「影の現象学」その1(精神分析)
河合隼雄 著
影はすべての人間にあり、ときに大きく、ときに小さく濃淡の度合を変化させながら付き従ってくる。それは「もう一人の私」ともいうべき意識下の自分と見ることができる。影である無意識は、しばしば意識を裏切る。自我の意図する方向とは逆に作用し自我との厳しい対決をせまる。心の影の自覚は自分自身にとってのみならず、人間関係においてもきわめて重要である。刺激に満ちた万人必携の名著。
第一章 影
一 影のイメージ
ずっと心に残っていた影をなくした男の話、題名は「ぺーター・シュレミールの不思議な物語」っていうのか。
「まず影を、その後に、金を尊重することを学びなさい」
アンデルセンの「影法師」は知らなかった。
・影を捕まえることで、本体に危害を加える。
イメージ= ・外界の模像 知覚対象のない場合に生じる視覚像
・内界の状態の反映 無意識的空想の活動に基づくもの、内的欲
求への適応によって方向づけられる。
エリアーデ「イメージはその構造上『多価的』なのである。もし精神がイメージを用いて事象の究極の実在を把握するとすれば、それはまさしくその実在が矛盾したしかたで顕現するからであり、したがって諸々の概念によっては表現され得ないからである」
イメージは不可分の意味の束のようなもの
イメージを見る主体としての「私」
記憶・感情・思考・知覚などのすべてはある程度の統合性を有し、ひとつの人格としてのまとまりをもって存在している。
意識の統合性の中心=自我=意識経験の主体
自我は心の動きのすべてに対して、完全な主体性をもっているものではない。
影が主体性を奪って、もとの自我を殺してしまう。
自分の無意識に動かされて行動し、後になってから後悔しても、自らの破滅を防ぎきれないようなことが起こり得る。その無意識の心の動きを把握するものとしてイメージがある。
人間の意識領域=自我によって統合、言語によってその内容を把握する。
自我によって把握することが難しいものほど、言語化することが難しい。
意識と無意識の中間領域あたりの動きは、イメージとして把握される。
夢を分析することで、自分の無意識界の動きや在り方を推察できる。
夢ではなく、外界の知覚に際してもイメージの動きが認められるときがある。
他人に秘した悪事をもっている→自分の話をされていると感じる。
無意識的な怖れの感情が、そのようなイメージを提供するため、外界の知覚を歪曲させる。
自我の力が弱い場合、外界の知覚と内界のイメージとは融合が生じやすい
例・朝日(外界)=神(内界)融合し、ひとつのものとして体験される。
あー、解るわ。インドでの宗教感覚そんな感じだった。
・投影法 例・ロールシャッハテスト
刺激やテスト場面をあいまいにして、被験者がなんらかの意味で、そのイメージの世界にかかわる反応をせざるを得ないように工夫されている。
ふと、小説の感想って、見方によっては投影法のようだなと思った。読み手が作品というイメージ世界のどの部分に反応するか。どんな想いを持つか。自らのイメージ世界である小説を提示するよりもよほど、読み手の人間性が示される。だから私は感想を書くのが嫌なのかな。当たり障りのないことしか言えない。相手を傷つけることなく、上手に感想を言えるようになれればいいな。
二 ユングの「影」概念
・人はそれぞれの人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体としての自分を把握している。
→相容れない傾向は抑圧されたか、取りあげられなかったか、その人によって生きられることなく無意識界に存在している。
それがその人の影である。
影の背後に存在する異性象の問題は非常に重要。
影の生き方を取り入れることによって、自分の心のより深い部分と交わることができる。
「影の要請」影は自我への「入会」を要請する。
解らない夢を無理に説明し去るようなことをせず、不明なものは不明なものとして心に留めておくことが大切。
知的な「解釈」のみではなく、このような夢にともなう感情の流れも大切なこと。
自我が影を取り入れることに葛藤を感じた状態のまま、夢は解決策を明示することなく終わることも。→目覚めた自我の決定にまかされる。
影の取り入れは成功すれば創造的であるが、失敗したときは破滅につながってゆく。
イメージは生命力をもつが明確さを欠き、概念は明確であるが生命力を欠く。
影を明確に把握しようとして白日のもとにさらすと、それはもはや影の特徴を失っている。
影は、個人に体験されることとしては、まず無意識の全体を被うものとして体験される。→後に分化されてゆく。→個別的な性質をもち、それがどのような点で、自分の無視してきた側面をあらわしているかが明らかになってくる。
影との対決はそれにふさわしい「時」があり、自分の力も省みずに行うときは、非常に危険なことになることを忘れてはならない。
無意識の内容の意識化→異性象で表わされる心的内容が生じている。
・心の構造
ある心的内容が感情によって色づけられた集合体をつくり、それが自我の統制を乱すはたらきをもつ。→コンプレックス
個人的無意識(コンプレックスはこっちの内容)と普遍的無意識
元型は人類の無意識内に存在する表象可能性であり、それを意識化してイメージとして把握するとき、それは元型的なイメージとなる。
元型としての影
影のイメージ
それも個人的色彩の強いもの
普遍性の高いもの 、などを区別する。
普遍的な影は人類に共通に受け容れがたいものとして拒否されている心的内容で、それは「悪」そのもの。
個人的な影は、ある個人にとって受け入れがたいことであっても、必ずしも「悪」とはかぎらない。
・自我 意識の統合の中心
・自己 意識・無意識を含めた心の中心、自我の一面性を常に補償するような働きをもち、夢の中では曼荼羅などの幾何学的図形によって、その統合性と中心性を顕現する。
現実の人物は魔法の幻灯によって映された影にすぎない。それでは幻灯を操作するものは誰か。ユングは「自己である」と答える。
私が意識し、私が知っている私の背後に存在する、真の私とも言うべきものが自己。
われわれは元型としての自己について知り得べくもないが、その働きやイメージを意識化することができる。それを通じて自我のかたよりをなくしつつ、あくまで真の自己へと近似いつづける過程が、自己実現の過程。
自己実現の過程において、影、アニマ(アニムス)、自己の元型は非常に大切。夢分析の過程ではこの順番に顕現してくる。
影は最初に体験されるものとして、他の元型と混同した形で現われやすい。
分析の初期には影の像と自己の像を見分けることさえ困難なときがある。
われわれが内心の声に耳を傾けるとき、それはいったい影の声なのか、自己の声なのかを聴き分けることが非常に難しい。
今日のように現体制に対する批判と改変が強く要求されるときには、われわれはそのアンチテーゼとしての普遍的な悪についても考慮を払わざるを得ない。




