「小僧の神様」(小説)
志賀直哉 著
よくバトンや自分語りタグなんかにある質問で、「一番好きな作家は?」は、不動のドフトエフスキー。「好きな本は?」その時々で変わる。「座右の書は?」と、ここではたと立ち止まった。これまでの人生で一番振り返ることの多い本、迷っている時に思いだす本こそ、座右の書といえるのではないだろうか。
それがこの「小僧の神様」なのです。
志賀直哉の本を初めて読んだのは高校のとき。「城崎にて」の文体に一目ぼれだった。「小僧の神様」は同じ文庫に入っていたから読んだんじゃないかな。この話が特に好きというわけではない。けれど、私は、いろんな場面で、この短編に書かれてるテーマを思い返しては頭を悩ませることになる。
17歳でインドを旅した自分の心に常にあったのもこのお話。
「小僧の神様になってはいけない」と肝に銘じていた。
大正時代の貴族院議員と小僧さんの間にある格差を、金持ち旅行者としての自分と、施しをねだる子どもたちのうえに重ねて考えていた。
客観的に、現実はどうなのかを考えるなら、わずかな小銭を差し出すことは、小僧の神様のような影響力を受け取る相手に与えることはないだろう。だからここで自分を迷わせているのは、小僧さんを喜ばしてやろうと寿司を奢った議員の心に生まれたもやもや、すっきりしない嫌な感じ。このその場限りの「無責任な善意」をどう扱うかについてだ。
この小説の解説でよく目にするのが、「魚を与えるよりも釣り方を教えろ」その場限りの施しではなく、生きる術を教えるべきであるというもの。発展途上国援助でもよく耳にする、金を出すよりも技術援助を、だね。
それは確かに正論なのだけど。
小僧さんは、店で働いている。釣り方を教えなければならないほど困窮していない。このまま真面目に働いていれば、何年か後には屋台の寿司を食べられるくらいにはなっているかもしれない。
けれど、今、惨めさのなかにいる幼い者への同情であり、善意を示すことは、頑張っている者を神様は見ていて、思いがけない形でご褒美をくれるよ、とそんな希望を小僧さんにくれるかもしれない。そんな自分を取り巻く世界からの善意の肯定が、生きていく上での支えになるかもしれない。
けれどもう一方で、
自分の在り方とは関係なく幸運は空から降ってくるもの、と、また誰かが寿司を奢ってくれるのを期待する、あるいはもっと積極的に自分への施しを暗に要求する。そんな依存心を小僧さんに植え付けてしまうかもしれない。
「魚ではなく釣り方を」は、そうなってしまうことへの戒めの格言でもあるよね。
どちらに傾くかは、小僧さんの資質によるだろうな。
それからずっと、「無責任な善意」と向かい合うたびに、自分がどうするべきか迷い続けている。
受け取る相手にとってどういう意味を持つのか。
相手が子どもであればよけいに、大人は無頓着にこんな善意をまき散らす。甘いお菓子にいたるところで子どもを誘惑してくるおもちゃや娯楽。子どもらは、ものが欲しいのではない。自分にお金を使わせることが、自分を肯定されることと捉えている。
与える側はわずかな小銭で子どもを喜ばすことが、「無責任な善意」だと思いもしないだろうな。
ねだれば与えらることが普通で、子どもに我慢させることが虐待のように言われる世の風潮のなかで、欲望のコントロールを身につけさせることが難しく感じる。
そしてさらには、釣り方を教えようとしたところで、欲しいのは魚だ。魚をよこせと言われる現実もある。




