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織田信長の焦燥

美濃、稲葉山城


「クククククッッ……流石です」


静謐な書斎に、竹中重治――後の半兵衛の、珍しく感情のこもった笑い声が響いた。安藤守就は、目の前で書状を読みながら笑い転げる竹中重治を見て、驚きを隠せない。この男は基本的に感情を表に出すことをしない。それゆえ、この唐突な笑いは、守就にとって異様な光景だった。


「珍しいな」


守就の呟きだけで、重治は意図を理解したのだろう。彼はすぐに普段の真顔に戻り、守就に向き直った。


「如何されましたか? 舅殿」


その声は、いつも通り抑揚がなく、まるで感情の起伏を持たない能面のようだった。


「いや、この城がいつまで持つのかと……」


守就は、本心を漏らした。この稲葉山城の状況は、まさに風前の灯火。重治の策が毎回上手くいくとは限らない。その不安を吐露する守就に、重治は微かに苦笑を浮かべ、先ほどまで読んでいた書状を差し出した。


「今張良の解答がこちらに。一文字飛ばしで左上から横に読んでください」

「今張良?」


守就は、眉をひそめた。ああ、一条鎌房殿のことか。あの若き当主も、よくぞここまでやってのけるものだ。そういえば、近頃、一条家で小規模な内乱が起きたと耳にしたばかりだった。守就は、差し出された書状に目を落とす。


「ふむふむ。えぇ……『七月二十九までは今孔明。八月には酒呑み』……と、これは?」


読み進めるうちに、守就の顔に疑問符が浮かぶ。書かれている言葉の意味が、即座には理解できなかった。


「私と龍興様のことでしょう」


重治は淡々と答えた。


「相変わらず、日時まで細かく指定してくれますね。精々、抗ってみせましょう」


重治の声は冷めていたが、書状の続きを読んでいた守就は、思わず叫び声をあげていた。その声が、重治の呟きを掻き消した。


「何ッ!? 北畠が織田の軍勢を壊滅させただと!」


守就の顔には、驚愕と動揺が色濃く浮かんでいた。


「ですから、私の言った通り、一条家に恩を売っておけば宜しかったのです」


重治は、まるで予測していたかのように静かに告げた。


尾張から伊勢へ進む織田の旗を掲げた水軍の存在は、以前から知っていた。だが、西美濃三人衆は、その水軍が美濃に向かうことはなく、騒動によって混乱している北畠家から伊勢の一部を切り取るものだと考え、見過ごしていたのだ。これは、三人衆全員の合意であった。しかし、ただ一人、竹中重治のみが強く反対していた。彼は、これを一条家に報せるべきであり、そうすることで恩を売るべきだと主張したのだ。


だが、我々は、当主の一条房基は山城国にいて、北畠具房との同盟を破棄した次期当主である一条鎌房は、公言するほど愛する妹の言い分を聞き入れ、救援を要請されても伊勢には入らないだろうと考えていた。


ゆえに、我々は、一条家に伝えたところで、織田の水軍の攻撃には間に合わず、北畠具教も息子との対立に追われ、織田の強襲は成功するだろうと踏んでいたのだ。


しかし、現実は違った。織田の水軍は、一条鎌房の最強兵器である毛呂智舟と、彼の側近である名門の西園寺公高の部隊によって壊滅。辛うじて上陸した織田の軍勢も、北畠具教を総大将とした鳥屋尾満栄率いる別働隊によって殲滅されたという。


「何故だ!」


守就の問いに、重治は静かに笑みを浮かべた。


「今張良が二十年以上前から考えていた策略ですからね。例の騒聞を聞き付けて、わずか数日間で立てられた拙い作戦では、歯が立ちませんよ」


守就は、重治の言葉に茫然とした。彼の言葉の端々から、鎌房の計略の深さが伺える。その深遠な謀略は、彼の想像を遥かに超えていた。


安藤守就が去った後、舅から返された書状を火で炙った竹中半兵衛は、ぼそりと呟いた。炎が紙の表面を舐めるように走り、やがて文字が浮かび上がってくる。


「やはり、炙ると真の伝言が……。どれどれ?」


浮かび上がった文字を読み進めるうち、半兵衛の口元に、いつものような微かな笑みが浮かんだ。


「……『どうせ孔明は知ってたのだろう? 言ってくれよな』……ですか。フフッ、恐ろしいです。鎌房様」


今孔明は、この日もまた、鎌房本人すら及ばぬほどの深い謀略を看破していたのだった。彼の眼差しは、遠い京の空の向こう、一条鎌房という稀代の策士を捉えていた。




尾張、清洲城


同じ頃、尾張の清洲城の一室で、織田信長もまた、一条鎌房から送られた書状を火で炙っていた。書状が熱で歪み、黒ずんでいく中、隠された文字が浮かび上がる。

「なになに?」


信長の鋭い眼光が、そこに書かれた文字を捉えた瞬間、彼の顔はみるみるうちに怒りに染まった。


「……『猿真似、乙。ワロタ』……じゃと! 戯けッッ!!!」


信長の怒号が、城中に響き渡る。側近たちは、その剣幕に身を竦めた。


「同盟は破棄されたのではなかったのか!」


信長は、書状を握り潰し、床に叩きつけた。確かに、信長は、鎌房が紀伊の松永を攻める際に用いた、海を渡っての奇襲戦法を真似た。その奇抜な発想と成功は、信長の野心を刺激したのだ。


「じゃが、それを読んでいたかの様に手玉に取るとは……」


信長は、苛立ちを隠せない。今回の伊勢攻めは、鎌房の動きを牽制し、あわよくば北畠から領土を奪おうという目論見だった。しかし、結果は惨敗。一条鎌房の深謀遠慮に、完全に足元を掬われた形だ。


「今の織田家が鎌房殿と敵対するのは不味い……。早く美濃を取らねば……」


信長は、大きくため息をついた。彼の脳裏には、一条鎌房という、底の見えない男の顔が焼き付いていた。美濃攻略の焦りが、彼の心を支配し始めていた。伊勢の敗戦は、信長のプライドを深く傷つけ、彼の焦燥感をさらに煽り立てていた。清洲城の夜は、信長の苛立ちと、未来への不安を映し出すかのように、重く沈んでいた。


御高覧頂き誠に有難う御座いました。

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