「子どもに愛はいらない―精神科医がみた子どもの育て方」(教育)
正岡 哲(著) 単行本 – 2005/3/1
引っ越ししてから初めて図書館に行った。裁縫の本を借りるためです。子ども図書館の一部に親向けのコーナーがあり、たまたま目についたもの。なかなかセンセーショナルな題で目を引くよね。
著者の主張は、子育てには、子供自身を「認める」「信じる」ことが一番重要で、この二つは「愛」の定義には含まれていないというもの。著者の意味する「愛」はおおむね「慈しみ」。慈しむというのか、可愛がる、いろんなことをしてあげる、そんなイメージかな。
最近、SNSで流れてくるコメントや漫画で、「愛」の定義というと違うかもしれないけれど、愛という言葉に含まれる意味とか、使い方、受け取り方が変わってきてるな、と感じることがしばしば。
昔に比べて、自分勝手で自己中心的な自己愛を、「愛」という言葉と一緒にぶつけられる側が辟易としている、そんな物語がふえたなぁ、って印象。あくまで個人的な印象です。昔は、自分勝手な愛を理解し受容することこそが愛、みたいな考え方がまだまだ正道だったような気がする。ん十年前か……、そりゃ変わるわな。
例のなかに、悪い子の親が自らを省みて良い親になろうと優しくする。そうすると子どもはそれは本当に親が変わったのか確認するために、さらに悪い行動をする。親は我慢できなくなって怒ってしまう。ほらやっぱり、と子どもは元の木阿弥になる。
という話がある。この本以外でも、よく見る話なのだけど、抽象的すぎていつも混乱する。
悪い子の悪い行動が、親と子の閉じられた環境の中での話なら、殺される覚悟で挑めっていうのもわかるけれど、子どもの悪い行動ってのは、まぁ、第三者を巻き込むものじゃないのかな。暴力にしろ、盗みにしろ、いじめにしろ。
この場合、子どもを「認め」「信じる」親の正解の行動は?
子どもは親に自分の能力や良いところを「認められる」ために、様々な行動をする。親はどのような態度をとれば子供は認められたと感じるのだろう。
薬物乱用や自傷行為が、親に「認められる」ための行為だとして、子どもを「認める」「信じる」のは、その行為を認めることでも、その状態にいる相手を信じることでもないと思う。子どもの本質を善であると認める、その状態から決別できると信じると言ったところで、それが子どもの欲しい「認める」「信じる」なのだろか、疑問に思う。
万能薬のように誰にでも効く言葉はなくて、その子どもたち一人一人、認められた、信じてもらえてると思える言葉や状況は違うんだろうな。
そして、認める、信じるという言葉は危険な面も含んでいると私は思う。身近な誰かに褒められた経験が自尊感情に繋がるにしても、その匙加減は難しい。褒められることで自己を過大に評価し、理想化された自分と現実のギャップに苦しむことになる。
それにしても、事例としてあげた凶悪事件を起こした人格形成を全て家庭の(あったかどうかも分からない)虐待環境に起因づけるには、根拠が乏しいように思う。
能力の基礎や人格形成は9~10歳で完成し、以後変わらない、とか、どんな根拠で言ってるんだろう。
新聞や週刊誌記事からの検証としては薄っぺらい。




