25 長崎港事変
消灯時間が過ぎても眠れない。
寝苦しい。これからのことを考えると苦しくてたまらない。結局俺は、寺を出なくてはいけない。そう考えるといたたまれない。18年間、修行しかしてこなかった。勉強もスポーツもそれなりにはやってきたけど、修行ほどには本気じゃなかった。
これから、あの寺を出て。どうやって生きて行けばいい? 他の寺に行くにしても、方法すら分からない。
布団から這いずり出た。袈裟をつけ、こっそり宿舎を出た。こういう時、坊主の恰好は悪くない。絶対に高校生には見えないから。
―いつか、またこうして三人で海を見に来ない? それでこういう船に乗って世界中を旅するの――
飛鳥の華麗な笑顔に胸がうずいた。
気づくと長崎港まで来ていた。
船が停泊しているせいもあって、昼間のように明るい。もしこの船に乗って、飛鳥と旅が出来たらどんなに……
その時、ふと雑踏の中、お経が聞こえた気がした。こんな時まで、修行のことに頭がいってしまう自分がいたたまれない。
しかし経の声に集中すると、不思議とどんどん大きく聞こえてくる。ちょっと待て! この声、空耳じゃない。経のする方に走った。
☆☆☆☆☆
亮太が手を合わせていた。
騒がしい岬とは離れたところ、暗い海に向かって立っている。真剣に経を読む亮太の姿にはいつものふざけた様子は1ミリもない。経を唱え終えた後もしばらく合掌し、無心に祈りを捧げている。
「亮太」
亮太が顔を上げた。なんと泣いている。
「こんなところで何してんだよ」
涙を拭うと、亮太は静かに言った。
「昼間、原爆資料館見に行ったろ。それがここに響いて」
亮太が自分の心臓を指差した。
「祈りや想いはさ、時空を越えるって父さん言ってただろ? 戦争で亡くなられた全ての人が安らかに平穏に眠れるように祈ってたんだ」
一瞬、胸がつまった。こいつは本当に祈りが届くと思っているのか。俺にとって経も祈りも、死者のためにあるとは思っていない。死人を悼む人間、つまり生きている人間を慰めるためにあると思っている。
なのに、こいつは違うんだ。根本からして違うんだ。こんな風に純粋に祈れる亮太を初めてまぶしく、そしてうらやましく感じた。
(俺は一体、今まで何を修行してきたんだ)
自分が築き上げてきたものが、ガラガラと音を立てて崩れていく気がした。
(いや、そうじゃない。亮太は何も分かっていないんだ。経だって、ところどころ漢字の読みが間違っていたじゃないか。大切なのは形だ。まずはそこを整えないと)
そう思わないと、たまらない。
「伊吹は先に帰っていて。俺はもう少し、祈ってくから」
亮太が、街の灯りに向かって祈り始めたその時、亮太のスマホが鳴った。
「もしもし、おお美優。えっ、なんだって! 分かった、探してみる」
亮太が青ざめてスマホを切った。
「どうした」
「飛鳥が行方不明らしい。先生に見つからないように探せって……あいつ宿舎抜け出すような奴じゃないのに……まさか」
一瞬脳裏に、豪華客船が浮かんだ。亮太も同じらしく、もう全力疾走している。俺も弾かれたように明るい港に向けて走った。
☆☆☆☆☆
客船の中に入るのは簡単じゃなかった。そもそも乗客証がない。その上、パーティーに飛鳥を誘った女の名前すら分からない。
必死にスマホの画面を見せて、セキュリティに訴える。
「この女、この女がパーティーに招待してくれたんです。それでこの隣にいる女の子がここに来てないか知りたいだけなんです」
「No No No! Get out(ダメだ! 出ていけ!)」
「この船にいないって分かったら、出ていきますから」
「No!(ダメだ!)」
埒が明かない。そう思った時、亮太が印を結んだ。そしてセキュリティの眼を覗き込んだ。
「この女の元に案内しろ」
セキュリティの眼が一瞬、白濁した。
「もちろんです」
丁寧に頭を下げると、ゲートを通してくれた。俺は思わず亮太に小声で耳打ちした。
「こんなところで、和尚から習った法術を使うなんて、どうかしてる」
「だって仕方ないだろ。それしか方法がないんだから」
ペントハウススイート
それが女の泊っている客室だった。セキュリティがノックする前に、向こう側からドアが開いた。耳が痛くなるような音楽が鳴り響くドア口に、ダークスーツを着た男が立っている。
「リー様より、ご案内するように仰せつかっております」
驚くのも束の間、亮太が大声を出した。
「飛鳥を返してもらいに来ました」
「さすればこちらへ」
入った瞬間、大きなフロアが広がった。
ここが客室、それも船の中だなんて信じられない。ダンスフロアなみに広い。その中をドレスやタキシードを着た男女で溢れかえっている。みなカクテルを手に踊っている。照明は怪しいまでに暗く、正面の窓≪全面窓ガラス!≫から見える長崎港の灯りの方が明るく感じられる。その明かりに照らされて、外のプールで水しぶきが上がった。
ダークスーツを着た男は、ダンスフロアのような部屋を右の方向に歩き、壁をノックした。隣の本棚がまるでドアのように横にスライドした。真っ暗い部屋の中から真っ赤なドレスを着た女が出てきた。金髪をまとめ上げている。一瞬、それが誰だか分らなかった。
「よく来たわね」
この声! 昼間のあの黒衣の女だ!
「飛鳥はどこですか」
亮太が感情を抑えた声で聞いた。
「あそこのベッドで寝ているわ」
部屋の灯りがドアの隙間から入り、ベッドを照らした。
衝撃が走った。
乱れたシーツの上に、身を投げ出すようにして飛鳥が横になっている。両手を後ろ手に縛られ、猿ぐつわをかまされ、ぐったりとしている。
はだけた着衣、乱れた髪の毛、静かに閉じられた瞳……頭に血が上った。気づくと、女を殴り倒していた。客室内が騒然となった。俺はあっという間にダークスーツを着た男達に取り押さえられた。
「リー様、この坊主を海に投げ出してやります」
「待ちなさい。この子は招待客だよ。それに占うという約束だからね」
赤いドレスの女が、俺のの前に立つと眼を細めた。
「伊吹君だったね。あんたが、これからどれだけ多くの人を傷つけようとも。あの少女の子どもがそれを阻むだろう。どんなに邪悪な計画を立てようとも無駄だ」
神経に障るような声だった。
(俺が多くの人を傷つける? 邪悪な計画? 坊主になろうって人間に何を言っているんだ、この女は?)
見ると、女は俺に言っているようで、言っていない。俺の左肩に向かって言っているのに気づいた。まるで後ろに立つ誰か別の人間に言っているようだ。ふいに女と眼があった。
「それからあの少女は、飛鳥はお前のものにはならない、永遠に」
この言葉に、冷たい氷水を背中に入れられたような気がした。
「何だと、飛鳥のことを何にも知らないくせに!」
「伊吹君、飛鳥のことを私達ほどには知らないだろうさ。教えてやろう。飛鳥は、我が一族が探してきた伝説の少女だ。何年も何十年も何百年もかけて探してきた。空海の生まれ変わりをこの世に産み落とす運命にある少女なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中がぐるぐると回り始めた。
「しかしこの少女は、あまりにピュアでピュア過ぎて、害をなす人間すらも受け入れているために、少々運命がねじ曲がっているのが観相(※占い)で分かった。それ故、私達は伝説的運命となるよう少し手を貸す必要があった」
「何をした! 飛鳥に何をしたんだ」
「伝説的運命が確かなものになるように、あの子の身体に運命の種を埋めたのだ」
ゾッとするような話だった。飛鳥の身体に何を埋めたって?
俺は足元がふらついた。セキュリティに抱えられていなかったら、そのまま倒れていただろう。
「話はそれで終わりですか?」
それまで黙っていた亮太が、ベッドで寝ている飛鳥を抱き上げた。
「俺達はもうここに用はありません。帰ります」
「待ちなさい。あんた、空海の生まれ変わりに清めの方法を教えてやりなさい。お前さんができるのはそれしかない。この少女を愛しているなら、その子どもを愛するなら、それだけしかない」
亮太は何も言わず、歩き出そうとした。その腕を女が掴んだ。
「この子とその子どもを護ってやりなさい」
「そんなこと……言われなくても分かってます! あと、伊吹も放してください」
そう言うと、亮太が経を唱え始めた。凄絶な経が空気を引き裂いていく。スピーカーが壊れ、フロアが静かになった。
「放してやりなさい。お客様がお帰りだ。お前たち送って差し上げなさい」
女の一声で、俺達は船から丁重につまみ出された。




