2 旧校舎
旧校舎を見上げた。
真っ黒い雲のせいか、建物全体が変色しているせいか、やけにひっそりとしていて、いかにもお化けが出そうな気がする。
旧校舎は体育館の裏側の奥まった所にある木造の建物で今は全く使われていない。
戦前に建てられたらしく、歴史的価値があるため保存すべきだという意見と地震が来た時危険だから壊すべきだという意見があり、長らくもめている。
そのため入学するずっと前から(お父さんの入学前からも!)立入り禁止のままで残っている。最も、妖怪やお化けが出るという噂があって、近づく子はいない。
「ねえ、やっぱり帰ろうよ」
寒くもないのに体の震えが止まらない。
でも若菜ちゃんはおかまいなしに扉を開け、中に入って行く。キイイイっという音と共に扉が閉まりかけ“立入り禁止”の札が揺れた。
「まっ、待ってよ、若菜ちゃん」
慌てて若菜ちゃんの後に続いた。
建物の中は、ひんやりとしてかび臭かった。
「ねえ若菜ちゃん、どこまで行くの」
「この先、昔保健室に使われていたって言われているところまで」
「嫌だよ。ねえ、もう帰ろうよ。ここなら誰も来ないかもしれないけど、本当に妖怪が出たらどうするの」
「それならそれで妖怪退治するだけよ」
どうってことないわ、という口ぶりだ。若菜ちゃんは床をミシミシいわせながら歩いて行く。
廊下は、すりガラスから入る光のおかげで思ったほど真っ暗ではないけど、それがかえって不気味だ。
あちこちクモの巣が張っていて、床に変な形の(鬼の顔みたい!)シミがある。そんなものばかりがやけに目立って見える。
その時、まっ黒い物が視界をさえぎった。
「きゃああ」
悲鳴を上げると、若菜ちゃんがふり返った。
「なんだ。ただのクモじゃない。もうっ、そんなに怖がらないでよ。大丈夫、わたしが護ってあげるから」
若菜ちゃんがクモの糸を手で切った。
保健室は一階の奥にあった。
入った瞬間、湿度が増した気がした。冷たい水を含んだ空気が体にまつわりつくようだ。
どういうわけかベッドも椅子も、それに空になった棚まで残されている。恐怖で吐きそうなのに、若菜ちゃんは平然とホコリっぽい床に座り込んだ。
「そんなとこで立っていないで、海人もこっち来て」
「止めよう、もう帰ろう」
「今さら、何言ってんのよ」
若菜ちゃんはランドセルの中から紙を取り出した。
紙には、“あいうえお”や鳥居のマーク、“はい”と“いいえ”、それに○が書かれている。不気味な模様のようで、めまいがする。
「止めよう、コックリさんなんて。先生が、この間のホームルームでやっちゃダメだって言ってたじゃない」
「だからこそ、ここまで来たんでしょ。ここなら誰も来ないし、先生にもバレないから、怖くないわよ」
「先生に見つかるより、もっと怖いことが起きたらどうするの」
「そんなこと起きないわよ。第一これはちっとも怖いものじゃないから」
「でもね若菜ちゃん。ぼく、やり方知らないよ」
「わたしが知っているから大丈夫。わたしが教えてあげるから。さあ海人も早く座って」
恐る恐る座ると、若菜ちゃんはスカートのポケットから何かをとり出し、○印の中に置いた。目を凝らして見るとそれは十円玉だった。
「この上に指を乗せるの」
言いながら若菜ちゃんは、十円玉の上にそっと人差し指を置いた。すると一瞬だったが、紙がまっ黒になった。
「今の何」
「何が」
「紙が焦げたみたいに黒くなったじゃない」
「そんなことないわよ。それより海人も人差し指を乗せて」
「やっぱり、やだよ。できないよ」
ぱっと立ち上がると、若菜ちゃんの眼の奥がギラッと光った。
「お願い、一生のお願いよ。もしお願いを聞いてくれたら、わたしも海人が今朝吐いたことおばさんに言わないから」
「やめて。お願い、お母さんには言わないで絶対」
絶対、悲しむに決まっている。朝早くに起きて料理をしてくれたのに、ぼくのために工夫してくれているのに。
それを、全部もどしたなんて知ったら絶対にお母さんが悲しむ。そして「食べられないものを無理やり食べさせようとするからだ」って言うお父さんと喧嘩になる。全部、ぼくのせいで……。
「一生のお願い、聞いてくれるよね」
若菜ちゃんが笑顔で、ここに座れというようにトントンっと床を叩いた。
震えながらしゃがみこむと、若菜ちゃんの指の上に自分の指を乗せた。
「違う、わたしの指の上じゃなくて、十円玉の上、この空いているとこに乗せて」
「うっ、うん」
慌てて指を乗せかえると、若菜ちゃんが目を閉じた。
「コックリさん、コックリさん、おいでください」
若菜ちゃんの声が響く。すると指に力を入れてないのに独りでに十円玉が動き始めた。
「かっ、勝手に動いている。どうして」
「コックリさんが現れたのよ」
興奮したように若菜ちゃんは目を輝かせた。十円玉はそのまま、“はい”という字を囲むように動くと、また○の中に戻ってきた。
「コックリさん。わたし山根若菜がスピリチュアルカウンセラーになるには、どうしたらいいですか」
十円玉が紙の上をすべるように動き始めた。“あいうえお”の書かれたところまで行くと、“か”を囲むように動き、次に“わ”“ら”と動いた。その動きに合わせて若菜ちゃんが口を開く。
「“か”“わ”“ら”“で”“し”“ま”“も”“よ”“う”“の”“い”“し”“を”“ひ”“ろ”“え”……河原でしま模様の石を拾えって教えてくれたんだ」
若菜ちゃんは声をはずませた。十円玉はまた元の○の中に戻って来た。
「海人、海人も何か聞きたいことない?」
「ぼくはいいよ」
「将来なりたいものについてとか」
「いいよ。それよりぼくもう帰りたい」
さっきから首筋に冷たい物を感じる。
「本当にもう帰ろうよ」
ガタガタと扉が開く音がした。驚いて振り返ったが、後ろの扉は閉まったままだ。
「もういやだよ」
十円玉から指を放そうとすると、若菜ちゃんが叫んだ。
「手を放さないで。ちゃんと終わらせないと呪われるから」
体中の血が脳まで吹き上がって、視界が暗くなった。震える指が十円玉から離れそうになるのを反射的にこらえた。全身に汗がにじんだ。若菜ちゃんは何も言わず、また目を閉じた。
「コックリさん、コックリさんお帰りください」
すると、指の下の十円玉が紙の上をすべるように動き、“はい”を囲み、再び○の中へと戻ってきた。
「これでよし。もう指を放していいわよ」
「本当にこれでもう大丈夫? 呪われない?」
「ええ。この十円玉を今日中に使いきって、紙を48枚に切って燃やせば呪われないわよ」
「そんな……」
と、とんでもないことをしてしまった。絶望の闇に自分が落ちていくのを感じた。すると若菜ちゃんがにっこりとした。
「大丈夫よ。わたしが全部始末するから」
旧校舎を出ると、むわりとした空気に包まれた。遠くの方で雷がゴロゴロと鳴っている。今にも雨が降りだしそうだ。急いで駆けだそうとして、若菜ちゃんに強く腕を引っ張られ、中に引き戻された。
「どうしたの」
「見て」
若菜ちゃんの指差す方を見ると、旧校舎の裏手から白い人影がゆらりと動くのが見えた。
「よっ、妖怪」
「違う。よく見て、あれは妖怪じゃないわ」
ふいに白い人影が立ち止まり、こちらを振り返った。途端、ピカッと鋭い閃光とともに雷鳴がとどろいた。
書道の連城先生だ!
禿げ頭で大柄な連城先生が大きな眼をギョロギョロとさせている。
見つかったんだ、怒られる!
しかし連城先生は険しい表情で何かをつぶやくと、すぐに踵を返し、行ってしまった。
「気づかれなかったみたいね」
若菜ちゃんはホッとしたように笑った。
校門に出ると、雨がぱらつきはじめた。カサを忘れたと言うと、若菜ちゃんが赤い折りたたみカサをさしかけてきた。
「どうして連城先生があんなところにいたのかしら」
「きっと見回りじゃない。立入り禁止の建物にみんなを入らせないように」
「そんなの変よ。あのおじいちゃん先生、隣町の天徳院でお坊さんやってて、週に2回しか学校に来ないのよ」
「えっ、あの有名なお寺のお坊さんなの?」
「海人知らなかったの? だから坊主頭なんじゃない」
「そおなんだ。でもいいじゃない。見つからなかったんだから」
「そう、ね」
若菜ちゃんはうなずいたが、まだ納得していないみたい。ふいに思いついたように目を覗き込んできた。
「それより海人、わたしの将来の夢のこと、秘密にしておいてほしいんだけど」
「あーあ、スピリチュアルカウンセラーのこと?」
「もうっ、声に出して言わないで」
「どうして」
「恥ずかしいからに決まっているでしょ」
若菜ちゃんが怒ったように口をとがらせた。どうして恥ずかしいのだろう。そもそもスピリチュアルカウンセラーって何だろう。
「海人はどうなの。将来何になりたいの」
「ぼくは……」
色とりどりのお花とその香りに包まれている自分の姿が浮かんだ。とんでもなくいい気分。お花やハーブに囲まれて暮らせたら、どんなに幸せだろう。
「海人、どうしたのニヤニヤして」
「なっ、何でもないよ」
「秘密にする。絶対誰にも言わないから。教えてよ、海人の夢」
若菜ちゃんが片手でお祈りするようにした。こんな時の若菜ちゃんは、いつも以上にかわいらしい。だからいつも逆らえなくなる。
「ぼく……お花とかハーブとか好きだから……その……お花屋さんになりたいんだ」
「お花が好きだからお花屋さんか……海人らしいわね」
「若菜ちゃんがなりたいスピ……ってどういうお仕事なの」
「わたしね、人のためになりたいの。困っている人とか、弱っている人の力になりたいの」
「それがスピ……のお仕事なの」
「うん、こころを助ける仕事」
若菜ちゃんが自分の胸にそっと手を当てた。
その姿が部屋に貼ってある戦隊もののヒーローのポスターとダブって見える。
ああ、若菜ちゃんは本物の正義の味方になっていくんだ。それに比べてぼくは、人のためなんて考えたこともない。
「若菜ちゃんって、えらいね」
ポツリと言うと、若菜ちゃんが首を振った。
「そんなことない。わたしなんか何のやくにもたたな……」
「えっ、今何て言ったの。最後の部分、雨がうるさくて聞こえなかった」
「いいのよ、聞こえなくて」
若菜ちゃんが寂しそうに笑った。
「それじゃ今日の事、全部秘密よ。将来の夢のことも、旧校舎のことも何もかも、二人だけの秘密」
「うん、ぼく誰にも言わないよ」
「じゃあ指きり」
若菜ちゃんが小指をさし出してきた。その指に自分の指をからませると一瞬しびれるような甘い感覚が走った。若菜ちゃんの小指がやけに柔らかかったせいかもしれない……。