23 秘伝
退院して一か月、近くの滝へと出かけた。滝行だ。
夏の滝行は暑いからまだいいが、冬の滝行は身を切る冷たさだ。寒いというレベルじゃない。痛いのだ。冷たさは本物の武器だ。氷河期が来て、恐竜が絶滅したのも分かる気がする。
しかしひとたび、滝に打たれ始めると何も考えられなくなる。水の流れが体の表面だけでなく、体の中にも入ってくるのを感じるせいだ。そうなるともう息苦しさ、全身を打つような痛|みも、冷たさも何もかも感じない。ただ水の振動と自分が一体になっていく。
一体になると思った瞬間、ふと飛鳥の顔が浮かんだ。入院中に見舞いに来られてから、どうも胸のあたりがおかしい。今だって、滝に打たれながら、あのコロコロと変わる飛鳥の表情が浮かんでくる。今までこんなことなかったはずなのに。胸元で組んでいる印に心臓の鼓動が伝わる。
(こんな風に滝行の際に女のことを考えるなんて、これじゃまるで出来損ないの亮太みたいじゃないか)
隣で滝に打たれている亮太を見やった。そこにはいつになく真剣な顔がある。飛鳥や自分と一緒の時には見せない顔だ。滝の勢いの中にあって背筋を伸ばし、一心不乱に経を唱えている。凄まじい気迫だ。亮太の頭の中には女のことなんてないんだ。それどころじゃない修行中は無心なんだ。
「無になること。それが究極だ」
連城和尚の言葉を、こいつはいつの間にか体得している。
全身に震えが来た。劣等生の亮太が、いつ? 修行だって手を抜いていたんじゃないのか? 自分の方が真面目に取り組んでいるんだ。ふと滝の中でよろめいた。足元が滑り、転びそうになった。その手を連城和尚の手が引いた。そして身も凍るような一瞥をくれた。集中力が足りない、そう言われている気がした。しかしその後の滝行は本当に集中できなかった。
☆☆☆☆☆
その夜、和尚に本堂に呼ばれた。自分だけかと思ったら、亮太も現れた。
「もしかしれ俺の入り待ちしてた?」
無視して、本堂に入ると、冷え冷えとする空気の中、和尚は本尊の前に座していた。
「二人に話さなくてはいけないことがある」
重々しい口を開き、こちらに向き直った。
「この寺には、古くから伝わる秘伝がある。一子相伝のそれも口伝で伝えなくてはいけないものだ」
「一子相伝に口伝とは何ですか?」
連城和尚が亮太を睨んだ。
「一子相伝とは、一人にしか教えてはいけないこと。口伝とは書物ではなく、口から口へ口頭で伝えることだ。つまり秘伝はお前たちのうちのどちらかに口頭で教える」
「それはどんな秘伝ですか」
膝を進めると、連城和尚の顔が変わった。
「受け継ぐ者にのみ教える。どちらが秘伝を受け継ぐかをお前たちが高校を卒業するまでに決める。なお、秘伝を継いだ者がこの寺も継ぐこととする。よいな。以上だ」
(連城和尚は俺にもチャンスをくれた。そう思うと喜びが爆発した。秘伝と言うのは、寺を継ぐ口実かもしれない。実子に継がせないもっともらしい理由だ。ああ、確実に秘伝を授けられるのは俺だ。栄光の日々が続いていく!)
☆☆☆☆☆
それから、真冬になった。冷たい雪に法衣は濡れそぼり容赦なく体温を奪っていく。それでも経を唱え、山を歩き続けた。
そして緩やかな春がきて、燦燦たる太陽が照りつける真夏になった。照りつく太陽に焼かれるようにして山肌を、経を唱えながら歩いた。草木で足は傷つき、手も腕もいつの間にか痣だらけだ。
秋の日が穏やかに山間を染め、また厳しい冬がくる。それでも歩き続けた。
(ただ一心にあの寺と秘伝を継ぐため。それだけだった。滝行も座禅も読経も全てはそれだけのためにあった。それだけでどんな苦痛にも耐えられた)
そうして高校三年生の初夏――
山を歩いていると大地を走る音が聞こえ立ち止まった。イノシシがこちらに向かって突進してきた。避けようとして木の根につまずいた。
まずい!
そう思って目を閉じた。
シャン!
錫杖の音が鳴った。
太陽と自分、いやイノシシと自分の間に何者かが立っている?
びっくりして目を開け、そのままあんぐりと口も開けた。亮太だった。錫杖を手に亮太がイノシシの前に立っている。
「いきなり驚かせて悪かったね」
亮太が穏やかな口調で言った。
「本当に、なんだよいきなり驚かせやがって」
亮太がなぜ都合よく現れたのかは知らないが、とりあえず死なずに済みそうだ。
「ここを通してほしいんだ。お願いだ」
その言葉にギョッとした。こいつ、イノシシに話しかけてるんだ! 獣が人の言葉など理解できるはずないのに。こいつは本物のバカだ。
ところが、イノシシが動きを止めた。つぶらな瞳で亮太を見つめている。偶然なのか、それとも言葉が通じたのか。そんなはずはない。
「付き合いきれねえ」
錫杖を支えに立ち上がると、亮太の前に出た。
瞬間、イノシシが大地を蹴って俺に向かって突っ込んできた。俺が頭を庇うのと、亮太が長く細い足でイノシシの腹に強烈な蹴りを入れるのとが同時だった。
イノシシが倒れた。苦しそうに呻いている。
「ごめんね」
亮太がイノシシに頭を下げた。
俺よりイノシシの心配かよ。怒りに任せて、イノシシに錫杖を振り上げた。
「止せ!」
「こいつは人を襲ったんだ。殺すべきだ」
「しかし山は、人だけのものじゃない。この子達の住処でもあるんだ。ただ伊吹と鉢合わせて驚いただけで、もうこの子は襲ってこないよ。だからさ、もう行こう」
「行きたきゃ、お前一人で行け。俺は馴れ合いは嫌いだ」
「どうしていつまでもそうなんだよ、いい加減協力して……」
「俺とお前が? 劣等生のお前と優等生の俺が? 笑わせるな。俺はあの寺を継ぐ。出ていくのはお前だ、亮太。連城和尚だって、そのつもりだ。その証拠に養子の俺に寺を継がせたくて、ありもしない秘伝の話なんかを持ち出したんだ」
亮太が困惑している。やがて悲しそうな眼でポツリと言った。
「伊吹は秘伝の話を嘘だと思っているんだね」
どうゆうことだ!
こいつはまさか秘伝の中身を知っている? あの時、連城和尚は秘伝がどんなものかさえ言わなかったのに……まさか亮太だけに話したんじゃ……
亮太が憐れむような顔をすると、歩き出した。白い後ろ姿がどんどん遠ざかっていく。
まさかそんなはず……
でもあの亮太の表情が全てを物語っている。あれは、既に秘伝も寺も己が継ぐことが分かっている顔だ。なのにそれをただ一人知らずに必死に修行をしている俺を憐れんでいるんだ。怒りが心の奥に炎のように燃え上がった。
その時、横たわっていたイノシシがのっそり起き上がろうと草を踏んだ。その腹を錫杖の先で突き刺した。血がほとばしった。瞬間、今まで感じたことのない激烈な快感が全身を貫いた。
☆☆☆☆☆
血だらけの法衣に、
「殺生は僧の道にあらず」
と連城和尚は怒鳴った。
「あのイノシシを生かしておいて、街に降りて来て人が襲われればどうなります? その殺生を止めるためにあえて殺したのです」
「無益なことを」
連城和尚の眼に憐れむような色が浮かんだ。
ああ、この眼! 亮太と同じ眼! 今まであんなに頑張ってきたのに、その努力は無益だと言いたいんだ! 震える唇を開いた。
「連城和尚、秘伝について教えてください」
「突然、何を言いだすのだ。それより早く身体を清めてきなさい」
「亮太には秘伝を教えたじゃないですか」
「バカなことを言っていないで、さっさと……」
「こんなのは不公平だ。やはり和尚は俺を出て行かせるつもりなんですね」
「一体何を言っているんだ」
「亮太にだけ秘伝を教えて、俺に教えないのは、俺が連城和尚の本当の子どもではないからですか」
連城和尚の眼が驚きで見開かれた。その眼の中に暗い影が差した。
「やっぱりそうなんですね。亮太に秘伝もこの寺も継がせるんですね」
「それはお前が決めることではない。公平にみて判断することだ」
連城和尚の声は非情だった。
和尚はくるりと背を向けると母屋に入って行ってしまった。歯を食いしばって涙をぐっと堪える。
「そうですよね、よく分かりました」




