北畠具房の憂鬱な日々
1563年、夏
蒸し暑い夏の盛り、北畠家の居城、多気の御所には、どこか落ち着かない空気が漂っていた。庭の木々は蝉の声で満たされ、その声は、僕の頭の中に直接響くようで、ひどく煩わしい。
僕は、隣に座る義兄、一条鎌房様の妹である阿喜多様と、向かいに座る彼の妻、一条家の北の方の話に、半ば上の空で相槌を打っていた。
「真ですか!?」
北の方のお話に、阿喜多様が目を見開いて驚かれる。その表情は、まるで初めて見る珍しい鳥でも見たかのようだ。僕は何故、ここまで驚かれているのかはよく分からないけれど、機嫌を損ねてはならないので、一応、驚いた顔を作っておいた。内心では、またか、とばかりにため息を吐きたい気分だった。
内容は、義兄にあたる一条鎌房様と北の方との会話についてだ。噂話といってもいいかも知れない。
大体、天下に最も近いと言われている一条家の次の当主であられる鎌房様が、何故、側室を取らないのか、こちらの方が不思議なのに。
そんな些末なことで、女性陣がこれほど盛り上がれるのが、僕には全く理解できない。
「同じ男性として具房様はどう思われますか?」
不意に、阿喜多様が僕に視線を向け、問いかけてくる。えっ。いきなり振られても困りますよ。思考が止まる。酒と「ぽてとちっぷす」で肥えた頭では、気の利いた返答など、すぐには出てこない。
「ええとですね……」
僕がハッキリ言わないものだから、阿喜多様がキッと鋭い目線を浴びせてくる。その瞳は、まるで獲物を狙う鷹のようだ。背筋に冷たいものが走る。
「貴方も妾を?」
「い、いや。その様な事は……」
僕が言い淀んでいる瞬間、背後から凄まじい殺気がほとばしり、同時に、僕の鼻先に、ひやりとした木刀が出現した。木刀の先端が、僕の鼻の頭に触れるか触れないかの距離で止まっている。
「義弟殿には、久々に剣術の指導を付けねばならないみたいだなァ?」
僕が、ギギギ……と、云う音を心の中で立てながら、ゆっくりと首を回すと、そこには、不気味な笑顔を浮かべ、まるで仁王像のように立ちはだかる鎌房様の姿が視界に飛び込んで来た。その笑顔は、夏の日差しよりも眩しく、そして恐ろしい。彼の纏う殺気に、僕は身を竦める。
「そう言う兄様も本当の所、妾はどうなってるんですか?」
だが、阿喜多様は、そんな鎌房様にも臆することなく、真っ直ぐに問いかける。彼女の肝の据わり方には、いつも驚かされる。
「おう、阿喜多。元気そうで何よりだ。え、俺か?天下に近づくにつれ、暗殺の危険が高まるし、もう怖過ぎてそんなの出来ない。義弟よ、貴殿も当主なのだから本当に気を付けた方が良いぞ」
鎌房様は、阿喜多様の質問を巧みにかわし、僕にまで忠告の言葉を投げかけてくる。だから、いきなり振られてもそんな急には応えられないです。僕の頭の中は、先ほどからの殺気と、意味不明な会話でごちゃ混ぜになっている。
「あっ、はぁ……」
またしても、適当な返事をしてしまった。我ながら情けない。まったく、僕はいつもこうだ。
「うちの姫ちゃんと、阿喜多が何か迷惑を掛けたりしてないか?」
そんな僕に対して、何も無かったかの様に振舞って下さる鎌房様。その表情は、まるで聖人のように穏やかだ。優しそうに見える。本当に、何を考えているのかわからない。
「北の方様も阿喜多様も優しい御方です。こちらの方が御迷惑をお掛けしていないかどうか……」
僕の返事を聞いた鎌房様は、少し驚いた目で僕を見た。その瞳には、ほんのわずかな困惑が宿っている。何か変な事でも言ってしまっただろうか。
「え、あぁ……阿喜多様?様っ?!」
鎌房様の声が、僅かに上ずる。
「何かおかしいでしょうか?」
と、僕。当然の疑問を口にする。すると、鎌房様は、
「いや、おかしいでしょ。この時代、なんで自分の嫁さんに様付けるん?」
嗚呼と、ようやく納得した僕は、素直な気持ちを口にする。
「怖いですから」
とだけ言っておく。だって、阿喜多様は、普段はとても優しいけれど、怒ると本当に怖いんだ。鎌房様も、その剣術の腕とは裏腹に、意外と気弱なところがあるのかもしれない。
「え!いや、本当に申し訳無い。うちの阿喜多が何か気分を害してしまう様な事をしてしまって、本当にお詫び申し上げます。今、紀伊を攻めるのは何卒、どうか御容赦を」
おい、阿喜多も謝れと、言いながら、鎌房様は畳に深々と頭を下げる。な、何が起こったんだ?僕は慌てて誤解を解く。その場にいた他の者たちも、困惑した表情を浮かべている。
「頭を上げてください。何か勘違いなされている様ですが、阿喜多様は僕なんかに勿体無い女性です。僕が言ったのは、鎌房様は織田信長殿と仲が宜しいと風の噂を聞いたので……」
もし、僕が何かしでかしてしまったのならば、東西挟み撃ちになって家を潰してしまうなと、思っての事ですと、僕が言うのを遮って、鎌房様は、
「嗚呼、うん。兄として、可愛い妹を殺したくないし、一条家としても織田とは戦いたくないね。」
と、仰った。その言葉は、どこか宙を漂っているようで、僕の質問とは全く噛み合っていない。余り噛み合って無い様な気がする回答に僕は戸惑ってしまう。彼の思考の速さに、僕の頭が追いつかない。
やはり、御父上に家督を継いで貰うのは早かったかもしれない。僕には、まだ荷が重すぎる。
この直後、鎌房様は紀伊の雑賀衆と熊野海賊衆が反乱を起こしたみたいで、爽やかな笑顔と共に紀伊へ向かって行かれた。その笑顔は、まるでこれから遠足にでも行くかのようだ。
反乱と聞いても、恐れず驚かず怯えない。それどころか、笑えるなんて、やはり天下人は器が違うんだろうな。僕には、到底真似できない。
この夜、御父上に、僕の自室で向かい合う。父の顔には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「僅か4年でここまでの差が出るのでしょうか?」
と、聞いてみたが、御父上は静かに笑って、
「嫉妬はいかんぞ。己を知れ」
と諭されてしまった。その言葉は、僕の胸に重くのしかかる。鎌房様が織田と仲良くされている事について意見すれば、
「そこを突っついても何も益が無い。それより、我々、北畠家と仲良くする方が良いと、鎌房殿に訴えねばならん」
と、難しい顔をしながら言われた。僕の言葉は、父には届かなかったのか。もしかして、お昼間の受け答えは悪かったのだろうか。僕は、また何か失敗をしてしまったのかもしれない。
「はぁ……」
先程から、御父上の失望した顔が何度も蘇ってしまう。僕は自室で盛大に溜め息をつき、隠し持っていた酒を呷る。冷たい酒が、喉を焼くように流れ込んでいく。
そして、ボリボリと、ぽてとちっぷすとやらを摘み食いする。サクサクとした食感と、塩辛さが、わずかながら僕の心を慰める。もう、食べて飲まなきゃやってられない。
「殿!」
そこに、扉を開けて阿喜多様が入ってくる。彼女の表情には、明確な不満と、しかし心配の色が浮かんでいる。阿喜多様が諌めるが、もうほっといて欲しい。
「触らないで下さい」
僕がそう言うと、彼女の眉間に皺が寄る。
「何故です?それよりもこんなに沢山食べては駄目ですよ」
阿喜多様は、僕の手を掴み、ぽてとちっぷすを皿に置かせようとする。その強い意志に、僕は辟易する。物凄く邪魔だ。
「もう、ほっといてくれ!どうせ君は鎌房の間者で、君だけは助かるんだろ!僕の事なんか全然分からない癖に!北畠家は滅ぼされるんだよ!」
感情に任せて怒鳴り散らしてやった。喉が嗄れるほど叫び、ようやく、胸の奥に溜まっていたものが少しだけスッキリした。そして、思いっ切り、ぽてとちっぷすを食べるんだ。もうどうにだってなるさ。もう、何もかもがどうでもいい。僕の未来は、どうせ暗いのだから。
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