
あらゆるどす黒い感情が渦を巻き、大きなうねりになって、その粉々の背景を飲み込んでいく。渦の中から声が響いた。
(クーカイ、お前も俺と同じだ。愛する人に捨てられ、忘れ去られる存在)
違う! ぼくはお前とは違う。
(同じじゃないか。楠木夫妻は、お前より、自分たちの本当の子どもの方が可愛いに決まっているんだ。本当の両親である連城亮太と前島飛鳥は、既にあの世にいて、お前のことなんかこれっぽっちも想っていない)
嘘だ!
(お前だって思っただろ「自分は何のために産まれてきたんだろう」って。その気持ちよく分かるよ。お前の気持ちを真に分かるのは俺だけだ。どうだ? 俺と一緒にこの世を支配しよう。俺たちを捨て、無視し、離反する全てを足元にひれ伏させるんだ)
神経を蝕むような黒羽伊吹の声。あまりに長い時間、黒羽伊吹を体験させられていたため、一瞬、自分が誰だか、何が現実だか、分からなかった。自分の皮膚と黒羽の記憶には何の隔たりもないような気がした。溶けて、同化していくのを感じる――
瞬間、凜ちゃんの声が心の奥底から響いてきた。
―海人くん、あの時は本当にありがとう。どんなにくじけそうな時も、おじいちゃんが空から見守ってくれているって、海人くんのおかげでそう思えた。本当にありがとう―
そうだ、ぼくは、ぼくは楠木海人であり連城海人だ!! ぼくは黒羽伊吹とは違う!
(そうかい、なら死ね!)
その時だった。
「海人くん」
長い髪の毛を揺らし、青いワンピースを着た女の子・凜ちゃんが走ってくる。信じられない。
「凜ちゃん」
(この世界に、想いの強さだけで飛び込んでくるとは、さすがだな凜。恵果阿闍梨の系譜を継いでいるだけのことはある。しかしこの世界に飛び込んできたのがそもそもの間違いだ。ここは俺の日記の世界。生殺与奪は俺にあるのだから)
ぼくは凜ちゃんの手を掴んだ。ここが日記の中とは思えないほど、凜ちゃんの手は温かい。
(凜、もしお前が本当にクーカイを助けたければ、現実世界にいて、俺の手から日記を奪い、クーカイを捉えているページを開けばよかったんだ。恵果阿闍梨の魂の一部を宿しているとしても、所詮はその程度か。凜、お前は殺さないが、クーカイ、お前はここで死んでもらう)
「そうはさせない」
涼やかな声が響くと、足元に星形と月、太陽を組み合わせた光が浮かんだ。
(しまった、この紋様は!)
黒羽のうろたえる声が響いたかと思うと、体がふわっと持ち上がった。そしてジェット機が上昇する時みたいに、急上昇し始めた。頭上に白い穴が見える。その穴に吸い込まれるように上がっていく。全身に物凄い圧力がかかった。
☆☆☆☆☆
小川のせせらぎが聞こえる。
目を開けると、東屋の屋根が見え、はっとした。そうだここは若菜ちゃんの除霊に来ていた公園だ。隣のベンチに凜ちゃんが横たわっている。驚いて起き上がった。
しっかり握っている凜ちゃん手に指を添え、脈をみる。
よかった、正常だ。
「本当に間に合ってよかったよ」
男の涼やかな声がすぐそばで響いた。
傾きかけた太陽を背に、長身の金髪の男が立っている。
白いシャツに黒いパンツをすっきりと着こなし、まるで闘牛士のようないで立ちだが、目を引くのは、肩から斜めにかけている茶色い手のひら幅の革帯だ。
「二人とも怪我はないよな」
男がさっと片膝をついた。
後ろで一つに結ばれた透けるような金髪が、馬の尻尾のように動く。
とんでもなく美しい。ビー玉のような青い瞳、高い鼻梁、きれいな形の唇。その唇がごにょごにょ動き始めた。
何かの呪文?
そう思った途端、地面に大きな円とその中に星や月といったマークが浮かび上がった。
「とりあえず俺達の周りに結界を張った。黒羽がどこに潜んでいるか分からないからな」
そうだ! ここで黒羽伊吹に襲われたんだ。日記の世界に取り込まれて……しかし近くに黒羽の姿も若菜ちゃんの姿もない。
男が端正な笑顔を浮かべた。
途端に奇妙な感覚がした。初めて会うのに、この綺麗な顔にはなぜか見覚えがある。男がニヤリとした。
「なかなかの記憶力だ。俺達は産まれる前からの知り合いだ」
心で思ったことを今、口に出してた?
「うちの家系の特徴でね。心が読めるんだ」
「あなた一体……」
言いかけた時、凜ちゃんの身体が少し動いた。ゆっくりと瞼を開き、まぶしそうにしている。
「凜ちゃん、大丈夫?」
側にひざまずいた。凜ちゃんはぼくを見、ガバッと起き上がると急に泣き出した。
「よかった、海人くんが戻ってきてくれて。本の中にまるで魔法みたいに吸い込まれて行っちゃって……追わなきゃと思ったら、目の前に真っ白いページが現れて……その後は必死に海人くんの名前を呼んでた。なのに目の前が真っ白で、本当に恐ろしくって、恐ろしくって……」
ぽろぽろと涙を流し始めた。
「でもよかった、戻ってきてくれて」
「なるほど。その顔じゃ、狙われるわけだ」
だしぬけに男が言ったので、凜ちゃんが驚いてそっちを向いた。
「可愛すぎるから」
男はまばたきを忘れたように凜ちゃんを見つめながら、口元に甘い笑みを浮かべた。
「俺と結婚しないか、ma chérie(マシェリ※愛しい人)」
当惑する凜ちゃんの手を男が握った。ぼくのこめかみがピクピクする。
「俺は本気だよ、一生君を護らせてくれ」
凜ちゃんが真っ赤になって身を引くのと、ぼくが男の手を掴みあげるのとが同時だった。
「あなたは、一体誰なんですか」
「名乗らせたかったら、この手を放せよ、怪力」
思わず男の手を放すと、
「俺はクリストファー・リー・カイゼルベルグ。弘法大師空海の末裔で、別名クーカイ」
リーという部分に思い当たる節があったが、それ以上に直後に聞いた事が衝撃的過ぎた。弘法大師空海の末裔だって! クーカイだって! この人は一体? そう思った瞬間、男が凜ちゃんに向かって、片目を閉じた。
「君のために産まれてきた男さ。クリスって呼んでくれ」
なっ、なんなんだこの人は!
気障な仕草に呆れかえった時だった。ぴちゃぴちゃと沼地を走るような音が近づいてくる。東屋の左の方角からだ。しかしその方角に、いやこの公園に沼地はなかった。
空は今、茜色に暮れなずんでいる。今日を含めこの一週間は雨など一滴も降っていない。それはつまりこの音が異常だということだ。
足音が大きくなってきた。二足歩行の足音じゃない。四足歩行のものだ。金剛杵を拾い上げ、東屋の東側に立つ。いつの間にかクリスも隣に立っている。
「海人くん」
「凜ちゃんは下がってて。それでぼくの後ろを離れないで」
凜ちゃんが震えながら頷いた。
「俺達の後ろ、だろ」
クリスがウインクした。
その途端、地面の魔法陣が光を放つ。黒い塊が弾丸のように飛んできたが、地面から光の壁が立ち上り、黒い塊をはじき返した。それは黒いボールのようにくるくると転がり、小さな足元で止まった。
赤いエナメルの靴を履き、白い靴下、可愛いピンクのワンピースを着た6歳くらいの女の子。その子の小さな手が、黒いボール、いや、うずくまる黒狐をまるで飼い犬の背を愛撫するようにペタペタと触っている。
クリスが斜めがけした革帯のポケットの一つ。上から二番目のボタンをパチンと外し、中から素早く指揮棒を取り出した。そして狙いを定めるようにして、指揮棒の先端を女の子に向けた。光がクリスの身体に充満し、一気にその指揮棒の先に集まるのを感じる。思わずその腕を押さえた。
「何すんだ」
クリスがびっくりして怒鳴った。
「止めてくれ」
「はあ? あいつは見た目は子どもでも、れっきとした悪霊遣いだ。足元にいる黒狐が、お前にも見えるだろ。あの子が使役しているんだ」
「違う! あの子はぼくの義妹だ」
「何だって」
クリスが信じられないという顔を女の子の方に向けた。
「本当なのか」
「恐らく間違いない。楠木詩織だ」




