「サルトルとラカンにおける眼差しの理論」(論文)
番場寛 著 大谷学報 85(1), 1-16, 2006-02
・サルトルの眼差しの概念
「眼はまず知覚器官としてとらえられるのではなく、眼差しの担い手としてとらえられる」
眼差しを主体がとらえられるときには、眼は知覚されず破壊される。
「想像」しながら同時に「知覚」することはできない。(サルトル「想像力の問題」)
1.
・サルトルの「恥辱(honte)」の感情。
「他者(autrui)」という概念。
「恥辱とは、『私はまさに、他者が眼差しを向けて判断しているこの対象である』ということの承認である」
そしてその他者とは、
「私に眼差しを向けている者であり、私が眼差しを向けていない者である」
また
「もし誰かが私に眼差しを向けているならば、私は対象であるという意識をもつ。けれどもこの意識は他者の存在のうちに、また他者の存在によってしか、生じない」
2.達磨について
日本の文化においては目を大きく描いて強調するものと、強調しないものがある。
3.『箱男』安部公房
「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる痛みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ」
「私たちが車椅子を使うような障害者や老人を見るときの眼差しにはおそらく愛がこもっているかもしれない。しかしそういった眼差しで見つめられる側の人間には、いい迷惑と感じられるかもしれないのである」
『他人の顔』
主人公はポール・クレーの絵について「やがてぼくには、その絵がまるで彼女の眼にうつった、ぼく自身の顔のようにさえ見えてくる……。見られるばかりで、見返すことのできない、偽りの顔……」と言う。
「主人公は見られることの不快さを感じることなくもっぱら見るだけの主体になることを望む」
「見る見られるという相互主観的な眼差しのテーマ」
ラカンのサルトルとの違い
「私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとは見ていない、というのは事実ではありません」
「他者の眼差し」の概念
この図の左の眼差しにとって、主体は絵の一部でしかない。これが主体における恥辱の感情を引き起こす。
『箱男』と『他人の顔』の主人公は段ボールや仮面をつけることで、この恥辱の感情から逃れることができる。
これは「視覚の図」の中の他者の眼差しに基づいた三角形を破壊すること。
「他者」と「表象の主体」
「視覚の図」は、見ている主体が眼差しに出会うとき、その主体は他者の眼差しの絵の中に位置づけられる。両者の三角形とは中央で交差し、その部分が像であると同時にスクリーンとして機能する。
「眼と眼差しを視覚欲動を喚起し、欲動が向けられる何かとして扱ってきた。この欲動は全ての人間に普遍的なものである」
達磨の目入れが意味する眼差しの感情的な力
「無意識とは政治である」(ラカン)
4.達磨の人物像とその教え 5.「眼睛」
いきなり禅の話にシフトしたよ……。
6.オイディプスの眼差し
「視力の喪失と知の獲得」
オイディプスの目を突く行為の解釈
「純粋な眼差し、剰余享楽の対象」である自分を自覚し、目を突く行為で、「母親に対する欲望を断念することで人間が文化に入る条件としての「去勢」を行う。
視力を失うことで「眼差し」を得る。
「知」に基づく「眼差し」が「主体」に働きかけ、「運命」を生み出す。
「視覚の領域における対象aは眼差しです」
「剰余享楽」「剰余としての眼差し」
「キネによれば、象徴秩序としての文明においては、象徴化できずに排除されるものが出てくる。それは「眼差し」と「声」である。その二つの対象は超自我として、「監視」と「批評」という二つの機能を持つ。「眼差し」と「声」という剰余としての「対象a」を排除したことが、人に罪悪感を引き起こし、それがフロイトの言う「文化の居心地のわるさ」である。
「文明の象徴的なものから除外された眼差しと声は文明に居心地の悪さをもたらしながら、屑として回帰する」
「社会的他者の「眼差し」により主体は見る存在から見られる対象に変わり、そのことに主体は苦しむのである。
結論
サルトルは、見られている主体の感情を乱す「他人」眼差しの力を強調。
安部公房は見つめられることの不快さを強調。
しかし、見つめられることの中には、快感を引き起こす何か、その不快さの傍らにある何か、ラカンの言う「享楽」がある。
「剰余としての眼差し」とも言える「対象aとしての眼差し」
対象a =欲望の原因
【wikiの「眼差し」】
精神分析
精神分析におけるまなざしは「最も強力な人間の力」。
ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』 の「対象「a」としての眼差しについて」
まなざしを自己形成において極めて重要なものとして位置づけた。
「視覚によって、構成され、表象のさまざまな姿にとって秩序づけられる、我われと物との関係において、なにものかがだんだんと滑り、通過し、伝わり、いつもいくぶん欠けることになります。それが眼差しと呼ばれるものです」
まなざしが「見えない状態でいたるところに遍在しているのではなく、「眼差しは見られるのだ」ということ」、及び「「欲望」の機能がそこで働いているということ」に着目した。
参考文献:ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』
前半は興味深かったのに、禅と絡ませた辺りから、意味が取れなくなってしまった。全然頭に入ってない。
知りたかったのは、発達段階としての鏡像段階での母の眼差しについて。
達磨の目に象徴される「強調された」大きな目は、超自我としての監視する眼差しのように思えるけれど。
一神教の超自我としての神と対立する東洋の神仏が半眼であったり、細く閉じられたりするのは、目こぼしや目をつぶる、の表現に象徴されるように、遍く超自我から逃れることもまた、神の慈悲のうちのような曖昧な宗教感に立脚している倫理観があるからではないだろうか。
そのため、ここで扱われている眼差し=超自我には納得できる。
でも、眼差しの役割はそれだけではないと思うの。