26 卒業前夜
卒業までの数か月――。
俺への噂は急速に収まっていった。反面、飛鳥は酷い噂にさらされていた。
「修学旅行の夜に、男と夜の街に消えた」とか「修学旅行後、病院に行ったのはアフターピルを出してもらうためだ」とか根も葉もない噂にさらされた。飛鳥は元々噂を気にするタイプではなかったが、あの夜以来、その笑顔にどこか寂しそうな翳りがさすようになった。
あの時、ちゃんと「少しは人を疑え!」と「信じすぎるな」と言えばよかった。
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卒業式の前日、俺は飛鳥に呼びだされた。
「わたしね、ここを離れて、東京の大学に行くことになったの。明日引っ越すんだ。伊吹は? 伊吹は卒業後どうするの」
「大学へは行かないつもりだったけど、後期試験で地元にある公立大学が受かったからそこに行く」
「そっか……わたしたち別々になっちゃうんだね」
飛鳥が寂しそうに空を見上げた。
「あの時の海の色みたい。もう一回、3人で海を見に行きたかったな」
飛鳥の眼に涙が浮かんだ。
「行けるよ。いつだって行けるじゃないか」
「でもあの頃と同じじゃない」
その言葉に胸をつかれた。あの夜、あの部屋で何をされたのか、飛鳥は何も言わなかった。病院の検査でも異常なしだったとしか言わなかった。本当は何があったのだろう。
「わたしね……ずっと言えなかったんだけど。本当は伊吹のこと、ずっと、ずっと好きだったの」
信じられなかった。
飛鳥が俺を見つめている。俺だけを見つめている。飛鳥がいれば、何もいらない。あんなに望んでいた寺を継ぐことも、秘伝も何もかもいらない。
飛鳥さえいれば!
なのに喉が詰まって、言葉が出てこない。
―それからあの少女は、飛鳥はお前のものにはならない、永遠に―
赤いドレスの女の言葉が頭の中に響いた。乱れたベッドに横たわる飛鳥の姿がちらついた。投げ出された足、はだけた着衣……あのどこまでも純粋でまっすぐだった飛鳥が……
「ごめん」
口をついて出たのはそれだけだった。
飛鳥の眼から涙がこぼれ落ちた。泣きながら走って行ってしまった。
「信じられない」飛鳥の眼がそう語っていた。走り去った姿に胸を突かれ、身体中に震えが来た。俺は一体なんてことをしてしまったんだ。飛鳥は、俺がどんなにひどい噂にさらされても関係なく接してくれていたのに。飛鳥が噂にさらされたら、俺は護ろうともせず、むしろ自分への噂が止んでほっとしていた。それだけじゃない。あの噂を広めている連中と同じような目で見てしまった!
「見損なわないで! わたし、親を見て、友達になるわけじゃないから。それにいい事があるから一緒にいるとか、そんなんじゃないから」
飛鳥はいつも、いつだってまっすぐに俺を信じてくれた。なのに俺は何を気にしていたんだ。飛鳥に謝らなくては! 激しい熱情に駆られ、走り出した。俺も好きだって伝えなきゃ!
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教室から飛鳥のすすり泣く声が聞こえた。その泣き声はあまりに痛々しい。傷つけて泣かせたのは俺じゃないか。教室に入ろうと扉に手をかけた時、
「そんな風に自分を責めるのは止せ」
亮太の声?
「でも、わたし何も覚えてないの。あの夜、宿舎で着替えようとしたら、制服のポケットから名刺が滑り落ちて、何だろうって思って、それを拾い上げたの。そこまでは覚えてる。後は何にも。気がついたら病院だった。3時間も何していたんだか……全く記憶がないなんて。何にも思い出せないなんて。やっぱりみんなが言うように、わたし……」
「止めろ」
「だって、体が割けるような痛みだけが残ってたんだよ。わたしきっと穢されて……」
「止せ」
「でも。伊吹だってそう思っているのよ。わたしをあんな目で……もう耐えられない。生きていけない」
「止めろって言ってんだろ」
亮太が飛鳥を抱きしめた。
「止めて! 亮太が穢れちゃう。わたしのせいで穢れちゃう」
「そんな風に自分を傷つけるようなことを言うな」
亮太の声が涙でくぐもった。
「俺は自分がどれだけ傷ついても構わない。自分の痛みなら耐えられる。でも飛鳥、お前が傷つくのは耐えられない。耐えられるほど強くない」
「亮太……」
「俺は昔からずっと飛鳥のことが好きだった。飛鳥さえいれば何もいらない。だから生きていけないなんて言うな」
飛鳥の腕が亮太の大きな背中に回り、その細い指が食い込んだ。
その瞬間、俺の心の中で何かが壊れた音がした。
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街を彷徨い歩いた。歩きながら、飛鳥を取り戻し、寺を継ぐ方法をひねり出そうとしていた。陽が沈み、夜になり、闇が訪れた。その静かな夜の空気が、闇が心の奥に平穏をもたらし、頭が冴えてくるのを感じた。すると一つの考えがまとまった。
“寺から亮太を追い出そう”
そうすれば飛鳥は自ずと手に入る――大丈夫、俺の頭脳をもってすれば、それに連城和尚は俺に全幅の信頼を置いてくれている。その日、俺はしばらく夜の街を歩き続けた。
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本堂の空気は冷たかった。
話したいことがあると言ったのは俺の方なのに連城和尚は既に待っていてくれた。
「先生、亮太のことなんですが」
連城和尚がぎろりと睨んだ。何もかも見透かすような眼。その眼に負けないように、わざと視線を落とす。
「修学旅行の晩に、幼馴染の前島飛鳥を無理やり抱いたんです」
「それだけか」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
「言いたいのはそれだけかと聞いている」
「それだけって、あいつ、いえ亮太は嫌がる飛鳥を強引に抱いて、傷つけたんですよ。純粋だった飛鳥の心と体を踏みにじった。そんな人間はもう僧侶になる資格なんてない!」
連城和尚が大きくため息をついた。
「資格がないのはお前の方だ」
「なっ、なんで、そんなことを……」
「なぜそんな嘘をつく」
「嘘じゃありません。あいつは強引に飛鳥を自分のものに……」
「お前が帰ってくる前、亮太と前島飛鳥さんが来て結婚をしたいと言ってきたよ。もし修行中だから許されないというのであれば、寺を伊吹に継がせてくれと。自分は僧侶を止めて、寺を出るとまで言ってな」
「そんな、まさか」
「あの二人は本気だった」
「それで、それでどうしたんです」
「もちろん許可した。飛鳥さんのご両親の賛成が得られれば、すぐにでも寺に飛鳥さんを亮太の嫁として迎え入れるつもりだ」
二人がここで結婚する? 俺の目の前で!
「反対です。俺は、とてもじゃないけど二人と一緒になんていられない」
「ならばお前がここを出ていくことだな。そもそもお前は、坊主には向かないようだ」
「なんでそうなるんですか」
「朝の山行(※山を歩く修行)の際、山の獣を殺しているな」
「だっ、誰がそんなことを言ったんですか? 亮太ですか?」
「伊吹、隠しても無駄だ」
はっとした。
「初めてお前がイノシシを殺して帰ってきた時、お前の眼に残忍な光を見て、私は内心恐れおののいた。しかししばらくは問題なかったようだが、修学旅行から戻って来てから、お前の眼にまたあの残忍な光が宿るようになった。そして本堂での朝行の際、血臭を嗅ぐようになった」
「それは亮太だ。血臭は亮太だ。俺を貶めるためにやったんだ」
「まだごまかすか! 私はこの眼で見て知っているんだ」
「何だって!」
「ある朝、お前たち二人をつけた。お前たちは、言いつけ通り、別々のルートを歩いていた。ところがお前が獣を殺すと、亮太がやってきて、獣を弔った。涙を流しながら経を唱え、弔っていたんだよ。確かにあいつはお前に比べればバカで、物覚えも悪い。でも心根だけは誰よりも優しい」
「親だからだ。実の親だからそんな風に甘いんだ」
「伊吹、お前だって私の子だ。でもだからこそお前には秘伝は教えられない。それにこの寺を継がせるわけにもいかない。他の寺に推薦状を書くこともできない。だが、この寺にいたければいつまでもいて構わないが、私がしてやれることはそれだけだ」
愕然とした。
「やはり実の子じゃないからですね」
「何を言っている。お前だって私の子だと言っただろ。それより自分のしてきたことをちゃんと振り返れ。お前には寺を継ぐ資格も、秘伝を受け継ぐ資格もない」
「そうですか……わかりました。ここを出ていきます」
頭をきっかり下げた。
「そしていつの日か、和尚。俺を追い出したことを、後悔させてやります。必ず、秘伝以上のものを身につけ、あなたの大切なものを一つひとつ奪います。そして俺が手にすべき全てを奪い返えしてみせます。俺はそのためなら、何でもする。この魂を売っても必ず目的を果たしてみせます」
「なんと恐ろしいことを」
立ち上がった瞬間、地面が揺れ出した。




