「わかる、使える「論理思考」の本」その2(哲学・思想)
Lesson Ⅱ 演繹を使いこなそう!
1.風鈴はロジックではない
・なぜ同じ前提なのに逆の結論になるのか?
→「風鈴ロジック」 1つだけの前提から1つの前提を導く構造になっている論理の組み立て
例)「自然は貴重である」→「林道をつくるのはやめろ」
→「観光道路をつくれ」
万人が納得する主張とはなり得ない。
「嫌だと言ったら嫌だ」というように、同じことを繰り返しているか(同意反復:トートロジー)、前提が欠けた不充分な議論であるかのどちらか。
・隠れた前提を見つける
大前提が同じでも、小前提が異なれば結論はまったく違うものになる。
構造をはっきりさせて、その主張には隠れた前提がないか、その前提がどの程度正しいか、その主張全体がどこまでしっかりしたものか、を考える。
2.前提にはいろいろな種類がある
・3つの前提
1.いつでも常に正しいと主張できる真理
=数学の定理や化学の法則
2.人間社会が決めた取り決め
=法律や規則、社会がそれを認める範囲で「正しい」
裁判は演繹構造
大前提:刑法・過去の判例 小前提:事実・情状 結論:判決
・道徳や経験則も前提になるのか?
「文化」は、1つの社会に共有のものとして存在する=前提たり得る、「取り決めや価値観、その結果としての人々に共通な行動様式の総合体」
3.その他の一般に用いられる前提
=前提の正しさの程度、適応範囲などにいろいろの差
3.前提を疑ってかかる
演繹形式の論理は、常に正しいわけではない。
→前提の種類、その前提の厳密さ、どの範囲まで通用するのか、どこまで正しいか、ということを考える必要がある。
日本人=前提は共有化されやすい、同じ文化背景
アメリカ人=前提は共有化されにくい、異なる出自、文化背景
共通の文化的背景がなければ、議論をするときには、まず前提をたしかめる。ルールを決めて、それをもとに考え方を展開する。
彼らと話をするときには、「前提を明確にしてそれを組み立てて、論理的に話さないと、コミュニケーションが成り立ちにくい」
イギリスもそうだと思っていたけれど、ビルさんは違った。でもこういった文化的背景は確かにあったから、彼よりもロジカルに論を進められる私は、彼に尊重された。
できないと議論に参加できない、相手にされない恐怖のようなものは確かに感じられた。
あーこさんに、「母ちゃんは、自分とは違う、から始まるけれど、大抵の人(日本人)は、自分と同じから始まる」前提が違うから噛み合わなくて当たり前のようなことを言われたのを思いだしたよ。
・前提は変化する
自分の意志決定や行動が、どういう論理構造からできているか、多くの人は考えようとしない。
・前提を疑う必要は…
成長が確実なら、議論をするよりも、早く、うまくやるほうがいい。
だが今は「なにをするか」を抜本的にかんがえなおさなければならない時代。
「全体を疑ってかかりましょう」
「前提がなんであるかまずたしかめましょう」
その前提が絶対のものでないなら。
「なにをするべきか、なぜかをゼロから考えましょう」
4.前提は事実の裏付けをもって常にたしかめていることが必要である
過去の経験に学んだ「経験則」を将来も通用する「法則」だとして演繹的に考えると、行動習慣に固執することになる。
経験則はそこに事実があって、はじめて検証される。
「前提は単なる仮説にすぎない」
目で見て検証できるもの以外は前提にならない。
5.仮説を置いて考える
帰納の方法論:仮説→経験則→一般化・法則化、万人に通用する法則に近づく→拡大解釈・意味づけ
仮説は実験によって確認され、再現性がたしかめられることにより、はじめて真理として主張できる。
社会科学の現象は、理想的な状態での実験ができず、常に条件・状態が違うから100%正しいと主張できない。
「再現性が比較的高い仮説」の域を出ない。
われわれが日常の体験から編みだす法則のようなものは、常に「仮説」にすぎず、常に疑い、検証し、確認しながら適応しなければならない。
事実認識の特徴をよく自覚しておく必要がある。




