1 誕生日にみる夢
気づくと闇の中にいた。
黒く塗りつぶしたような空間は、広いのか、狭いのか……いや、そもそも空間なんてあるのだろうか。
一歩踏み出した途端、崖からまっさかさまに落ちるってこともある。楠木海人は震えあがった。
闇はまるで凪のように、ただただ黙っていた。夜の暗さなんて比べ物にならない。叫び出したい気分だった。
しかしそれも怖くてできない。その時、暗闇の中に、一筋の細い線が見え始めた。光を放つまばゆい線……
海人は跳ね起きた。
とっさに自分の体を触った。細い腕が、ストライプのパジャマ越しに触れる。はっきりとパジャマの青い線が見える。もうあの黒い空間じゃない。
机の上のカレンダーに目をやった。6月16日という数字とその下に“たんじょう日”と書かれた字がやたら大きく感じる。
深いため息がもれた。物心ついた時から、誕生日には決まって同じ夢をみる。9歳になった去年も8歳になった一昨年も、全く同じ夢をみた。
恐らく10歳になる今日もみるだろうと、覚悟していたのに、恐怖は相変わらずだ。闇が怖い……
朝の光に飛びつくように、水色のカーテンを開けた。窓一面に、どんよりとした雲が垂れ下がっている。
こういう日はお日様が見たいけど、梅雨だけにそうもいかない。それにしてもあの暗闇の中の白い線、どうして光もないのに輝いて見えるのだろう。水面に太陽が反射するのに似ている……。
目覚まし時計がけたたましい音を立てて現実に引き戻された。窓辺から離れると、窓ガラスにちっぽけな自分の姿が映っているのが見えた。
「海人って女の子より女の子みたい」
幼馴染の山根若菜ちゃんによく言われるけど、確かに一瞬自分でもそう見えてしまった。
でも女の子っぽく見えるのは、この顔のせいばかりじゃない。やせていて、背が低いし……それに怖がりだからだ。
壁に貼ってある戦隊もののポスターに目がいった。別にヒーローになりたいわけじゃない。せめて怖がらなくてすむようになりたい。
階下に降りると、お母さんの声が飛びこんできた。
「今日で海人も10歳になるのよ」
「だからこそ、今日くらい海人の嫌いな物、作ることないんじゃないのか」
あきれたようなお父さんの声に、急いでダイニングの扉を開けた。途端に、肉の匂いにめまいがした。
「海人、お誕生日おめでとう」
お母さんがほほ笑んで、イスを引いてくれた。
「お母さん、いっぱいごちそう作ったのよ」
料理好きのお母さんらしい。
テーブルの上には、ソースのたっぷりかかったハンバーグや、きつね色のから揚げ、ドーム型のチャーハンが湯気を立てて並んでいる。小学生の好きな献立ベスト5というのがあれば必ず上位にきそうなものばかりだ。
「海人、無理して食べる必要ないからな。お父さんが代わりにみーんな食べてあげるから」
お父さんがから揚げに手を伸ばそうとすると、お母さんが素早くお皿を取り上げた。
「あなたは血圧高めなんだから、控えてください。さあ、海人」
ぐいっと目の前にお皿が差し出された。
「このから揚げね、今回のは、おからとお野菜を混ぜて作っているから、きっと食べられるわよ。お母さんが味見したらね、もうほとんど豆腐よ」
思いきって手を伸ばした。口の中で熱々のから揚げが踊り、豆腐や野菜の間からじゅわりと肉汁が染み出てきた。
うわっ
お肉が“ちゃんとここにいるよ”、そう主張している。
「どお、海人。今度のは大丈夫でしょ」
あいまいにうなずくと、お父さんがコップを差し出してくれた。一気に水を飲みほすと、肉片が喉の奥へと通過していく。
「海人がかわいそうだぞ」
「そんな、わたしは海人のためを思って。ただ、元気で大きくなってほしいだけよ。あなたには分からないのよ、わたしの気持」
お母さんの眼がうるみはじめた。お父さんが、しかたないなあという風に首を振っている。ダイニングに流れ始めた嫌な空気から逃げるように、朝食を流し込むと家を出た。
小学校まで続くこのなだらかな坂道には、様々な植物が植えられている。春には桜、続いて咲くつつじ。
今はちょうど紫陽花が咲きはじめている。この花びらも徐々に赤紫に変わっていく。それにしても、これが解熱剤の治療薬に使われるなんて不思議だ。色が変わるのと、何か関係があるのだろうか。
その時、反射的に体がこわばった。斜め前の木の下に大嫌いなカラスがいる。あの夢をみた今日は特に気味が悪い。恐る恐る足を踏み出そうとすると、
「カア」
カラスが飛び跳ね羽根を広げた。この道は通さないぞ、とでも言っているようだ。
どうしよう、学校に行けない。
その時、後ろから岡君と田無君の話し声が聞こえてきた。
もう少しだけ待って、あの二人の後から行こう。希望を持って二人を見つめていると、岡君が大げさに眼を見開いた。
「海人、そんなとこで何やってんのお~。まさかカラスが怖いのお~」
「岡君、そんな分りきったこと聞いちゃ、かわいそうだよ」
田無君が笑いながら、いきなりカラスに向かって走り出した。途端、バサバサと羽根を広げカラスが飛び上がった。
「きゃあ」
思わず両手で頭を抱えた。バカにした笑い声が大きく響く。
「ちょっと止めなさいよ!」
遠くから声がしたかと思うと、長い髪をツインテールにした山根若菜ちゃんがすごい勢いで走って来た。
「ヤマンバだ、ヤマンバが来たぞ」
岡君も田無君もあっという間に走り去って行った。
「海人、もう大丈夫よ」
ありがとうと言おうとした時、熱いものが喉の奥から上って来た。さっき食べた肉が元の動物の姿になって消化されまいと、あばれているみたいだ。
「海人」
若菜ちゃんの声を合図に口元を押さえ走り出した。
「どうしたの海人。待ってよ」
声が追いかけて来るが、待てるものじゃない。早く学校のトイレで吐きたい。門をくぐり、校舎に飛びこむ。下駄箱で靴を脱ぎ捨てたところで、後ろから強く肩を掴まれた。
「急に走りだすことないでしょ、何が気に入らないの」
がまんできない……胃がひっくり返ったような気持ち悪さと共に全ての物が逆流して来た。
周りから悲鳴が上がった。汚いものを見るいくつもの目。いたたまれなくなって涙が出た――。
結局、その日は授業に出ず、下校時間にそっと保健室を出た。
見上げると、どんよりとした雲が空を覆っている。今の気分みたい。最悪な誕生日だ。自然にため息が出た。ランドセルがやけに重たく感じる。校庭に出ると、若菜ちゃんが近寄って来た。
「海人、気分はもういいの」
「うん、もう大丈夫」
「そう……あのさ海人……」
若菜ちゃんの頬が赤くなり、はにかんだように笑った。みんなと一緒にいる時にはあまり見せない表情だけど、こんな時の若菜ちゃんはやけにかわいい。
「付き合ってほしいんだけど」
「えっ」
「誤解しないでよ、変な意味じゃないから」
「変な意味って?」
「海人に言っても分かんないか……」
「何それ」
「じゃあはっきり言うね。一緒に旧校舎まで付き合ってほしいんだけど」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
「旧校舎」
口に出した途端、全身の細胞が一斉に震えはじめた。しかし若菜ちゃんは満面の笑みを浮かべ、
「海人にしか頼めないの、ね、お願い」
しっかりと手を掴んできた。